高等部最終学年・Ⅳ
あの日、どこか様子のおかしかったルイは翌日にはいつも通りに戻っていた。
私もルイももう普段通りなものだから、ライルもそれ以上なにを言うでもなく、あの日のことは話題に上げることさえ避けている節がある。
それにどことなくルイの雰囲気から切り出しにくかったのもある。結局あの態度のわけをずっと聞きそびれたままだった。
今日はそのルイを書架室に残して、卒業研究を進めようとライルと二人で実習室に来ていた。
就職試験のなくなった私とライルは悠々と制作に打ち込めるのだが、ルイはそうもいかない。書架室で別れたときのルイの恨みがましい目を思い出して、思わず笑いをこぼす。
「どうした?」
「ああ、いえ、なんでも」
不審そうに顔を上げたライルに慌てて首を振りながら、無意識に弄っていた手の中の制作物を眺める。
いつも通り、完成したらこれもオスカーにあげようと思っていた。でも、もうここにいられないのであれば――。
「よっ!」
「久しぶり!」
久々に聞こえた朗らかな声に顔を上げる。
実習室の扉から、ノア先輩とクロエ先輩が顔を覗かせていた。
「クロエ先輩!」
会いたかったその姿に思わず声を上げる。
久しぶりに見たクロエ先輩は少し大人っぽくなっていた。相変わらずサラサラの銀髪に甘いベビーピンクの瞳。ご無沙汰していた貴重な癒やしの姿に、沈んでいた気分も浮上する。
「聞いたよー! ソフィちゃん、ライオネル様と一緒に来年の聖女の浄化の旅に同行するんだって? すごいよね! おめでとうー!」
「今やその噂でもちきりだよー。なにせエスパルディア初の魔術師登用だからね」
「その話題作りが狙いであって、本当に実力を認められたわけではないのでしょうけど」
悔しさを滲ませた声でライルが返す。
「所詮、私たちはただのお飾りというだけだ」
「あらー? ライオネル様ったら随分と弱腰だね。珍しいこともあるもんだ。そんなのいつもの容赦ない魔術でわからせてやったらいいじゃない。言っとくけど、えげつなさでいったらライオネル様が学院一だからね? 上級生の僕に対してあそこまで容赦なく追撃してきたのキミが初めてだからね?」
「あれは実習中なのに先輩がヘラヘラしていたから……」
そんなライルにも構わず軽い口調で突っ込んでいくノア先輩。久々のノア節が聞けて肩から力が抜けていく。
それはライルも同じだったようで、このところ消えなかった眉間の皺が自然と消えてなくなっていた。
「ところで、ルイくんは?」
「ルイは今は就職試験の勉強で書架室にいますよ」
「ああ、そっか」
いつも明るくきらめいているクロエ先輩の瞳が遠くに向けられる。
「ルイくんだけが研究機関に所属希望だもんね。来年にはソフィちゃんもライオネル様もいないから……」
「クロエ、しんみりするのは今はナシで!」
ノア先輩はつかつかと机までやってくると、開きっぱなしにしていた魔術書を勝手にバタンと閉じてしまった。それだけじゃ飽き足らず、目の前の製作途中の代物をさっさと片付けていく。
「せっかく会いに来たんだからさ、難しい話はここまでにしよう。今日はお誘いに来たんだ。今からお祝いの食事会なんてどう? なんと僕の奢りだよ? いいところに連れてっちゃうよー?」
戯けて笑う明るいピーコックグリーンの瞳に、いつもなら冷たいライルも今日ばかりは文句も言わずに素直に立ち上がった。
書架室に寄って目を丸くしたルイを迎えたあと、ノア先輩の案内で立派なレストランへと足を踏み入れる。
お祝いだと言った言葉に嘘はなかったようで、随分と豪勢な食事をごちそうになってしまった。
「ほんとにごちそうになっていいんですか?」
「男に二言はない! さぁ、遠慮なくたんとお食べ!」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「私もお言葉に甘えちゃうね!」
「え? ま、クロエも……?」
「さ、みんなグラス持った? ソフィちゃんライオネル様、聖女の護衛就任おめでとー!」
快活なクロエ先輩の掛け声と共に、思い思いにグラスをかち合わせる。
言ってるそばからクロエ先輩は早々とお酒を飲み干して、もう二杯目を頼もうとしていた。
「あのー……クロエは少しペースを落としてくれると助かるなぁ、なんて……」
意外なことにお酒にめっぽう強いクロエ先輩は、空になったグラスを傾けながら、小首をかしげてノア先輩を見上げる。
「……だめ?」
「っ……! だめじゃない! だめじゃないよ!」
呆気なく没したノア先輩にルイが「相変わらず頭が上がりませんね」と呆れながらも笑った。
「先輩は相変わらずというかなんというか……だがこういったやりとりも懐かしいと感じてしまうものだから、時の流れというものは残酷なものだな」
ため息をつくライルにルイが同意している。
デレデレしているノア先輩に隠れてこっそりウインクしてくるクロエ先輩。いつもの光景に、気づけば私たち三人ともいつものように声を上げて笑っていた。
お酒が入ってきて大分いい感じにほろ酔いになっているノア先輩は、声高に職場での武勇伝を語り出している。その隣ではクロエ先輩がニコニコしながらところどころ首をかしげている。
半ば憧憬を込めてその話に聞き入る。
本当であれば、来年私がいたかもしれない場所。これからも、いたかった場所。
そんな感傷を吹き飛ばすように笑いに笑って、ノア先輩の適当さに突っ込んで、気がつけば随分と時間が経っていた。
