光武帝、今回は出てこない
「ぐむ、ぐむむむうぅ……頭が痛い……」
「丞相、お呼びでしょうか」
「おお、荀攸か……」
荊州の曹操は参謀の荀攸を呼び付けていたのだが、折悪く頭痛に苦しんでおり、側仕えに介抱されていた。
「丞相、都合がお悪いのであれば失礼致します……」
「いや、よい。こっちへ来い。協議を行う」
「はい」
二人は床几に隣り合って座り、話を始める。
「江陵には劉備軍数万。江夏城にも挙兵した劉キ数万がおります。
南の江東には孫の呉があり、兵力は二十万に及びます。
我が軍は二十三万。兵力は殆ど同じです」
「荀攸、そなたの方策を聞かせよ」
「はっ。私は呉と条約を結び、兵を出させないようにしたいと考えております。
江東へ進軍すればその分、北の事変が起きた場合に対応するのが難しくなりますからな。
その後劉備と劉キの城をそれぞれ十万で攻め、三万を予備としたいと思います。
劉備を攻める第一軍は主将張遼。第二軍は主将曹仁がよいでしょう。
また、水陸両方から城を攻めるため、水軍は計画通り荊州軍閥の者達が適任かと」
江東から離れた北の涼州にて馬超、韓遂らの反乱が起きる可能性も荀攸は常に考えていた。
北には異民族が物凄い数存在し、馬超らでなくても反乱の機会を伺っている。
「孫権が劉備と結んでいれば、孫権は同盟に応じない場合もあるぞ?」
「ですが劉備は黄祖を握っております。孫権にとって奴は親の敵。
しかし、劉備はこれを渡しません。故に連盟は有り得ません」
「そんなことが……確かにそなたの言う通り荊州に専念がよいだろうな。
ただ気になるのは曹仁の報告だ。劉備軍の劉文円とは一体何者なのだ?」
曹仁は劉文円という男が孔明に代わって劉備軍を統率し、勇猛果敢で知略に優れていたと報告していた。
「劉文円という男に関して全く情報はありません。
ただ、年齢を考えると劉備の息子なのかもしれません」
「劉備めズルいぞ。戦国乱世を渡る上で一番の武器になるのが何かわかるか。
兄弟や息子に優秀な者を得ることだ。諸葛亮に加えて息子まで……!」
劉秀は息子ではなく、劉備の先祖でもない。
劉秀は皇室とは関係ないとされるが、一応劉備は前漢の劉邦の血を継いでいるとされる。
それでも劉備にとって息子などより余程信頼できるのは確かだった。
彼には、劉備にすら勝るほどの燃える闘志があり、その闘志の燃料は、末永く平和な国を、とうとう創ることが出来なかった自責の念であった。
「ですが劉文円が優秀という噂があろうと十万で攻めれば関係ありますまい。
勝利のあかつきには黄祖を生け捕りにし、江陵と黄祖の譲渡を条件に同盟を打診致します」
荀攸の言い分は実に理にかない、戦略的にも非常に頷けるものだった。
完璧と言える、はずだ。だからこそ孔明と劉秀に読まれている事を彼は知らない。
「それで行くぞ。私も出る」
その頃孫権の目の前で、孔明は孫権の部下から色々と意地悪をされていたが、これが有名な孔明の舌戦である。
散々に論破されて赤面している文官達を見かねた孫権が孔明に言った。
「諸葛孔明よ。いい加減にせよ。そなたは一体何をしにきたのだ」
「その質問をお待ちしておりました。ご辺には、わが主君の戦略をご説明しに参りました」
「孫劉連盟の交渉ではないのか?」
「まさか。そのような話、既に魯粛殿にもお断りを入れてあるはずですが」
「確かにそうだが、ではなんだ?」
「ただ、賢明なる孫仲謀殿にはこれから起こる戦の説明をしに」
「ほう。聞かせてみせよ」
「……曹操は中原を支配し天子を幽閉し、荊州の大部分を治め、その力まことに強大。
文官武将も有能が揃っており、今や二十万の兵で長江流域を南下しております。
その兵は、私の考えが確かならば二手に分かれ、江夏城の劉キ殿とわが主君に襲いかかるでしょう。
水陸から攻め立てられ、主君の命脈もついに尽きる事明らかです」
孫権はわざとこれに哄笑してやった。
「ははは、めでたい事ではないか?」
魯粛以外の孫家の部下は一様に笑った。
さっき散々罵られた文官も腹いせをする機会が思いのほか早くやって来て嬉しそうに笑った。
