高等部ニ年・Ⅱ
訓練終了後学院に戻ってくると、みんなを集めたエイマーズ先生は厳かに告げた。
「これにて今回の海上訓練を終了することとする。なお、合格点に至らなかったアンドリュー・ワース、デイビッド・モートン、及びソフィア・ランドルフの三名は、後期に追加の試験を行う。休暇中は遊ぶ暇などないぞ。各自、しっかりと特訓してくること!」
解散を告げた先生に、みんな散り散りに去っていく。
私のほかに名前を呼ばれた二人は青い顔で、後ろ姿に覇気がない。
「ランドルフ君、ちょっといいか」
その後ろ姿を見送っているとエイマーズ先生に手招きされ、何事かと佇まいを正した。
「君、水が恐いのか?」
その言葉にぽかんとする。
「いえ、そう自覚したことはありません」
「だが、水場に不慣れだな?」
「昔溺れかけたことがあって、それ以来水場には近寄らせてもらえませんでしたので……」
「そうか」
エイマーズ先生が腕を組みながら、ため息をついた。
「今回の海上訓練中、君は普段の訓練中よりも過剰に構えている節があった。それに魔術構築精度も格段に落ちて大分雑だったな。君の場合はその力で押し切れるのかもしれないが、できれば休暇中にもう少し慣らしたほうがいい」
「……了解しました」
足取りも重く、みんなのところへ戻る。
呼び出された私をルイとライルが待っていてくれていた。
「エイマーズ先生の話、なんだったの?」
心配そうに眉を下げたルイに苦笑を返す。
「もう少し水場に慣れなさいって」
「そういえば訓練中はどこか様子がおかしかったな」
ライルが怪訝そうに眉を上げる。
「もしかしたらと思ってずっと見ていたが……まさか、泳げないのか?」
肩を竦めて返すと、「なんでそういう大事なことを言わない」と目を眇められる。
「昔ランドルフ家の別荘で水遊びしていたときに溺れかけたことがあったので、それ以来そういったことはさせてもらえず……でも魔術でどうにでもできると思ってたので」
「そうだったの? ソフィちゃん、泳げなかったんだ?」
突然聞こえてきた明るい声に驚いて肩が跳ねた。いつの間にか後ろにノア先輩とクロエ先輩が立っていた。
「ソフィちゃん、おかえり!」
「クロエ先輩、ただいまです!」
にこりと笑ったクロエ先輩は、今日もふわふわとしていて可愛い。
高等部では周りはほぼ男子生徒ばかりなので、お洒落で綺麗なケイティやほんわか可愛らしいクロエ先輩はいるだけでその場が明るくなる。
「ソフィちゃんって弱点なさそうだけど、水がダメだったのね」
「女の子なんだもの、苦手なものの一つや二つくらいあるよね? ノアったら失礼だよ」
クロエ先輩に窘められても、ノア先輩はどこ吹く風でニヤニヤしている。
「で、エイマーズ先生から休暇中の特訓を申し付けられたんだって?」
「そう、なんですけど……」
うーん、どうしよう。水場での訓練ができるところといったらあの別荘くらいしか心当たりがない。
ネイサンに今回だけでも使わせてもらえないか、ダメ元で頼み込んでみるか。
「ソフィ、あてはあるの?」
「あまり頼りたくはないですが、あの溺れかけた別荘を使わせてもらおうかと……」
「いいね!」
なぜかノア先輩が名案だとでもいうように声を上げた。
「だったら今度の休みはソフィちゃんちの別荘にみんなで行って、特訓のお手伝いをしよう!」
「ノア、それってただエスパルディアに行きたいだけなんじゃ……」
「ついてくるつもりですか?」
ライルに咎めるような声に、ノア先輩は目をパチクリする。
「えーだってさ、ソフィちゃんの助けになりたいじゃん! 誰か教える人は必要でしょ? それに一度くらいはエスパルディアに行ってみたいし、騎士団長の屋敷とかすっごく興味あるし! え、なになに? うそ、もしかして君たち行ったことないの?」
