高等部ニ年・Ⅵ
日中は暑いとはいえ、夜は少し冷え込む。
夜着のまま出てきたことを少し後悔しながら、私は湖畔へと歩みを進めた。
「……やっぱり冷たい」
湖の水は思いのほか冷たくて、鈍い眠気が少し覚める。
夜の水辺はなんだか黒々としていて、想像していたよりもおどろおどろしい。ぶるりと身震いして、裸足になった足先を湖に浸す。
この別荘に来るとわかったときからずっと考えていたことがあった。
あの日、この湖から“私”が始まった。その因縁のある場所で“ソフィア・ランドルフ”を弔いたいと。
そんなことをしたって、なにか状況が動くわけじゃない。ただ一度目に見える形で区切りをつけたいと思ったのだ。こんな方法しか思いつかなかったけど、どうせ見送るのも見送られるのも、私一人だ。
さて、真夜中のささやかな儀式の始まりだ。
湖に少し入ったところで、両手を掬うように構えると、その掌の上に小さな炎を生み出す。
炎は一瞬、抵抗するように大きく燃え揺れたが、それを封じるように構築を加えて抑え込んだ。
そのまま魔術構築を書き込みながら手を加えていく。空気の膜で包み込み、圧縮するように書き込まれた構築に従って炎はその形を変え、縦に横に揺れながら、段々と花の模様を取り、その姿を安定させた。
それをそっと湖面へと浮かべると、炎の花はゆらゆらと水面を漂っていき、やがて湖の中へと沈んでいく。まるで死者に花束を手向けるように、その亡骸を燃やし尽くすように、炎の花はゆっくりと湖の底に沈んでいく。
しんと静まった夜闇の中に、揺らめきながら灯る炎の花はどこかもの寂しい。誰にも知られることなく消えていった“ソフィア・ランドルフ”に、手向けるに相応しく思えた。
「綺麗だな」
後ろから足音が聞こえてきて、少ししてから声をかけられた。
「ライル」
ライルは躊躇う様子もなく湖の中に足を踏み入れてくると、私の隣で立ち止まる。
「窓から君の姿が見えた。それは魔術の花か?」
こくりと頷き返すと、そのままなにを言うでもなく、ライルは水底に消えゆく炎の花をじっと見ている。
「……なにをしているか、なんのためにこんなことをしているのか……聞かないんですか?」
「聞かない」
振り向いた私を、透き通るようなアイスブルーの瞳が迎える。
いつもは一纏めに結われている亜麻色の髪は、今はふわりと下ろされている。そのせいか常に感じる凛とした大人びた鋭さは鳴りを潜め、中性的な美貌はいつもよりも年相応に見えた。
「君の決心がつくまで待つと決めた」
「……そうですか」
乾いた笑いが夜闇の冷たい空気に溶けていく。
「私は一生、向き合えずに逃げ続けるかもしれないのに?」
「構わない。それでもずっと待つ」
ライルは私の真似をして炎の花を形作ると、まるで悼んでいるとでもいいたげにそれをそっと湖に浮かべた。
「優しい、ですね」
「別に優しさでしていることじゃない。私がそうしたいと思ったからするだけだ」
「なんで、そこまで……」
「……」
それきり黙ってしまったライルから視線を外して、茫洋と目の前の光景を眺める。もっとこみ上げてくるものがあるかと思ったが、自分でも驚くほど感情は動かなかった。
ただ疲れにも似た喪失感を覚えながら、宵闇の中、ぼんやりと消えていく手向けの炎を見送っていた。
――これで本当に、さよならだ。
沈みゆく炎の花を見つめる。
やがて炎の花は一枚一枚花びらを散らすように、枯れるように、静かに燃え尽きてゆく。
ぽつぽつと溶けるように小さくなっていって、やがて最後の一片もなくなると、辺りは再び闇に飲み込まれた。
気づけば夜の冷たい空気が、夜着の中にまで染み込んできていた。
「夜は少し冷えるな」
「そうですね」
ライルの手が、伸びてくる。
「なにか温かい飲み物でも用意しよう」
体温の抜けた手が、同じように温度をなくした私の手をとって歩き出した。
ライルはキッチンに入ると、心配する私を余所に若干危なげな手つきで温かい飲み物を用意してくれた。
「……わ、レモネードだ。ありがとうございます」
湯気の立つレモン色の飲み物は、おいしそうだ。
「いつの間に作れるようになったんですか?」
「君は私がお湯を沸かすことすらできないとでも思っていたのか? ……合宿のとき、君たち二人はいつも一緒に楽しそうに食事の準備をするだろう。悔しくて練習した」
そうやって負けず嫌いで努力するところが本当にライルらしくて、思わず口元が緩む。
「ん? 濃くないか。酸っぱい」
一口カップに口を付けたライルは、盛大に顔を顰めた。
「いけますよ」
「お世辞なら要らない。正直に言ってくれ」
「これもまたいい味出してるじゃないですか。酸っぱさで目が覚めます」
「次はもっと上手く作る。おいしいと言わせるまでは諦めない」
壁にもたれかかると、ライルはぶすくれながら再びカップに口をつける。
しばらく二人して熱を冷ましながら、酸っぱいレモネードを味わっていた。
「……いい加減、前に進もうと思って」
静かな空気を破るように、唐突にそう呟いた私に、ライルはカップに口をつけたまま、淡い亜麻色の髪の隙間からアイスブルーの瞳を覗かせた。
「情けないことに、ずっと同じところで足踏みしていたんです。いつまでも振り切れずに前に進めなくて。でもどうしようもないなりにいい加減どうにかしたいと、やっと前を向く気になったというか」
「今さらってくらい、今さらですけど」と自虐的に笑ってみせるが、ライルは笑わなかった。
「前に進みたいと、そう思っている時点で前に進んでいるんじゃないか」
なにかしらの返事を期待して、呟いたわけではない。
ほぼ独白のようなものだった。
「本当に前に進めない奴は、前に進もうとすら思わない。そう思ったということは、君はほんの僅かだとしても、前に進んでいるということだ」
だけどライルは凛とした声で、私の唐突で突飛な言葉に向き合ってくれた。
「なんだか哲学的ですね」
「なんでもいいだろう。とにかく君はちょっとずつでも前に進んでいる。だから、そんな不安そうな顔をするな」
「不安そうな……」
「ああ」
ライルは細長い指を伸ばして、私の頬をつついてきた。
「こんな顔だ」
少し困ったように、しょうがないというふうにライルは微笑んでいる。
「やっぱり、優しいじゃないですか」
「もうそういうことでいい」
つつかれた頬が少し熱を持つ。離れた指が寂しく思えて、頭を振って、そんな感傷は追い出した。
「……そろそろ寝室に戻ろう。これ以上夜更ししていたら明日の特訓に支障が出るだろう」
ライルはレモネードを一気に飲み干して顔を顰めると、カップを流しへと置いた。
温かいレモネードを飲んだら、なんだか眠くなってきた。ふわりとあくびを浮かべた私に、ライルは体を起こして手を差し出してくる。
「送ろう」
「今日は随分と過保護ですね? なんだかオーウェンみたい」
「あの兄に例えないでくれ。ほら」
「はい……あの、付き合ってくれてありがとう」
差し出された手を握った私に、ライルが小さく微笑みを返した。アイスブルーの瞳が仄かな灯りを反射して、キラリと煌めく。
「おやすみ、ソフィ。いい夢を」
それは夢に見るような、柔らかくて、優しい笑みだった。




