聖女との邂逅・Ⅱ
ティリハ国内のエルオーラにほど近いところにある、エレンドニラの神殿。
そこには、涙を流す乙女像が安置されている。
その乙女が持つ水瓶に涙が満ちたその瞬間、聖女はこの世界に降り立つのだ。
その様子はえもいわれぬ美しさと神秘さに満ちており、一度目にした者は二度とその光景を忘れられないという。
その様がかつてこのエルオーラの地に現れ魔術をもたらしたと言われているかの一族の逸話と似ていることから、聖女の不思議な力はかの一族のものではないかという者もいる。
世界の平穏を願うため。そう銘打って幾度も行われきた聖女による浄化の旅は、人々の心を打ち、やがて民を、国をも感化して、今では一種の祝祭のような大々的なものへと変貌を遂げた。
これは今回の主催国であるエスパルディアが聖女のために総力をかけて準備した巡礼の旅、というわけだ。
今はその聖女が旅に出るための準備期間だ。
専属の講師を何人もつけられ、この世界について聖女に学んでもらっている。
それを後ろで眺めていると、退屈そうに壁にもたれかかっていたセヴランさんが話しかけてきた。
「そういえば、もう聞いているか? 公式試合のこと」
「ええ」
学院に使者として来ていたサイラスが言っていた、公式な手合わせというものが近々行われる。
この手合わせで成果を出せるかどうかで、私たちの“ブランドン魔術学院卒の魔術師”というものの価値が決まる。
「お相手が精鋭揃いの騎士ばっかりなんだが……そっちの兄ちゃんはともかく、ソフィは大丈夫か」
「騎士フォール、ソフィはあのブランドン魔術学院を卒院した魔術師だ。どうしてそんなことを確かめる?」
「いやまぁ、どうしても小さいころの姿がチラついてなぁ」
セヴランさんの言い訳めいた様子に、私の隣にいたライルは心外だとでも言いたげにフンと鼻を鳴らした。
オーウェンを含めこの護衛の騎士たちは、どこか私を戦力外に見ている節がある。
「一週間後の手合わせが楽しみだな、ソフィ? 君の活躍する姿を見て、皆が愕然とする様がありありと目に浮かぶよ」
「悪かったって、分かってはいるんだがつい心配しちまうんだよ」
これみよがしの嫌味に、セヴランさんが苦笑を浮かべて頭を掻いた。
「ねぇソフィ、無理して受けなくたっていいんだよ? そこのライルくんさえ頑張ってくれれば、なにもソフィが無理して前に出る必要はない」
聖女の隣に座っていたオーウェンまで振り返ってきてそんなことを言ってきた。
みんな私を心配しての言動だとは分かっている。でも、同時に護衛としての私に全く期待していないということでもあるのだろう。
「相変わらずの過保護ぶりですね? お兄様は」
……今日のライルは不機嫌だ。懲りない兄バカぶりのオーウェンに、彼は今までになく冷たい声を出した。
「あのときエイマーズ講師にも釘を刺されていたと思うのですが。そろそろ過保護も卒業しないと、いくら心配だからといって必要以上に庇ってしまってはかえってソフィの評価が落ちてしまいますよ、騎士ランドルフ」
ライルは凍えるようなアイスブルーの瞳で挑発的にオーウェンを見下ろした。彼の凍てつくような態度に場がシンと静まり返る。オーウェンは勝気に言い返そうとして、でも私の顔を見て言葉を詰まらせた。
「……騎士ランドルフ、私なら大丈夫です」
きっと私が頼りないせいなのだろう。そのせいでみんなに気を使わせてしまって、結果軋轢を生もうとしている。
「この純白のローブ、卒院の証をどうか信じてください。試合にて必ずや証明してみせます」
「……すまなかった、魔術師アディンソン、魔術師ランドルフ。決して侮るような意図はなかった」
オーウェンが複雑そうに唇を噛み締める。つい声をかけそうになって、寸前で思いとどまる。
確かに彼が護衛長である以上、これ以上の公私混同は止めてもらわないといけない。そうしないと私だけでなく、オーウェンの評判まで落とすことになってしまう。
「ブリジット、次は確かガルニエ公の講義だったな」
「ああ、そうだが」
「資料を取りにくるよう頼まれていただろう。私が行ってこよう」
「助かる。頼んだ」
ライルはブリジットさんに頷き返すと、ぱっと身を翻して部屋を出て行った。そのあとを追いかける。
「ソフィ!」
オーウェンが思わずといったように声をかけてきた。振り返ると情けない顔をしたオーウェンがこっちを見ている。
「ソフィ……僕は、」
「心配してくれてありがとうございます。でも大丈夫ですよ。私、こう見えてもけっこう強いですから」
「でも……」
「私は、信じるよ」
聞こえてきた聖女の声に、オーウェンが目を瞠る。
「私は、ソフィの力を信じる」
凛とした声が、力強く響く。
聖女の言葉にオーウェンがハッとした顔をした。みんなが聖女のよく通る声に、魅入るように視線をとられている。
それを振り切るように頭を下げ、私は部屋を出た。駆け足で先を行くライルの後を追う。すぐに追いついて、つかつかと歩いているその背に声をかけた。
「ライル、私も行く」
ライルはちらりと視線を寄越したが、なにも言わなかった。
「あの、ごめん……」
「なぜ謝る」
振り返りもせずにつっけんどんに跳ね返される。どうやら少し怒っているようだった。
「君はなにか謝らなければならないようなことでもしたのか」