「当、然! それくらいあります」
ギロリとライルに睨まれて、ノア先輩がさっとクロエ先輩に身を寄せる。
「……僕は行ったことないから、ちょっと行ってみたいな」
そんなノア先輩を見ながら、ルイは申し訳なさそうにしながらもポツリと零した。
……そういえばいつもルイの実家にはお世話になりっぱなしのくせに、ルイを呼んだことはなかった。
「私、聞いてみようかな……」
養ってもらっている身で誰かを呼ぶのは肩身が狭い。だけど、今回だけでいいからなんとか許可をもらえないだろうか。
「やったね! 今年の休暇はエスパルディアへの旅行で決まりだ!」
「先輩、旅行が目的ではありません。ソフィの特訓が主ですから」
「ソフィちゃんちってどんな所だろう? 楽しみだなー!」
はしゃぎだしたみんなに、ルイもやっと明るい顔になる。
「ソフィんち、初めてだね」
「うん。許可が出るといいんだけど……」
「あの騎士団長ならば大丈夫だろう。むしろ歓迎されて、根掘り葉掘り尋ねられる気しかしない」
ぼやくライルにあながち間違いとも思えず、曖昧な笑みを返す。
「では手紙を出してみますね。返事が来たらまたお知らせします」
それから手紙を出してしばらく。
ライルの予想どおり、ぜひ友だちを連れてきなさいとの返事がネイサンから届いたのだった。
意外なことに、ランドルフ邸までの馬車を用意してくれたのはノア先輩だった。
「ノア先輩、大丈夫ですか? 無理してませんか?」
四頭立ての立派な馬車に、後ろにはわざわざ荷物専用の荷馬車まで控えている。
しっかりとした造りの馬車は長距離を移動するのにありがたかったが、同時にこんないい馬車を用意してもらってよかったのか不安にもなる。
「ハハッ、これくらいまかせなさい。……無理してないかってどういう意味?」
「ソフィちゃん、もしかしてノアの実家、知らない?」
「はい。あまり興味もなかったので……」
「ちょっ、ソフィちゃん? 今何気にひどい本音が……」
「この程度のものくらい、発案者の先輩ならば当然のようにご用意してくださると思っていました」
にこりと笑むライルに、ノア先輩は「当然だ!」と引き攣った笑みを返す。
そういえばノア先輩もクロエ先輩も、今さらだが詳しい素性を知らない。
「さぁさぁ、話すのもいいけれども、そろそろ馬車に乗りこもうか。いざ、エスパルディアのソフィちゃんちに出発! ってね。ちなみに席順は早い者勝ちだよー」
「ソフィ、ルイ、早く乗ろう」
「んもぅライオネル様ったら! 相変わらずそっけないんだから」
素っ気ないライルにもめげずに笑っているノア先輩は、なんだか不思議な人だ。彼がいるだけでこんなにも場が明るく、騒がしくなる。
今はその騒がしさがありがたかった。
何度も通った石造りの邸宅までの道を今回は感傷に浸る間もなく、賑やかなメンバーと一緒に過ごしている。
一人喋り続けているノア先輩に、顔を顰めながらも相手をするライル。マイペースに寝ているクロエ先輩に、目を輝かせて外を見つめるルイ。
寂しさなんか、微塵も感じる暇もない。
「ルイ、そんなに外ばっかり見て飽きない?」
振り向いたルイは、にこりと笑って首を振った。
「全然。いつもソフィはこの道を通って、学院と行き来してるんだなぁって……」
「遠いよね。休暇中の強制帰省期間がなければなぁ。いつもルイが引き取ってくれて助かってるよ」
「休暇のたびに来てくれていいんだよ? ソフィが来ると常連さんたちも喜ぶし」
「本当に? じゃあ今度の休暇はまたお邪魔しちゃおうかな。それで、前から考えてたんだけど、アザレアさんがもし構わないなら、お店の備品なんかに防汚の魔術を構築したいなって。そしたら私たちが帰ったあともアザレアさんの役に立つと思って」
アザレアさんとは、ルイのお母さんのことだ。