帰りの夜道ではノア先輩も少し酔いが醒めたのか、珍しくルイとライルと三人で静かに話し込んでいる。
その後ろ姿を見ながらクロエ先輩はぽつりと言葉をこぼした。
「今日は久しぶりに話せて楽しかったなぁ……」
静かに話すノア先輩の両隣にいる二人は、いつもと違って真剣な顔だ。
「来年かぁ……寂しくなるね」
「クロエ先輩」
「三人とも研究機関にきてくれるって疑ってもいなかったから、ライオネル様やソフィちゃんがいなくなるだなんて、なんだかまだ実感が沸かないや」
さっきからつないでいる手先は、ほんのりと暖かくて柔くて心地いい。
「でもノアがね、寂しい寂しいって私が落ち込んでたらソフィちゃんが心配しちゃうって。喜ばしいことなんだから、笑って見送ってあげなきゃダメだって」
ふと向けられた瞳がにっこりと笑って、繋いだ手を挙げられた。
「だから私、ソフィちゃんのこと、ちゃんと笑顔で見送るね。それで旅が終わってここに帰ってきてくれるの、笑顔で待ってるから!」
またおそろいの服を着るって約束忘れちゃダメだよと続いた言葉に声が出なくて、ただ温かいその手先をぎゅっと握り締めながらこくこくと頷いていた。
卒業研究に打ち込んでいると、あっという間に前期の休暇がやってくる。今回の休暇はルイと共にヒヒトの街にやってきた。
すっかり見慣れた街並みを眺めながら、ルイの実家の食堂までの道を辿っていく。
卒業したら暫く来られないだろうからと、ルイに誘われてこちらにお邪魔することにした。この六年間ずっとお世話になりっぱなしだったアザレアさんに挨拶をしたかったのと、ついでに一年前に施した防汚の魔術の状況も確認したかったからだ。
相変わらずルイの実家の食堂は繁盛していて、見慣れた常連客の姿もちらほらと伺える。
入口から姿を見せた私たちに、その常連さんが何人か顔を上げた。
「あれ? ソフィちゃんじゃねーか」
「ご無沙汰してます。ジャックさん、カークさん」
「最近こねーからルー坊と別れちまったのかと思ってたよ」
「ハハ、懐かしいですね、その冗談」
「さすがにもう動じねぇかぁ」
「最初の頃が懐かしいなぁ、あのころはからかいがいがあったってのに。最近はすっかり慣れちゃって」
いつもの常連さんと相変わらずの掛け合いを交わしながら、奥から出てきたアザレアさんにペコリと頭を下げる。
「お久しぶりです、アザレアさん。すみません、また今回もお世話になります」
「まぁソフィちゃんお久しぶり! また少し大人っぽくなった? 今日は来てくれて嬉しいよ。それにこの間は魔術までかけてくれてありがとうねぇ」
「どうでしたか? 魔術の方は。不具合が起きたり困ったことは……」
「ソフィちゃん、勉強熱心なのはえらいねぇ。けど今は長旅で疲れてるでしょう? おやつを用意してるから、まずは荷物を置いてゆっくり休みなさいな」
それにお礼を言って、一旦荷物を置きに行く。再び食堂に戻るとルイは既に戻って来ていた。
「はい、どうぞ。今回はソフィちゃんも一緒なんだね」
焼き菓子を持ってきてくれたのはルイの二番目のお兄さん、ジェロームさんだ。
一番目のお兄さんはもう結婚もして子供もいる。所帯をもって今は別のところで暮らしているそうだ。近くの商店に就職したとのことだった。
「こないだまた来なかったからさ、今度こそルイとなんかあったんじゃないかってみんなで言ってたんだよ」
ジェロームさんまで一様に同じ冗談を言ってくる。彼は焼き菓子を持ってきたついでに一緒に席につくと、ポイと一口摘んだ。そんなお兄さんにルイは半眼になる。
「もうその話はいいよ。ソフィはソフィで事情があるんだからさ」
「へぇー? 事情ねぇ。ソフィちゃんが来ないからって寂しくて元気なかった人がよく言うよ」
「兄さん?」
ケンカしているのかじゃれ合っているのかいまいちよく分からない兄弟を微笑ましく眺める。ノア先輩たちもだが、相変わらずミラー家の方々も賑やかで騒々しい。
ルイのこんな姿も久しぶりだ。なにせここでしか見られない。いつもみんなを世話する立場のルイが末っ子らしくお兄さんに可愛がられている姿は、なんだか奇妙に懐かしかった。
「ところで、あの……前回の防汚の魔術はどうですか? よければ使い心地とか感想を聞かせてもらえませんか」
「あーあれね!」
お兄さんはニカッと笑った。
「おかげで助かってるよ。かなり掃除が楽になった。備品を頻繁に買い換えることもなくなったし。魔術ってのはすげーもんだな」
「そうなんだよ。分かってくれたのならもっと僕に感謝してよ」
「感謝してもらいてーのならもちっとばんばん役に立てよな。割ってもすぐに元通りになる皿とか、勝手に皮剥いてくれるナイフとか、まだ作り出せないのかよ」
「そんなの簡単に作れるわけないでしょ! 魔術をなんだと思ってるの!」
掌で転がすようにルイをからかうお兄さんに感心する。さすが翻弄の仕方に年季が入っている。
「ところで兄さん、いつまでも油売ってないで働いてきなよ。ほら、カークさんが呼んでる」
「あっほんとだ!」
ジェロームさんは慌てて常連さんの方へと向かっていった。その後ろ姿にほっとしたように息を吐いて、ルイは私に笑顔を向ける。
「食べ終わったら、防汚の魔術がちゃんと機能してるかどうか確かめに行こっか」
「そうだね。まず一年でどれほど残っているものなのか確認して、それから剥がれている箇所の点検と、あと……」
いつものように、ルイと取り留めもなく話す時間。それが限りのあるものだということから目を背けるように、お互い没頭するように言葉を交わし続けた。




