高等部二年・Ⅰ
ここまで読んでくださった皆様に感謝です!
「……ドルフ君、ランドルフ君!」
ルイにそっと肩を突かれて、エイマーズ先生から呼ばれていることに気づく。
「次は君の番だが、どうした? ランドルフ君」
「……すみません」
「体調が悪いなら無理はするな。事故の元だぞ」
「大丈夫です。違います」
「そうか。なら集中しなさい」
それに返事を返すと、慌てて所定の位置へと進み出る。
あれからも、なんてことのない日常は続いている。
二学年に進級してからは、より厳しくなる演習と山程の課題。それをなんとかこなしながら過ぎてゆく、穏やかな日々。
今回は対海上戦の訓練のため、ティリハ国内にある学院所有地に隣接した海へ合宿に来ている。
ほかにも学院所有の演習場は幾つかあるそうで、二学年からはそういった演習場への合宿も徐々に増えていくようだ。
今は海上で攻撃を受けた想定での訓練の最中であり、さっきからもう何度もエイマーズ先生に魔術をぶつけられている。
「いくぞ!」
エイマーズ先生の笛の音とともに凶暴な風の渦がぶつかってきて、私はそのまま勢いよく弾き飛ばされた。
それに遅れて魔術を構築して、海中への潜行の準備をする、が……構築が間に合わないまま、海中へと引きずり込まれた。
もう何度も繰り返しているが、さっきからどうも上手くいかない。構築しきれずに間に合わなかったり、もろい構築に魔術が負けてこうして巻き込まれたりしている。
こうやって海に引きずり込まれるのは何度目だろう。瑠璃色の海の中をゆっくりと沈みながら、鈍く光る海面を眺める。
“ソフィア・ランドルフ”は、もういない。
残った唯一の懸念はライルだが、彼はブライドンの研究機関に残るつもりなので、このままなにもなければ聖女と出会うこともないだろう。
あとはもう、オーウェン次第だ。
もうこの物語において、私の担う役割はなにもない。
――だったら、なんのために自分はまだこの世界で存在しているのか。……ときどき、そんなことを思ってしまうときがある。
どうすればいいのか分からなくなるような心許なさ。今まで渦巻いていた強い感情がぽっかりと抜けた先の、空虚。投げやりになる自分に対する自嘲。
沈む海の底は、暗く深く。海面の光はだんだんと弱く鈍く、遠ざかっていく。
それを見るともなしに眺めていると、急に水流が渦巻いて私の体を押し上げ始めた。あっという間に水面へと到達すると、無表情のライルが浮かんでいる。
「大丈夫か?」
「すいません。ありがとうございます」
投げ渡された浮き具をライルがこっちに寄越してくれた。それに掴まったところで、またライルから呼び止められる。
「ソフィ」
振り向くと、なにかを言いたそうに口を開くライル。
「どうしました?」
「いや……」
結局ライルは首を振ると、「一度休憩したらどうだ」と私を船のほうへと押し始めた。いつも歯に衣着せぬ言い方をするライルにしては、珍しく言い淀んだ様子だった。
昼間の演習が終わると、束の間の自由時間だ。オレンジ色に染まる海岸でみんなは思い思いに散らばって、思う存分遊んでいる。
あれだけ海に突き落とされたというのにまだ海で泳いでいるメイシーさん。ケイティやトール、ルイはほかの生徒たちと一緒にボールの打ち合いに熱中している。
それを眺めながら一人黄昏れていると、隣にライルがやってきた。
「混ざらなくていいのか?」
「さすがに疲れました。訓練でくたくたなのにみんな元気ですよね」
そう返すと、クスリと笑われる。
絶え間なく届く波の音は眠気を誘ってくる。
ライルも私を真似てぼんやりと海を眺め始めた。海の向こうに視線を遣るその姿を、鮮やかな茜色が染め上げている。
「……ソフィ、私たちが初めて会ったときのことを覚えているか」
「ああ、あの誕生日会のときのことですよね」
澄ましていたあの貴族の男の子とまさかここまで仲良くなるとは、あのときは夢にも思わなかった。
「もちろん覚えていますよ。挨拶した途端連れ出されるものだから、なにを言われるのかとひやひやしたんですから」
「それはすまなかった」
くすくす笑う私に、ライルはバツの悪そうな顔を見せる。
「恥ずかしながら、あのころの私は少し捻くれていて」
そのころを思い出したのか、ライルが目を細める。そういう表情を見せるのも今じゃ珍しくなくなって、随分と気安くなったものだ。
「ええ? 今はそうじゃないとでも?」
「どういう意味だ、それは」
戯けたように睨まれて、小さな笑いを漏らした。
「……どちらかと言えば、今はソフィのほうが捻くれているだろう」
しかし次の瞬間にはからかいの色は消えて、低く呟くように返された。
「今の君はまるで、少し投げやりになってるみたいだ」
「……そう、ですね」
「一体なにがあった」
その声があまりにも心配そうだったから。
いつも歯に衣着せぬ物言いで、真面目で厳しくて容赦ないライルがいやに優しかったから。
言うつもりのなかった言葉がぽろりと溢れ出る。
「なにって、別に大したことがあったわけじゃないんですよ。ただ……」
「ただ?」
「やっと、諦めがついたってだけで」
こんなこと、ライルに言ったってしょうがないって分かっているのに。
「ま、本当に大したことのない理由ですよ。そのうち、いつもどおりになると思いますから」
