光武帝、笑う
「あの、主君……劉修からの書状です」
さっきから黙っていた伝令が、預かってきた書状を差し出した。
劉備が読んでみると、思わず笑ってしまう内容だった。
「ハハ、こいつは面白くなってきた!」
「どうされました?」
「孔明、見て見ろ」
書簡を渡された孔明は、言われた通り内容を改め、一目見るなり愕然となった。
「こ、これは!」
「だから何なんです?」
法正が聞くと、劉備と孔明は同時に答えた。
「曹操がーー」
「ーー崩れ去る!」
書簡を読んだ劉備は、心地好い敗北感すら胸に笑顔で軍を反転させた。
その道すがら、劉備は晴れ上がった空に向かって呟いた。
「全く、とんでもない奴と同じ時代に生まれちまったもんだぜ……」
いや、大丈夫である。劉備と劉秀とでは、誕生日が150年以上も違うのだから。
劉秀はこの後、帆を畳んで本来の長江の流れの通り東へと進んだ。
麗華などと感動の再会をしている場合ではむろんないからだ。
長江はそもそも、標高の高い中央アジアから低い東側へと流れる。必然である。
そのままゆっくりと流れ、三万と四万の軍はそれぞれ江陵で落ち合うようだ。
江陵は何かと縁があるというか、頻繁に出てくる地名だ。
9月29日、江陵には陸に上がった水軍三万、そしてこれまで撤退行を続けてきた四万の荊州軍が互いの健闘をたたえ合っていた。
彼らの総大将・劉秀もまた、麗華と何か積もる話があったようだ。
雄大な長江に感謝の眼差しを向け、二人は隣同士に並ぶ。
麗華が言っていた通り、若い恋人同士のように見つめ合う事はもはやない。
だがそれと同等以上の絆で結ばれ、同じ方向を見つめるのだ。
「ねえ、文叔……聞きたいんだけど、これだけの船なかなか即席には用意出来ないわ。
最初からこうなることを見越していたの?」
「また始まった、麗華の買い被りが。俺はそこまで怪物じゃない。
念のため船も用意しておくか、という以上でもそれ以下でもなかった。
劉備が裏切り、船を使うことになったのは残念だったが」
「それは……ごめんなさい、私の読みが間違ってた。
私に無理強いされたらあなたが嫌と言えないのに……突っ走った」
麗華はばつが悪そうに頭を下げたが、劉秀には気にする様子は微塵もない。
「いやいやそうでもない。麗華のおかげで劉備軍の使い道も出来たしな」
「えっ、劉備軍の新しい使い道?」
麗華には何の事だか全くさっぱりわからなかった。
「ま、すぐにわかる。行こう……曹操と決戦だ」
劉秀は別にここで説明する気にはならなかったようで、適当にはぐらかしておいた。
「ええ」
そして9月30日、早速、江陵のすぐ北の襄陽へ進軍し、劉秀軍は31日にはもう既に川を越えて新野周辺までやって来ていた。
ここまで来てようやく、曹操は劉秀が新野からどこかへ消えたと知らされていた。
驚くべき情報不足だが、まあ曹操軍が益州でどんなことがあったか、まるで知るよしもなかった。
可哀相な曹操軍は、何も知らないまま、まず成都城を出て北へ向かい、漢中を東へと進み、上庸というそれなりの都市にきていた、それが31日の事だった。
まあ全員徒歩だということを考えれば遅くはないスピードだった。
しかし劉秀の動きがあまりに早く、また曹丕、司馬懿が様子見戦略を逆手に取られた事も大きかった。
じゃあ一体、司馬懿と曹丕は今回どうすればよかったのだろうか?
多分どうしようもなかった。下手に動けば隙をつかれてボコボコにされて終わりである。
揚州の人間に寝返りを打診すれば低い確率だが劉秀を本物の窮地に追い込めたかもしれないが、二人ともやらなかった。
かくして、一万人で守っていたはずの新野に何故か七万人が集まり、その七万は不敵にも十五万の曹操がいる西へ向けて一切の躊躇なく進みはじめた。
10月2日。この日は曹操軍が劉秀軍七万と正面から対峙する事になる日だったが、その日の午後、長安の曹丕に衝撃的な一報が入ってきた。
直後、以前のように司馬懿は丞相代理の曹丕に呼び出される事となる。
「お呼びですか、若君」
「仲達先生。残念な知らせがある。そして……重要事項を決断する必要も出て来た」
この前はフハハ、この戦力差で何が出来よう!
とか言っていた割に、今回の曹丕は本当に深刻そうである。
青白い顔はことさら真っ青になり、唇を噛んでいる。
「劉修がどうかしたので?」
「ああ、どこからか、まるで仙術か道術のように四万の兵を連れてきた」
「なるほど、益州遠征に出ていた軍を回収したようですね」
「その通りだ。この短期間でだ。ありえん、ありえんことだ!