だが孔明はクールそのものだ。
「本心からそう思ってはおられますまい」
孫権と魯粛は暗い表情にすぐさま変わった。その通りである。
孔明は周囲を静かにさせ、続ける。
「それほどの脅威である曹操は、何としても勢力を削ぎたいのが本音でしょう。
呉は、本当のところ荊州全域がどうしても欲しいのであり、曹操軍にはいずれ決戦を挑む心算のはず。
荊州をとらねば、曹操の天下統一を許してしまいます」
と、孔明はさっきから黙っている周瑜の顔をちらりと見て言葉を切った。
「おっしゃる通りです孔明殿……今完全に荊州を取られたら、我々に望みは殆どなくなる」
「正直は美徳です子敬殿。では私も正直にお話しましょう。
虚心坦懐に申しますが、我々は孫劉連盟を望んではおりません。
期待するのは、『賢明なあなた方が最善を尽くすこと』です」
「曹軍が攻めてきたら援軍をよこせと。しかしそれは出来ん。
盟約のない援軍は、つまるところ出し損となろう。
援軍を出したのだから対価をよこせと言っても、お前達はしらを切り通す気なのだ」
峻厳な口調で鋭い意見を言い、孔明を満足させた美男子はもちろん周瑜。
字は公謹。呉の人物の中でもまず一級の将軍である。
「それほどおっしゃるなら、ここに同盟を結びましょう。
会稽太守殿、ではその条件は如何致しましょう」
という風な話に持って行くのが孔明の実に上手いところである。
周瑜が、盟約なき援軍を出したらリスクが大きいという指摘をした。
で、孔明が改めて、「別に同盟結びたくないけど条件どうします?」
と聞いたわけだが、そうなると、孫権は多少譲歩してでも盟約を結ぶ方向へ行かざるを得ない。
本当は、孔明は同盟を望んでいたのである。
そのことに気づけたのは魯粛と孫権だけだった。
「黄祖引き渡し。これが条件だ」
「それだけは飲めません。ああ、これでは堂々巡りですな」
「わかった、わかった孔明。そなたの勝ちだ。
黄祖の件は棚上げだ。ただし、援軍を出すからにはそれなりの対価がないと周瑜が怒るぞ」
「閣下、しかし我らの勢力、はなはだ小さく、江東にお渡し出来るものなどありませぬ」
もちろん孫権は知っていた。これ以上劉備から何か奪うことは不可能であることを。
だが周瑜は何となくこの孔明が気に入らないので、食ってかかる。
「主君、結局それでは何も得られはしませぬ!
少なくとも江陵の引き渡しを取り付けねば援軍は認められません!
我は提督ですぞ。軍の事は私にお任せ頂きたい!」
実のところ周瑜と孫権は仲が良くなかった。
筆者も弟なので、兄貴の友達なんぞと仲良くなれる訳がない事はよく知っている。
特に孫権と孫策は歳が離れていた。
孫権はこれに昂然と反論した。
「だが周瑜よ、賢い借金取りは、債務者を追い詰めたりはせぬ。
出来れば債務者が金持ちになってくれれば、借金のとりっぱぐれはないからな。
むしろ助けてやることも時には必要なのだ。今回も同じである。
連盟を結び曹操に対抗するからには、劉備には出来れば勢力を拡大し、曹操を苦しめてもらわねばならない」
「まことおっしゃる通りです」
孔明はヨイショしたのではなく、本当に孫権の口の上手さを褒めたかったのである。
孫権は続ける。
「私はこの連盟を飲もうと思っている。
この借りは、いずれ劉備が強大になってから思う存分むしり取ってやろう。
何しろ我々は劉備の命を救うのだ。義を重んじる劉備は協力せざるを得ないだろう。
目先の小さな利益にとらわれるより、五年、十年後の吉事を期待する。
今は劉備を助けてやる。大国としての度量を見せる事にもなろう。
子敬、この件はどう思う?」
「提督が、反対するのは無理からぬ事。
戦友を、劉備のために失うかもしれないのですから。
しかしやむを得ません。主君のお考えは最善であるかと」
「く……承知した……」
周瑜は魯粛が大好きだ。昔大きな恩を受けた。
魯粛は大金持ちの名士でありながら周瑜に倉一つ分の米を差し出し窮地を救い、また貧民にもつとに慕われ、施しを与えていた。
孫策亡き今、親友の筆頭は魯粛といっていい。
魯粛と孫権に説諭されては、この話受けざるをえなかった。