なんでもないことのように言って笑うと、ライルのアイスブルーの瞳が揺れる。躊躇うように開かれた口から言葉が出る前に、聞きたくなくて遮った。
「それよりも、捻くれ時代のライルってどんな子どもだったんですか?」
ライルは吐き出そうとした言葉を無理矢理飲み込むと、作ったような微笑みを浮かべる。
「ソフィに出会う前の私のことか? 今思うと相当に腐っていたな」
「へぇ?」
「あの国では魔術の才なんてあったところで、価値なんてないだろう……それはソフィだって同じだっただろう? だから君はブライドンに来たんじゃないのか?」
私の場合はそれとはちょっと違う。だけど追求されても上手く答えられる自信もなく、曖昧に笑って誤魔化しておく。
「武術のほうはからっきしだったから、出来損ないの烙印を押される毎日が耐えきれないほど辛かった。いつか必ず奴らを見返してやると、いつも心の中で呪っていたよ」
……もしかしたらこんなに安易に聞いていい話じゃなかったかもしれない。
「ごめんなさい。軽々しく聞いてしまって」
「いいんだ。……君になら」
遠くに視線を遣っているライル。
「あの日、ソフィに会えたことが私の転機になったのだから」
その夕日に染まるアイスブルーの瞳が、こっちを向いた。
「最初はほんの出来心だった。ただ我が国初のブライドン学院の特待生がいると聞いて、どうしても会いたくなって、それで父に我儘を言った」
それであのとき、ネイサンに無理矢理招待状が渡された。
「君は初めて会った不躾な私に、根気よく付き合ってくれた。あの日、たくさん話してくれたこと……君が学院でどのように過ごしているのか、どんなことを習っているのか、今でも鮮明に思い出すよ。とても興味深くて楽しくて、いつの間にか夢中になって聞き入っていた」
「それは……楽しんでもらえていたようで、よかった」
「ああ、あんなにも人と話して楽しいと思ったことなど、今までなかったから」
あの国にいれば、魔術について話す機会などそうそうない。私の話はよほど新鮮だったのだろう。
「それで、私もブライドン魔術学院に入学したい、そう強く思ったんだ。あんな小さな女の子が一人で成し遂げたことを自分ができないはずがない。負けてなんかいられない。そうやって自分からなにかをしたいと思えたのは、あれが初めてだった」
「それは……」
私の場合は、朧げながら前世の記憶があったから敢行できたことだ。ライルのように、純粋な向上心でどうにかなったわけじゃない。
「あの日、私はようやく自分の人生に希望と目標を持つことができた。だから、今の私がいるのはあの日の君のおかげだ」
「いえ……私はなにも。それはライルが自分で努力した結果以外のなにものでもないですよ」
ライルの評価は過剰なものだ。私にはそんな高尚な理由なんてなかった。
……私はただ、事実から逃げていただけだ。
「そう頑なにならないでくれ。君のその行動力が一人の捻くれた子供を救った、ただそれだけの話なんだから」
首を振る私を、ライルはじっと見つめてくる。
亜麻色の髪がそよ風に乱れる。その向こうから見えるアイスブルーは、どこかいつもと違う雰囲気を漂わせている。
真っ直ぐな眼差しに、気遣うような言葉。
その手がゆっくりと伸びてきて、そっと私の手を掴んだ。
少しひんやりとして硬いその感触は、まるで安心させてくるかように心地良く感じる。
「だからもし今の君が悩んでいるのなら、試しに私に話してみないか。ひょっとしたら役に立てるかもしれない。なにかのきっかけで事態が変わるかもしれない。君が困っているのなら、だったら今度は私が君の力になりたいんだ」
「ライル、私は別に……」
「友だちが苦しんでいるのを見るのは辛い。ルイだってきっと同じように思っているはずだ」
――あのライルに、ここまで言わせている。
ふと、なにもかももうぶち撒けてしまいたくなった。
誰かにこの気持ちを洗いざらい喋りたい。私をこんなにも心配してくれるライルなら、もしかしたら受け止めてくれるかもしれない。
……でも、怖い。
こんな独りよがりで自分勝手な思いを一方的にぶつけたところで、どう思われるか。
もしも呆れられたら?
がっかりされたら?
私はライルの思うような人間じゃないって知られたら、ライルは離れていくのでは?
――もしも、あの物語のようになってしまったら。
もう私の役割は捨て去ったはずだというのに、私はいまだに、あの物語の影を恐れている。
「……そうですね。いつか、話せる決心がついたら。その時は聞いてくれますか?」
「もちろん。いつだって」
ライルの淡い色の睫毛が伏せられる。
ひんやりとした手が、二人の熱でほんのりと暖かくなる。
日が落ちてきた空からは、鮮やかな色が徐々に消えていっている。代わりに淡いグラデーションの帳が降りていた。
ライオネル・アディンソン。
私を唆し、オーウェンを害そうとする真の黒幕。
浄化の旅に出てくる彼は表と裏の顔を使い分ける危険人物として、完全な悪の側の描写しかなかった。
彼があのままエスパルディアにいたのなら、あの物語のようになってしまっていたのだろうか。
……この心優しい友だちが少しでも救われたというのなら、私の行動も少しは意味があったのだろうか。




