高等部最終学年・Ⅵ
私は今、壇上で挨拶を読み上げているルイを茫洋と眺めている。とうとう、この日になってしまった。
――今日は私たちの、卒業の日だ。
ルイの柔らかな声を聞きながら、羽織っている真新しいローブになんとなしに手を滑らせる。滑らかな手触りに、細かな刺繍の凹凸。ブライドン学院卒であることを証明する、純白のローブ。
……こんな出来たてほやほやの魔術師なんかをあの国が果たして認めるのだろうか。ネイサンの顔に泥を塗ってしまわないだろうか。
今はただそれだけが心配だった。
講堂から出てきた私たち卒院生に、在院生や先生方、研究機関の先輩たちまでもが口々にお祝いの言葉をかけてくれる。
その中にノア先輩とクロエ先輩の姿を見つけて、私は二人に駆け寄った。
「卒院おめでとー!」
「おめでとー、ソフィちゃん」
「お二人とも、ありがとうございます」
「あれーソフィちゃん、ライオネル様は? 一緒じゃないの?」
「ああ、ライルならまだ後ろに」
振り返ると、純白のローブを羽織ったライルの姿に数少ない女子生徒たちが押しかけている。
卒院生に与えられる純白のローブは中性的な美貌のライルによく似合っていて、その輝かんばかりの美貌を更に輝かせている。その姿が今回限りだと今日ばかりは遠慮を捨てて囲んできた下級生の女子生徒に、ライルは冷静に対処しながらもなんとか抜け出そうと四苦八苦しているようだった。
その様子をぼーっと眺めていると、後ろからルイがやってきた。
「ルイ、挨拶お疲れさま」
「ハァ……緊張した。途中で噛んじゃったよ」
若干疲れた顔のルイに声をかけると、片手を上げて応えてくれる。
「そうだった? ちゃんと言えてたよ」
「ならいいけど……」
くしゃくしゃと髪をかきあげてため息をついたルイも「あれ? ライルは?」と辺りを見回す。そして女子生徒に囲まれながらこっちを睨むように見据えている彼を発見して、ぎょっとしたような表情を浮かべた。
「うわぁ……ライルのあんな姿、中等部の卒業式以来かも」
「ライオネルがああいう扱いはしないでほしいってお願いしてから、高等部では我慢してた人も多かったみたいだけどね。今日が最後だし。ところでソフィちゃんたちはいつ出発だっけ?」
「ノア、もう! ……明日だよ」
「そうだったっけ? また急だねぇ」
すでに聖女は降臨した後だ。こうして猶予期間を与えてもらったほうが異例なのだという。
私たちは別れを惜しむ余韻もなくエスパルディアへと向かわなければならない。
「ランドルフ君」
人混みをかき分けながら、わざわざエイマーズ先生が声をかけにきてくれた。
「とうとうだな。この学院で学んだことを活かして、是非とも立派に務め上げてくれ」
「はい、頑張ります。……今までありがとうございました」
「まぁ、その、なんだ」
エイマーズ先生は言い淀むように言葉を切ると、ポンと私の肩に手を置く。
「私が言うことではないが、人の言うことなど言葉半分に聞いておきなさい。君は君だ。このブランドン魔術学院を高等部まで学び抜き、そして立派に卒院した。この事実は誰がなんと言おうと揺るぎのないものなのだから」
最後の方は般若の如き気迫で私たちを追い立てていたあのエイマーズ先生が、温かく微笑んでいる。その事実を目の当たりにした途端、なんとなく実感できなかった卒院の二文字が急に現実味を帯びてきた。
そんな弱気な気持ちが顔に出ていたのか、エイマーズ先生は肩に置いた手に力を込めると、「君ならできる」と力強く頷いてくる。
「達者でな」
下げた頭を上げたときには、エイマーズ先生は他の生徒に呼ばれて行ってしまったあとだった。
「ソフィちゃん、」
ちょんちょんと肩をつつかれて振り返ると、クロエ先輩が困ったように眉根を下げていた。その後ろにはもはやこちらを睨むことを隠しもしないライルの姿。
「ライオネルが助けて欲しいみたいだけど、どうする? 割り込むのも野暮だけど、ほうっておいても後でネチネチ言われそう」
ノア先輩の言葉にルイと二人顔を見合わせる。
「いやあ、せっかくのお別れを言う時間ですから、」