「それ、いいね! それじゃあ後期に入ったらすぐにエイマーズ先生に申請して、魔術書探しに行かなきゃね。そういえばこないだ古書堂で……」
ルイはグレーの瞳を輝かせて、喜々として魔術書について語り始める。その様子を微笑ましく見守る。通常運転のルイの姿は微笑ましくもあり、心強くもあった。
……ルイのその話は、ランドルフ家が見えてくるまで途切れることなく続いた。
しばらくすると、やっと丘の上に石造りの邸宅が見えてくる。
到着する馬車を見つけたのか、玄関にはすでにオフィーリアが出てきていた。その後ろから珍しくサイラスと奥さんのエリザさんも出てきている。エリザさんの腕の中には、先日産まれた赤ちゃんのオスカー。
それからなんと、ネイサンにオーウェンまで玄関に勢揃いしてきて……さすがに顔が赤くなってきた。
「すごい歓迎具合だね?」
ノア先輩のニヤニヤ笑いが憎たらしい。
「あの人たちがソフィの家族かぁ……」
ルイが幾分か緊張した様子で呟く。
「多分、初めて友だちを連れて帰ってきたから興味津々なのかも」
「ソフィ? 私は以前、訪問したことがあるはずだが?」
ライルの鋭い声に、思わず「もちろん忘れてませんよ!」と返す。
「こんな大勢で、という意味ですよ!」
ぶすくれたライルとは対照的に、ルイは気弱に微笑んでいる。
「ルイ……そう心配しなくても大丈夫だよ。オフィーリアにもいつもルイのことは話してるしね。一番仲の良い友だちだって。歓迎するってちゃんと返信あったから、もっと気楽にしてて」
「……僕のこと、一番仲の良いって本当?」
思いのほか期待に満ちた目で見つめられて、うんうんと力強く頷き返す。
「ソフィ、ルイが一番なのか?」
変なところで耳聡く聞きつけたライルが、これまた変な横槍を入れてきた。
「え?」
「だったら、私は何番目になる?」
まじまじとしたグレーとアイスブルーの瞳に挟まれて困惑する。
「到着しますよ。馬車が止まります」
そのとき連絡窓から御者の声が聞こえ、にわかに慌ただしくなった。
「クロエ先輩、着きましたよ」
二人の視線を避けるように眠っていたクロエ先輩の肩をそっと揺する。長い睫毛がふるりと震えて、奥から可愛らしいベビーピンクの瞳が現れた。
クロエ先輩は眠たげな目を擦りながら、キョロキョロと辺りを見回している。
「うーん……ごめんね、すっかり眠っちゃってた……もしかしてもう着いちゃった?」
そして窓の外に勢揃いしているランドルフ一家を見て、目を丸くする。
「えっ、あ……どうしよう! よだれ垂れてない? 寝癖は?」
「大丈夫ですよ。よだれも寝癖もついてないです」
あわあわしながら長い髪を手櫛で梳かし出したので、その髪を整えるのを手伝う。二人でくすくす笑い合っていると、先に降りたノア先輩から呼ばれた。
馬車から降りると、ランドルフ一家が勢揃いで私たちを待っていた。
「はじめまして、ランドルフ卿。此度は突然の訪問を快く受け入れてくださり、感謝いたします」
ノア先輩は優雅な笑みを浮かべると、見事な礼を披露した。そのあまりの豹変ぶりに思わずあんぐりと口を開ける。
「これはこれは、ヴェルシー侯爵のご子息にみなさんも。今日は遠いところからよくぞいらしてくれました。長旅でお疲れでしょう。さ、立ち話もなんですから、どうぞ中へ。お茶を用意していますよ」
ネイサンとオフィーリアがにこにこしながら中へと促してくれる。
私は同じくにこにこ笑っているクロエ先輩を見つめた。
「ノア先輩って、もしかしなくても上流階級の方ですか?」
「ん? あ、そうそう、そうなの! 普段はそう見えないように振る舞ってるんだけどね」
「そうなんですね……たしかにそんなふうに見えたことはなかったかも」
「あんまり貴族だからって言われるの、好きじゃないからね。ヴェルシー家はティリハの上流階級の中でも有名な貴族だよ」