立ち止まって振り返ってきたアイスブルーの瞳が問いただすように降り注がれてくる。言葉に詰まった私を見て、ライルは瞼を閉じると自分を落ち着かせるように頭を振った。
「……いや、謝るべきは私の方だな。苛立ちを君にぶつけてしまった。すまない」
ほうと小さなため息をついて、ライルが視線を落とす。
「頭では分かっているんだ。彼らだって悪気があって言っているわけではない。君を心配してのことだとは……だが」
ふいにその声音が冴え冴えと冷たくなる。
「ブランドン出身の魔術師に対して大丈夫かだと? そんなことエルオーラで口にしてみろ。笑い者もいいところだ。結局彼らはその程度の認識もないんだ」
「ライル……」
憤るライルを見ていると、自分のことのように屈辱に感じていたのだろうということが分かる。
正当に評価されないことに対して人一倍歯がゆい思いをしてきたのは、きっと他でもない彼だ。
「ねぇライル。私、今度の試合で絶対にみんなを認めさせてみせるよ。もう二度と大丈夫かなんて言わせない」
「……そうだな。あの過保護でなにも分かっていない騎士たちに、目にもの見せてやろう」
――不謹慎だが、私のために怒ってくれるライルに少しホッとしてしまった。一生懸命に友だちを思えばこそ、厳しい言葉を口にするのも辞さないライル。
ふいに伏せられていた視線がこっちに向けられて、その目の中に悪戯めいた色が浮かぶ。
「仮にも炎の女帝と恐れられた君だ。充分すぎるほどに会場を黙らせることができるさ」
「な、なにその炎の女帝、って……」
初めて聞いた恥ずかしい通り名に目を剥く。狼狽した私に、ライルは悪戯っぽい笑みを深くした。
「知らなかったか? いつだって冷静に炎を操りながら容赦なく屠ってくるだろう。実習の度に後輩たちがそう呼んで怯えていたぞ」
……そうだったのか。遠巻きにされているなとは思っていたが、まさかそんな風に呼ばれていたとは。
「そ、そんなこと言ったらライルだって、学院の貴公子って呼ばれてキャーキャー言われてたよね」
「それは中等部のころの話だろう! 貴族出身の生徒がほとんどいなくなってからはそんな風に呼ぶ者などいなかったはずだ」
「いーや、あの子たちは呼んでたよ。私も時々一緒に呼んでた」
「なんだって?」
ギロリとアイスブルーの瞳を向けられて、思わず出た失言に慌てて口を押さえて視線を逸らす。
そんな私を見て、ライルは思わずといったように笑いをもらした。
「……ブライドンを出て以来だな。ソフィとこんな風に気軽な会話を交わすのは」
しばらくクスクスと笑っていたライルは、笑いを収めるとふとそう呟いた。
思わぬ言葉に視線を上げる。
「君はルイと別れてから、どこか元気がなかったから」
そう指摘されて、どくりと心臓が音を立てた。
あまり考えないようにしていた。――別れ際の力強い抱擁、私の名前を呼ぶ柔らかな声。
「もちろんこの大役に緊張しているのもあるのだろうが、それでも……」
ライルは言葉を切ると、おもむろに目を覗き込んできた。
「私では、支えになれないか」
真正面からぶつかってくるように注がれる、煌めくアイスブルーの瞳。その瞳は私の心を暴こうとでもするようだ。
――確かに、ルイと離れ離れになったことが思った以上に堪えていた。それほどまでにルイの存在は大きかった。
ルイは私の初めての友だちで、大切な存在で、六年間ずっと一緒に過ごした人で……あまりにもその存在は大きすぎて、ルイに対する想いを容易に一括りの言葉で表すことなどとてもできない。
もしもあのまま何事もなく研究機関に就職してずっとそばにいられたのなら、そうしたらいずれこの感情になにかしらの名前がついたのだろうか、だなんて。
そう思ってしまうくらいにはルイのいない穴は大きかった。
……でも、もう訪れもしない未来のことを考えたってしょうがない。この旅を無事に乗り切らなければ、私はもう二度とルイに、ブライドンで待っている人たちに会えないのだから。
「いや、ライルの存在も心強いよ。心強いんだけど……」
「だけど? なんだ」
ブライドンに置いてきた遠い感傷を振り切るように、ライルに笑いかける。
――正直に言うと、いっそライルもいなかった方が良かったのではと思ってしまうときがある。
これからどれだけの強い感情の揺さぶりをこの人は味わうことになるのだろうか。
飽くなき渇望を、狂しいほどの愛を求めて、でもそれは決して与えられないもので。
そんな思いをしなければならないのなら、ブランドンの研究機関でルイやノア先輩やクロエ先輩たちと心穏やかに過ごしていたほうが幸せだったんじゃないか、なんて。
私に決めつける権利なんてないのだけれど。
「だってライルって厳しいし。ルイはいつだって優しかったから!」
ごまかすように笑ってそう言うと、ライルは一瞬目を丸くして、そして今度はさすがに怒り出した。
「……君という人は! 優しさだけが思いやりじゃないだろう。厳しさも君を思えばこそなのに!」
そういうところが君は甘いんだと声高に諭し始めたライルに、謝りながら前を向く。
こんな関係でいたいと、切に願う。
ずっとこのままでいたい。
大切な友人のままでいて。
“ライオネル・アディンソン”なんかにならないで、と。