「たまにはいいんじゃないですか。ソフィ、僕たちは一足先にみんなのところへ行こうか」
「おい、私を見捨てるな」
聞こえていたのか、ライルは取り囲んでいる女子生徒たちにむりやり別れを告げて追いかけてきた。
「もっとゆっくりしてきたらいいのに」
ルイの言葉にライルの絶対零度の視線が襲いかかってくる。
その視線から逃げるように私の手を引いて走り出したルイを、ライルの引き止めるような声が追いかけてきた。
翌日、早朝。
ブライドン学院門前にエスパルディア王朝の紋章をつけた立派な馬車が止まっている。
御者はエスパルディア王国所属騎士、サイラス・ランドルフ。聖女の護衛である私たち二人の送迎のため、エスパルディアより遣わされてきた。
これから私たちは卒院時に授与された純白のローブを羽織って、ブランドン魔術学院の卒院生としての誇りを胸に、エスパルディア騎士隊特別所属枠、聖女護衛隊の魔術師として活動していくことになる。
見送りにはルイを始めケイティやトール、ノア先輩にクロエ先輩、ルイやライルと仲の良かったウィル・メイシーさんまで来てくれていた。
「とうとう行っちゃうのね」
卒業式のときはずっと泣きっぱなしだったケイティは、今日は拗ねたように口を尖らせている。
「はぁ……ソフィは今からライオネル様と一緒に旅行かぁ。羨ましすぎるわよ」
「旅行って……一応これ仕事だからね。そんなに羨ましいならいっそ代わってくれる?」
「代われるものなら代わりたい、って言いたいところだけど、私にはトールがいるから……」
ケイティは隣ではらはらしながら見守っているトールをちらりと見上げた。
「……もしもまたトールが不審な行動をしたら、今度は一番にソフィに相談する。そのときはすぐに手紙飛ばすから」
「ケイティ、聖女の護衛中にそんなの送りつけちゃダメだよ。ソフィが迷惑するよ」
「だったらもう二度と不審な行動しないでよね」
「う……」
背が高くなって格好良くなっても、相変わらず尻に引かれているトール。そんな二人の姿に思わず笑った。
「相変わらず仲良しで羨ましいよ。研究機関に行っても仲良くね」
「ソフィも気をつけて」
ケイティが元気づけるように明るい声を出した。
「ま、帰ってきたら旅の話でも聞かせてよ」
バイバイと手を振ったケイティたちに、こちらも振り返す。
その隣にはライルと話し終えたノア先輩と、私の癒やしである可愛らしい笑顔を浮かべたクロエ先輩だ。
「ソフィちゃん、気をつけてね」
「行ってきます、クロエ先輩」
「無事に護衛の任務が終わったら、今度は私ととびっきり贅沢な旅行だよ! それまでノアに負けず劣らずばんばん稼いで資金を貯めておくからね。ついでにお揃いの服も特注で作っちゃうよー!」
「楽しみにしてます……あの、でもあまり可愛すぎるのはやめてくださいね」
隣のノア先輩に視線を遣る。クロエ先輩を気遣うように肩に回された手はそのままに、ノア先輩は気が抜けるほどいつも通りだ。
「いってらっしゃいー、ソフィちゃん。帰ってきたら色々と話聞かせてよ。それに僕の実家にも遊びに来てほしいな。父が君たちと話したがっててね。ランドルフ騎士団長も魔術に理解を示しておられるし、今回のことはエスパルディアに魔術師が介入するとっかかりになるんじゃないかって期待しているみたいなんだ」
「そういった難しいことは私には分かりませんので、なんとも」
「君たち二人とも同じような言葉で逃げるのね。でもそこをなんとかしてほしいんだよなぁ」
「まぁ無事に帰ってこれたら、そのときにでも」
「それならソフィちゃんなら大丈夫でしょ。せっかくの機会なんだから思いっきり楽しんできなよ。あ、ついでにお土産もよろしくね! 珍しい魔術素材があれば送ってほしいなー」
今日も通常運転のノア先輩に脱力して、ふっと笑いがこぼれ出る。
「……ありがとうございます。おかげで気が楽になりました。もしも折れそうになったときは先輩のその軽い感じを思い出しますね」
「そうそう、気楽にね」
感謝の念を込めて頭を下げると、体を起こされるようにクロエ先輩がそっと抱きついてくる。小さくて柔い体を抱き締め返すと、クロエ先輩もぎゅっとしがみついてくる。
