高等部ニ年・Ⅶ
シャーッと勢いよく開くカーテンの音に、眩しい朝日。
「おはよー、ソフィ!」
元気のいいルイの声に、寝坊したかと思って慌てて飛び起きる。
ブライドンに編入した最初の年にルイの実家に泊まらせてもらってから、お邪魔する度に朝起こしに来るのはルイの役目だ。なので一瞬ルイの実家かと勘違いしてしまった。
目の前に笑顔のルイと少し困ったような顔をしたクロエ先輩が立っていて、今はランドルフ家所有の別荘にいることを思い出す。
「おはようございます」
こらえきれなかったあくびを慌てて噛み殺すと、「ごめんねぇ」と申し訳なさそうにクロエ先輩が謝ってきた。
「ソフィちゃん、ぐっすり眠ってたから起こさないほうがいいんじゃって思ったんだけど……」
「早速教えてもらいたかったから」
むしろ朝早くから付き合わせてるこっちが申し訳ない。
ボサボサの頭を振って謝りながら、慌てて洗面所へと駆け込む。
「すみません、すぐに顔を洗ってくるから待っててください!」
「ゆっくりでいいよー、ソフィちゃん」
昨日遅くまで起きていたせいか頭は重かったけど、鬱々とした気分は不思議となくなっていた。
やはりルイは器用だ。
昨日の私よりもよほど上手く早く髪をまとめ上げて見せたルイに、賛辞の嵐を送りながら階下へと降りる。
少し先に寝癖のついたノア先輩とライルが連れ立って食堂に入っていく後ろ姿が見えた。
「おはよー」
食堂に入るとクロエ先輩の声に二人が振り向いて、それぞれ挨拶を交わす。
夜更しした仲だというのに、ライルの様子は変わりない。
いつも通り無表情で淡々としていて、眠そうな様子すらない。
なんとなくその顔をじっと見ていると、視線に気づいたライルが顔を上げ、問い返すように小首を傾げて、そして微かに笑みを浮かべた。
その密やかな微笑みに心臓がドキリと音を立てる。
――誰も知らない二人きりの夜を、まるで示唆されたみたいだった。
夜闇に浮かぶ、散ってゆく花。
ぼんやりと照らされるキッチン。
湯気の立つレモネード。
繋がれた、体温の低い手。
まるで一時の夢のような、二人きりの秘密の時間。波打った心臓に思わず手をやる。
「ソフィちゃん、どしたの?」
こういうときだけ変に勘の鋭いノア先輩が声をかけてきた。
「どっか調子でも悪い? 今日練習できそう?」
「大丈夫です、なんでもないです」
「無理は禁物だよー? 早めに言ってね」
「大丈夫ですよ。お気遣いどうもです」
訝しげな視線を笑顔で誤魔化す。
さあ、あとは本来の目的に集中しよう。
もうなんの懸念もなくなったのだから。
みんなに手伝ってもらって毎日湖で特訓して、どうにかこうにか水中に慣れたところで、残念ながら今回の休暇は時間切れになってしまった。
帰りの馬車の中ではさすがに疲れからか、みんなぐっすりと眠り、賑やかな行きとは違って随分と静かな帰りになった。
学院への到着を告げる御者の声で目を覚ますと、他の四人もちょうど目が覚めたところで、それぞれ目を擦ったり伸びをしたりしている。馬車から降りて背筋を伸ばしていると、隣でノア先輩がけだるげにぼやいた。
「あー、明日からまた日常か……」
「楽しい時間はあっという間だねー」
「おかげで助かりました」
頭を下げた私に、先輩たちはにへらと笑い返してくれる。
「いいってこと! こっちとしても楽しめたし。それにエスパルディアのランドルフ騎士団長とも知り合いになれたしね」
「またお揃いの服着ようね! 次はどんな服か楽しみ!」
にっこり笑ったクロエ先輩の後ろでノア先輩が引き攣った顔をしたが、気にせず「お願いします」と頭を下げておいた。
「またみんなで旅行に行けたらいいなぁ」
寂しげに漏らしたクロエ先輩に、ノア先輩がよしよしと頭を撫でる。
「来年は僕たちが卒業研究に就職試験だし、再来年は君たちの番だしねぇ。行けるならみんな就職してからかな」
「二年後かぁ。遠いねぇ」
「また二年後に行きましょう」
荷物を下ろしていたライルがそう声をかけてきて、三人してぎょっとしながら振り返った。
「ライオネル様、今なんて言ったの?」
「悪いけどもう一度言ってくれない?」
「なんですか、その反応は」と目を眇めたライルに、同じく荷物を下ろしていたルイが苦笑する。
「ライルのことだから、先輩とはもう二度と行かないくらいは言いそうだったのにね。意外」
「……流石にそこまで非情ではないつもりだが」
「いやいや、そうだよねぇ! なんだかんだで僕たち仲良しだからね! これは二年後が楽しみだなぁ」
「だからって調子に乗らないでください」
肩を組んできたノア先輩の手を振りほどくと、ライルは下ろした荷物をノア先輩に押し付ける。
「喋ってないで少しは手伝ってくださいよ」
「そうですよ。僕たち二人に任せきりにして自分だけ楽しようとしたって、そうはいきませんから!」
最後までわいわいと賑やかに騒ぐ三人を見守りながら、クロエ先輩と残りの荷物を下ろそうと手を伸ばした。
二年後、またみんなで。
それは開かれた素晴らしい未来に思えた。
