エスパルディア・Ⅲ
エスパルディア国内、グレンツェスト領にある、浄化の神殿。
馬車からオーウェンのエスコートで降りる聖女様を、神殿長を始め神官たちが総出で出迎えている。
「ようこそおいでくださいました、聖女様」
壮年の神殿長は皺の多い顔に穏やかな笑みを浮かべながら、深く礼をした。後ろに控えていた神官たちもそれに習って頭を下げる。その光景はなかなかに圧巻だった。
「長旅でお疲れでしょう。まずはお部屋へご案内を」
慣れない馬車での移動で少し聖女様の顔色が悪い。オーウェンは心配そうに聖女様の顔を覗き込むと、その手をそっと握り込む。
そのままふらつく聖女様を支えながら部屋の前までくると、オーウェンは託すように私とブリジットさんを振り返った。
「あとは頼むね」
部屋の中は私たちが護衛担当となる。外から心配そうにこっちを見遣るオーウェンに頷いて、ブリジットさんが扉を閉めた。
聖女様はその夜、熱を出した。
神官見習いの少年に頼んで、その日の晩餐会は取り止めてもらうように伝えてもらう。
伝言を伝えてくれた少年は、夕食はいつでも食べられるように各自の分を食堂に用意しておくと告げ、退出していった。
「ソフィ、先に休むか?」
ベッドにぐったりと横たわっている聖女様のために氷水を作っていると、ブリジットさんから声をかけられた。
「いえ、……聖女様のために作りたい魔術具があるので、できれば先に休んでいただいたほうが助かります」
「それは構わないが……ソフィも休まなくて大丈夫か?」
私のことまで気にかけてくれるブリジットさんに微笑み返す。
「ありがとうございます。でも私のことは気にかけてもらわなくても大丈夫ですよ」
「そうか……」
ブリジットさんは少し躊躇ったが、先に食事と入浴を済ませることにしたようだった。
「あ、ブリジットさん」
聖女様の額の布を変えながら、出ていこうとしたブリジットさんに声をかける。
「その扉、少し開けていてもらえませんか」
怪訝な顔になったブリジットさんに、言い訳するように説明する。
「扉を開けていたら、中の話し声も聞こえてオーウェンも安心するでしょうから」
ブリジットさんは僅かな間、ちょっと訝しげに私を見つめていたけど、結局「そうか」と一言呟いて、立ち去っていった。
外でブリジットさんがオーウェンに私が言ったことを説明する声が聞こえる。その声を聞きながら、チラリと赤い顔で眠っている聖女様に視線を遣る。
もしも今聖女様の身になにかあったら、真っ先に疑われるのは私だ。
もしも今物語の強制力が働いて、私が聖女様を害してしまったら。故意ではなくても、不慮の事故ということもある。もしもそうなってしまったときはすぐにオーウェンを呼べるように、扉は開けておく必要があった。
「ソフィ? 大丈夫?」
「はい、今のところ聖女様は眠っていらっしゃいます」
オーウェンからかけられた声にすぐに返す。このくらい物音が聞こえていれば、滅多なことを言ったりしたりしない限り、害意があると疑われることもないだろう。そのことにやっとホッと一息つく。
「なにかあったらすぐに呼んでね」
それに頷きを返しながら、荒い息で魘されるように眠っている聖女様のところに戻る。
あとはただひたすらに、黙って氷水を作っては、聖女様の額の布を冷やすために変えていた。
隣の控室から出てきたブリジットさんに声をかけられるまで、聖女様のタオルを変えつつ、布に魔術をかけていたからあっという間だった。
「ソフィ?」
かけられた声に顔を上げると、眉根を寄せているブリジットさんに、製作途中のものを掲げてみせる。
「持ってきていた魔術書に、保水と保冷の構築文が載っていました。魔術素材ではないので、あまりかかりはよくないですが、まあないよりかは幾分かマシかなと思いまして」
そう言って再び桶いっぱいに氷水を出した私に、ブリジットさんが苦笑を浮かべる。
「本当にソフィは魔術のことになると楽しそうにするな」
微笑ましげに笑われて、夢中になって魔術具を作っていたことに恥ずかしくなる。
「……すみません。こんなときに」
「なぜ謝る。ルナのためにがんばったんだろう。ルナもきっと喜ぶ」
ブリジットさんが軽く聖女様の汗を拭くのを見て、立ち上がった。
「それでは私も休憩に行ってきます」
ブリジットさんは軽く手を上げ、それにお辞儀を返して部屋を出た。
入浴から戻ってくると、部屋の外の護衛はセヴランさんに変わっていた。
「おー、お疲れ」
頭を下げた私に軽く片手を上げて、応えてくれる。
「今から食事か?」
それに頷きを返す。
「食堂のカウンターに各自の分は置いてあるそうだから勝手にとって食べていい、だとよ」