ネイサンと談笑しているノア先輩は、本当に別人のようだ。
ニコニコしているネイサンたちとは対称的に、その隣ではオーウェンがじろじろとライルを眺めていた。
「……君はライオネルくん、だね。お久しぶり。あのときはソフィを誕生日会なんかに呼びつけてくれちゃって、どうも」
「お久しぶりです、お兄様。その節は勝手に押しかけてまでお祝いに来てくださってありがとうございました。感謝の念を伝えるのが遅くなって申し訳ない」
なぜか喧嘩腰のオーウェンとライル。
なんとなくこの二人は相性が悪そうだ。あの物語のこともあるし、あまり近寄らせないようにしよう。
「おいオーウェン、ソフィの友だちに突っかかるのやめろよ。みっともない。と、君がルイくんかな? いつも休暇中ソフィがお世話になってるみたいで申し訳ないね。帰ってこいって口酸っぱく言ってるんだけど、あんまり聞いてくれなくて」
笑顔を浮かべたサイラスに、ルイは引き攣った笑顔を浮かべる。
「あらあら、二人とも。妹のことになると大人げなくなるんだから。本当にごめんなさいね、いつもソフィと仲良くしてくださってありがとう」
オフィーリアが二人の兄の様子に気づいて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「いえいえ、お気になさらず。露ほども気にしていませんよ」
さらりと笑顔を浮かべたライルに、オーウェンの額に青筋が浮かんでいる。
ライルは実に綺麗な笑顔を浮かべながら、クロエ先輩と笑いながら中へ入っていくオフィーリアの後に続いた。
その背を追いかけながら、さっきから言葉数の少ないルイへと声をかける。
「ルイ、緊張してる?」
「ああ、大丈夫だよ」
そうは言っているが、振り向いたその顔はどう見ても引き攣っているように見える。
ルイはちらりとライルを見た。
「ライルはよく平気でいられるね。さっきからお兄さんたちからの圧が凄い気がするんだけど……」
「あんなの陰険な貴族どもと比べたら可愛いらしいものだ。気にするようなことでもない」
「ライルの厚かましさが羨ましい……」
「サイラスかオーウェンになにか言われた? ごめんね……」
「いいや、本当に気にしないで。勝手に緊張してるだけなんだ」
「二人とも私の友だちに会うのが初めてだから、どう接したらいいのか分からないのかも。二人のことは本当に気にしないで」
こっちにいたころは男の子の知り合いはおろか、友だちすらいたことなどなかった。
「ルイが初めての友だちだからね」
そう考えると、初めてブライドンに入ったときに紹介されたのがルイでよかった。
「僕が初めて?」
「そうだよ」
もの言わぬ気味の悪い子どもだった幼少期は誰も近寄ってこず。記憶を取り戻してからは、いやに落ち着いた態度につまらない奴だと倦厭されていた。
そもそもそれ以前に、上流階級の子どもからは貴族に取り入る卑しい賤民と侮蔑されていた。かといって平民の子どもたちからも、恵まれた環境にいる場違いさからか仲間に入れてもらうこともなかった。
――でもそれも、自分の環境を思えば気にならなかった。
実際平民の癖にいい暮らしをさせてもらえているのは事実だったし、それになにかあればいつもサイラスとオーウェンが守ってくれた。
でもそのことで二人にとばっちりがいくことを知ってからは、なるべく表へと出ないように、迷惑をかけないようにと、誰とも交流を持とうとしなかった。
だから私個人に対してあんなにも純粋な好意で接してくれたのはルイが初めてで、ルイのおかげで私のブライドン学院での生活は色鮮やかなものになったのだ。
「そっか、僕が初めてか……」
「ほんと、ルイには感謝してもしきれないよ」
ルイは目を丸くしたあと、ようやくいつものようにふわりと優しい笑みを浮かべてくれた。