周瑜の言質を得て、抜け目なく孫権は言った。
「水軍三万、陸軍五万をそなたらに与えよう。
この借りは、今後、累計で十万の援軍を我々が受けるまで残る物とする」
出す兵力は八万。返すのは十万。孫権は商売人だった。
「ありがとうございます。すぐに誓書をしたためましょう」
「頼む。私はそれほどお人よしではないからな」
誓書を確かに認めた孫権は周瑜に命を下した。
「公謹、提督として、八万の兵を束ね出陣するのだ。
また、劉備の軍師である諸葛孔明との軍議は、本作戦を成功させる上で必要不可欠である。
ただちに将軍達とともに軍議を開始せよ」
「承知致しました……」
これより史実の赤壁とは全く異なる戦いの軍議が始まった。
周瑜は黄蓋、程普ら重臣を引き連れ、劉備軍の参加者わずか一名の軍議に入った。
さっきは怒っていたものの、軍事となると周瑜も怒ったままではいられない。
仕事人である周瑜は、今は至って冷静であった。
「諸葛先生。思いまするに、先生の意見からまずお聞きするべきでしょう」
「はい、しかし気がかりなのは、そちらの男です」
孔明が指差したのは何食わぬ顔で軍議に出席している龐統だった。
「がははっ、わしのことなど気にするな孔明!」
「我が陣営の劉文円がそなたの事を気にかけておった」
「あの男、本当に玄徳殿の部下に加わったか。よかったよかった」
「あの男は何者なのだ。士元よ。お主が何か知っているのではと思い探しておった」
呉の武将は怒りだしかけたが、周瑜も気にかけていた劉文円という謎の男の話が聞けるかもと思い、皆を静かにさせた。
「文円なあ。あれ以来会っとらんし、会ったのは一回だけだが?」
「あの男は敵軍で例えると曹操並の知謀、張遼並の武勇を兼ね備えている。
いや、未だに底を見せておらん。あやつを主君に取り入らせたのはそなたであろう」
孔明がそこまで言う男がいるとは、さすがに周瑜も龐統も面食らった。
「ちょっと待ってくれ先生。文円という男は、劉玄徳の息子ではないのか?」
「誰がそのようなことを申したか存じ上げませんが……事実無根です」
周瑜は意外だった。劉備の息子が武勇を誇るという噂は全国的に広まりはじめていたからだ。
「なんにせよ人材が発掘できてよかったではないか」
「……」
孔明はしばらく沈黙した。龐統は何も知らないと思ったからだ。
それからまた孔明は話を続ける。
「皆様、失礼致しました。話を始めさせていただきます。
まず曹操軍ですが、明日か明後日にでもこちらに同盟の申し入れが来るでしょう。
我ら劉の軍に集中するため、あなた方には大人しくしてもらいたいのです」
「妥当ですな。それで?」
「もちろんこれは受けたふりをして頂きたい。
我々は曹操の全軍に立ち向かうものの、戦力差はいかんともしがたく、やがて要害を盾に籠城することとなるでしょう。
戦略は簡単です。籠城している我が軍へあなたがたは兵をお寄せ下さい。
合図をして曹軍へ襲い掛かり、我々はそれを見て城からうって出ます。
全くの不意打ちになりますから、互いに被害は少なくて済むことでしょう」
「上手く行くであろうか?」
と言った周瑜に孔明は短く答えた。
「上手く行くかは演技力次第でしょう」
「上手く行くことだろう。主君はまだ年若いのだ。
反戦、服従を唱える部下に押され、 同盟に同意したと思わせるのは容易い。
もちろん、主君は曹操をも凌ぐ俊英であられるがな」
龐統は先生と呼ばれ、呉でも尊敬されること孔子のごとくだったので周瑜も反論はしなかった。
孔明はこれに満足し、続ける。
「士元、それではそなたに演技指導の方はまかせた。
私は……やはりここに残った方がよいでしょう。
皆様、それで異論はございませんか?」
「どうぞごゆるりと。賓客としてもてなします」
周瑜は心にもないことを言い、軍議は孔明、周瑜、 龐統、魯粛などの英才の力を借りて煮詰まっていった。
光武帝は孔明の想像を超える怪物なので、本気で曹操に勝つ算段を考えていた。
もちろん孫権の力を一切借りず。
孔明のいない江陵城で、光武帝劉秀が暗躍を始める。