それにお礼を言って、食堂へと向かう。灯りだけが煌々とついた食堂内には誰も居なくて、それにホッとしながら、カウンターの上に置かれていた皿を手にとる。どうやらホットサンドのような軽食を用意してくれていたようだった。
「ソフィ」
かけられた声に肩が跳ねる。振り返ると、後ろにライルがいた。
「ライル」
「休憩か?」
頷くと、「私もだ」と横に並ばれる。
「ルナの調子はどうだ? 熱は下がりそうか」
その言葉に手が滑って、料理ごと皿が床の上へと落ちていった。
耳障りな音を立てて割れる皿、無残にもぶち撒けられた料理。――もう、なにもかもが台無しだ。
「ソフィ! 大丈夫か」
慌てて拾おうとした私の肩を、引き止めようとライルが掴んでくる。
「ソフィ?」
「あっ……その、ごめんなさい」
視線を避けるように慌ててしゃがみこんで、こぼした料理を慎重に片付ける。
「勿体ないことをしちゃった……せっかく作ってもらったのに」
「それよりもだ、怪我はないか?」
ライルまで手伝おうとしゃがみ込んできたのを、片手で押し留める。
「ライルは先に食事してて。私はちょっと片付けてくる」
「いい、手伝う。それに食事なら分け合えばいい」
「いえ、そんなわけには」
「ソフィ」
覗き込まれるように、ライルが顔を近づけてくる。思わず瞼を伏せた。
さっきから動揺が止まらない。
私はなぜ、あんなにも狼狽した。平静さを失った。そしていまだに落ち着きを失っている?
「いったいどうした? 少し様子がおかしいように見える」
遠慮なく肩に置かれた手に、体が震える。それに気づいたライルが一瞬、戸惑うように動作を止める。
「……私も旅の疲れが出たのかも」
それで誤魔化せるとも思えなかったが、ライルの手は離れていく。数拍置いて安堵のため息を吐き出した。
さっさと片付けて控室に戻ろう。朝まで眠ってしまえばなにを考えることもなく、朝食まであっという間だろう。
ライルは断ったにも関わらず隣で片付けを手伝ってくれたが、終わって部屋へと戻ろうとすると今度は咎めてきて、無理やり押し切るように隣の椅子へと座らせてきた。
そして目の前にライルの分の食事を置かれる。……うーん、とてもじゃないけど、自分のうっかりで台無しにしてしまったのに、人のものを横取りしてまで食事をする気になどならない。
「いらない」
首を振る私に、ライルは怒ったように眉を上げてくる。
「ソフィ」
「私はいいよ。お腹空いてない」
誤魔化すように笑う。笑顔を出せるくらいには、先程の動揺はなんとかもう落ち着いてきていた。
「そうは言っても君まで倒れたら大変だ。ほら」
「いいって、明日の朝余計にもらうから」
ライルの前に押し返した皿に、ライルはふと考え込む。おもむろにホットサンドにナイフとフォークを入れると、綺麗に一口分切り取った。そしてそれをフォークに刺して私の口元に運んでくる。
「……なに?」
ライルはなにも言わず私をじっと見つめたまま、口元にフォークを差し出したまま動かない。
「あの……」
困りきって手で押し返そうとして、その手を避けるように唇にあてがわれた。向けられたアイスブルーの瞳からは、てこでも動かない彼の意志がひしひしと伝わってくる。唇にめり込むように押し付けられてきたフォークに早々に音を上げて、わずかにだけ、口を開く。
私が渋々食べたのを見てライルは満足そうに微笑んだ。そしてまた一口分切り取って差し出してこようとする。今度こそ拒もうと立ち上がろうとするも、引き留めるように手を掴まれる。
「ライル、もういいよ……」
抗議の声をあげようとして、また口内に押し込められる。
「これは、どういう……」
ライルが切り分けている隙に、両手を上げて観念の意を伝える。
「もっと食べろ」
「もういいってば」
困ってしまって眉を下げると、ライルはクスクスと笑い声を漏らし始めた。
「……なんで笑うの」
「すまない、なんだか……餌付けしているみたいで」
「もしかして楽しんでないよね?」
「だからすまないと謝っている」
顔を背けた私に、ライルはなだめながらも放してはくれなかった。
「もう勘弁して……」
「人の好意はもっと素直に受け取っておけばいい」
辟易している私を尻目に、彼は随分と楽しそうにフォークを差し出してくる。
「気遣ってくれるのはありがたいけど、私もう行くよ」
「ソフィ」
その声音がまるで縋ってくるみたいだったから。戸惑ったまま笑いを収めたライルの顔を見つめる。
「私がそうしたいんだ。これは自分本位の行動だと言ったら? 私がそうしてほしいと言ったら、君はここに残ってくれるか?」
せっかく久しぶりに二人きりで食事ができると思ったのにと少し拗ねたように言われ、どう答えていいかわからなくなる。
戸惑ったまま固まってしまった私の口にまた一口詰め込んで、ライルはしてやったりとばかりに微笑んだ。