先生ならもうおわかりだろう。ろくに交戦もせず劉備は益州へとって返した!」
「つまり……劉備は最初から劉修を裏切ったふりをしていた可能性が高いですな」
劉秀がさっき言っていた劉備軍の使い道というのはこれである。
劉備軍は、劉秀の予想外の機動に完敗し、撤退を余儀なくさせられたに過ぎない。
しかしそのような詳細な情報を現時点で曹操陣営が知るはずもない。
だから司馬懿や曹操ですらこう考えるほかなかった。
「最初から劉修と通じていた劉備軍は、劉修軍が十五万の曹操軍主力と戦っている間に好き放題暴れる気である」
その考えを否定する妥当な根拠がなかった。
最悪を想定した場合、そう考えるしかなかった。
つまり劉備軍は今成都城へ帰っている途中だが、そこにただ居るだけで曹操陣営への脅威と牽制になってくれている。
この前の劉秀の、船で長江を進み麗華と四万の遠征軍を救出する作戦は一石三鳥であった。
まず劉秀軍は遠征軍を吸収して戦力を上積み出来た。
第二に、荊州へ迫って来ていた劉備軍を撤退・無力化させた。
第三に、劉備軍には曹操軍への強い牽制としての役割を果たしてもらい、あわよくば曹操の戦力を削る事さえ期待できた。
10月に入って曹操軍十五万の士気は急激に下がり始め、曹丕と司馬懿、それから曹操と賈詡なども軍議に日数を重ねていた。
議題はもちろん、劉備の方へ押さえの兵を送るか否かだ。
「劉修と戦うにあたって、兵力を自分から減らすなどもってのほかです。
正直二倍強ですら全然安心できる数字ではないのですが。
劉備はまだ我等の領土に攻撃を仕掛けるまで、まだ若干の猶予があるので、その隙に全力を持って敵を倒すしかないでしょう」
「おそらく丞相や軍師の賈詡もそのような議論を続けておられるだろうな。
しかし……肝心の我々、長安の者は一体どうしたらいいのだ?
もはや先生の言うように指示待ちをしている場合ではないぞ。
我々も独自に動き、少しでも丞相をお助けせねば!」
「それはそうですが……劉修が持っている揚州及び、徐州の兵は侮れません。
既にご説明した通り、劉修は荊州・揚州・徐州の三州の刺史同然の権力を持っています。
全力で動員できる兵力は二十万以上。我々の小細工は不可能です」
「じゃあどうせよと!」
「信じて見守るしかないでしょう。丞相は三倍以上の兵力を持ちながら、劉修には七万もの甚大な被害を出して負けました。
あの時から戦力差が縮まっていることを信じるしかないでしょう」
「く……」
曹丕は言うに事欠いてこんなことを言いだし始めた。
「そ、そうだ。劉修の部下に裏切りを持ちかけたら!?」
「残念ですがそんな時間はもうないでしょう……明日にでも開戦するでしょう。
こうなる前に交渉していたとして、寝返らせに成功していたかも疑問です」
「先生、本当にどうしようもないのか!?」
曹丕に泣きつかれた司馬懿は強硬な態度を一切崩さなかった。
「非才な私めをお許しください、若君……」
負けたらお前のせいだと責められるのも、覚悟のうちだった。
だが司馬懿の中で一つの、新たな戦略が芽生えていた。
まるで光武帝が劉修としてこの世に蘇り、恐ろしい程の勢いで勢力を広げる様はまさしく運命にも等しかった。
『必然』が中華を覆い尽くし、もはや曹操の命脈すらも風前のともしび。
司馬懿は簒奪者、裏切り者のような扱いを受けることがあるが、作者は彼を忠臣だと思っている。
曹操と曹丕という【一個人】には取り立ててもらった恩義を感じており、絶対の忠誠を立てていたと見るのが妥当であるはずだ。
とはいえ命すら脅かすほど曹一族が警戒して来るなら、やられる前にやるのもやむなしと思ったのだと思う。
今回も司馬懿は本心から曹操・曹丕には天下を統一してもらいたかった。
だが、賢明な司馬懿は無理だと悟っている。
劉秀はこの前、「俺、天下統一かじったことあるよ」
と言っていたが、その通り歴戦の曹操が相手でも劉秀と比べると経験値が違いすぎた。
劉秀の本心はわからないが、死後150年で、ずいぶん戦が簡単になったと思っているのかもしれない。
劉備が予想外の裏切りをしても、曹操とその謀臣達が策を練っても、劉秀はそれら全てを跳ね返し、むしろ逆手にとられて利用までされる始末だ。
何をやっても通用しない絶望感が司馬懿を包んでいた。
それなら味方になっておく方が賢いかと思ったようだ。
10月の5日。宛城付近で対峙していた曹操軍と劉秀軍がついに小競り合いをやめ、激突を開始した。
先に仕掛けたのはもちろん数が半分以下しかない劉秀軍だった。