後期が始まってから暫くして、エイマーズ先生から学院の裏にある溜め池に再試験の呼び出しがあった。
例によって私を含め前期の海上実習で不合格だった三人が集められている。
「これから海上実習での再試験を行う。休暇中の努力の成果を存分に出し切りなさい」
毅然とした先生に、三人とも自ずと緊張した面持ちになる。
「では早速行うとしよう。まずはワース君、君からだ。前へ」
エイマーズ先生に呼ばれて、順番に追加の試験を受けていく。
順調に前の二人が終わって、最後に私の名前が呼ばれた。
「ランドルフ君、たとえ君が泳げないままだとしても私は決して容赦はしないが、覚悟はいいか?」
「臨むところです」
深く頷いた私に、エイマーズ先生がふっと笑みを漏らす。
「ではいくぞ!」
掛け声と共に暴風の渦が襲いかかってきて、私を水中へ引きずり込もうとする。
それを同じような暴風の渦を作り出して対抗しながら、なんとか魔術構築の時間を稼ぐ。エイマーズ先生が容赦しないと言ったとおり、魔力の暴風は早々に競り負けて段々と削れていく。
このままではもうすぐ水中に引きずり込まれてしまう。その前にと、仕込んでいた魔術構築に素早く最後の文句を書き加える。
それと同時に競っていた暴風がかき消されて水中へと叩きつけられるように落とされた。
口から空気が逃げ、数多の泡沫が水面目指して我先にと逃げていく。
それを見上げながら魔術構築を完了し、発動させる。
――ライルが言っていたことは正しかった。
「え、事前に仕込むんですか?」
ランドルフ家の別荘で特訓をしている折、再試験の話になったときにライルから言われたのだ。
「どちらにしろこの休暇中に水の中を自在に泳げるようになるのは無理がある。水中で咄嗟の対応ができないのなら、事前に仕込んでおくしかない」
「でもそれって、いいんですか」
「いいんじゃない?」
ぱしゃぱしゃと水遊びしていたノア先輩が顔を上げる。
「試験の規定に載っていないことはなにしたっていいんだよ。そういう機転も試されてるんだから」
「ノアはそういうの臨機応変に対応するの得意だもんね。ノアが実習するところって意外と参考になるから、今度見てみたらいいよ」
馬鹿真面目に正々堂々と向かうことばかり考えていた自分からしたら、目から鱗だ。
「そんな発想はなかったです……」
「ソフィの得意分野は火だから、海上演習は相性悪いもんね。よかったら僕が風に関する魔術構築教えてあげようか?」
「ルイの魔術構築、教えてくれるの? それは詳しく知りたい!」
にこりと笑ったルイは、それから泳ぎの練習そっちのけでかなり詳細に語ってくれた。
――徹底的に教えてもらった魔術構築を思い出しながら、握っていた手から魔術を発動させ風の流れを引き寄せる。強圧の風流が水面を切り裂くように入ってきて、私の体を水ごと巻き込んで一気に水面へ舞い上がらせた。
水上に吹き飛ばされたタイミングで構築を解くと、大量の水飛沫と共に今度は水面へと落下する。その落下中に反対の手に仕込んでいた魔術構築に最後の文句を書き込む。再び風の流れで持ち上がった体に勢いづいて反撃に出ようと素早く魔術を構築すると、「そこまで!」とエイマーズ先生の声が響いた。
慎重に魔術構築を重ねて池の畔へと着地した私を、腕組みしたエイマーズ先生が出迎えてくれた。
「三人ともちゃんと努力はしてきたようだな。今回の再試験を通して、水中でいかに素早く体制を立て直すことが重要か分かってもらえただろうか。こちらの手数が多いほど様々な状況に多様な対抗手段をとれる。今後の海上実習でも今回みたいに水中で慌てず対応できるよう、常に研鑽は積んでおくんだぞ。今回の再試験は三人とも合格だ。以上、解散!」
他の二人を見送ったエイマーズ先生は、ちょいちょいと私を手招きする。
「相変わらずランドルフ君の魔術は異常に強いな。前回とは見違えるほど力強くて感心した。それで、少し心持ちが変わったか?」
「はい、その……」
エイマーズ先生には見抜かれていたみたいで、気恥ずかしさに頬を赤らめる。
「これは魔術学とは関連のない、ただの私の持論なんだが」
エイマーズ先生はふと眼光を緩め、どことなく懐かしそうに笑った。
「魔術の発動条件には術者の精神性も少なからず関係していると私は思っているんだ」
長い髪をかきあげたエイマーズ先生は微笑みを浮かべる。
「君が確固たる意志を持って事に臨めば、必ず魔術は応えてくれる。正しき意志にこそ魔術あり、とこれは私の師匠の受け売りだが、君のような強大な魔術を扱う魔術師には是非とも覚えていてほしい言葉だ」
「……はい」
まさにソフィア・ランドルフを戒めるのに相応しい言葉だ。その言葉の意味を噛み締めながら頷くと、ポンポンと優しく頭を撫でてくる。
「そう固く受け取らなくてもいい。ただいつか君が道に迷ったときに、この言葉を思い出してくれることを願うよ」
そのままエイマーズ先生は次の授業の準備をするよう言いおいて去って行った。
……いつか私が道に迷ったとき。そんな日はやってこないと信じたい。