「行ってきます」
「気をつけてねー」
「元気でね!」
暖かい体が離れると、待っていたように声がかけられた。
「ソフィ」
ウィル・メイシーさんと話し終えたルイとライルが、私を待っていた。
「ソフィ」
ルイはふわりと笑う。
毎日のように聞いていた、親しみを込めて私の名前を呼ぶその柔らかな声。
私の、初めての友だち。
「……約束、忘れないでね」
「ルイこそね」
二人で顔を見合わせてふっと笑みをこぼし合うと、ライルが不審気な顔になる。
「なんの話だ」
片眉を上げたライルに、ルイはいたずらっぽく返した。
「内緒。これは僕とソフィの二人だけの秘密だから」
口を開こうとした私を制して、ルイは唇に指を当ててみせた。そんな私たちを見てライルは眉を顰めて少し不機嫌になる。
「……二人だけの秘密、ね」
「そう、今はね。知りたきゃちゃんとブランドンに戻ってきなよ」
「これは終わったら問いただしに戻ってくるしかないな」
仕方なさそうに表情を緩めたライルとルイに、ポケットに入れていた魔術具を渡す。
「これ、よかったらどうぞ」
「これは?」
「エイマーズ先生に無理言って、卒業研究の魔術具を早めに返してもらったんです。中等部のときはルイが衝撃を吸収してくれるブローチを作ってくれたから、今度は私が別の物をと思って」
死に物狂いで魔術書を読み漁り、なんとか文献を探して構築文を組み合わせ、期限ギリギリでやっと完成させた卒業研究の完成品。
お陰でデザインも洗練されておらず、書き込んだ構築文もそれのみという随分とシンプルなものになってしまったが、とりあえずやりたいことが出来たので渋々妥協して提出したものだ。
二人に渡すとしげしげと眺められる。荒削りな構築文を見られたくなくて、慌てて咳払いで誤魔化した。
「初めての試みで構築文もガタガタだし、見た目も全然手を加えられてないから目も当てられないものだけど」
「この構築文、もしかして……」
「恥ずかしいから、見るなら私のいないところで見てください」
「なるほどな」
止めたにも関わらず熱心に眺め出したライルの横で、ルイは渡した魔術具を握り締めながらゆっくりと距離を詰めてくる。
「ソフィ」
ほんの目の前まで近付いてきたルイ。
「いってらっしゃい」
「……うん」
辺りの喧騒に埋もれながら、束の間の沈黙が訪れる。
ルイは黙ったままもう一歩踏み出してきて、そして私を覆うように抱き締めてきた。
囲うように回された腕に力が入り、更に引き寄せられる。
その腕の力強さに、行かないでとあの日縋るようにこぼされた言葉を思い出して、ふと喉が詰まるような寂しさに襲われた。
「ソフィ」
心地いい柔らかな声がそっと私の名前を呼ぶ。擽ったいほどの親しさと切なさが込められたその声で、ルイはただ私の名前を呼んだ。
優しい笑顔のルイ。
冗談を言って朗らかに笑うルイ。
ずっとそばにいてくれたルイ。
暖かな腕の中で、この六年間一緒に過ごした時間が名残惜しむように駆け巡っては消えてゆく。
しばらく私を抱きしめていたルイの体が、ぱっと離れていく。いつものようににこりと優しい笑顔を浮かべて、ルイはひらりと手を振った。
「またね!」
ルイが一歩下がると同時に、なんとも言えない顔をしたライルが私の隣に立った。
「……行こう」
ライルの沈んだ声に、頷きだけを返す。
今はそれが精一杯だった。
「馬車を出すぞ」
御者窓からかけられたサイラスの声に、是と返事を返す。馬のいななきと共にゆっくりと動き出した馬車にむかって、みんなが手を振ってくれている。
ルイが精一杯に両手を上げて振っている。
窓からその姿を見つめながら、私もただひたすらに手を振り返す。
私もライルも手がちぎれるんじゃないかってくらいにみんなの姿が見えなくなるまで窓から身を乗り出して、延々と手を振り返し続ける。
こうして私の六年間のブランドン魔術学院での生活は幕を閉じた。
大切な仲間と大切な思い出を作って過ごした大事な時間は、とうとう終わってしまってもう二度と戻ってはこない。
――いよいよ、聖女の物語の中に足を踏み入れる、その瞬間がやってくる。




