曹丕、フラグを立てる
「若君、ご用ですか」
210年の時点でまだ曹操は魏公すら名乗っていない。
だが息子の曹丕は史実より少し早くに五官中郎将、そして副丞相の職についていた。
それより八歳ほど上で、もう三十代である司馬懿は曹丕とは昵懇の仲だった。
曹操は司馬懿を高く評価してしつこくスカウトし、208年、つまり一昨年にようやく引き入れるとすぐ参謀、そして曹丕の世話役に命じた。
今、曹操の留守を任せられている若き曹丕は司馬懿を丞相幕府に呼び寄せていた。
「仲達先生。自ら陣頭指揮のため遠征された丞相より、驚くべき一報が届いた」
「まことでございますか」
司馬懿はまだそこまで知らなかった。曹丕以外の者はほとんど誰もいない最新の極秘情報だった。
「劉備は本来部下であった劉修を裏切った。
丞相は十五万の兵を一兵も失う事なく撤退させ、そのままこちらへ向かってきている。
これで劉修が攻めて来るという噂もあったが、ひとまず安心出来るな」
「油断めされますな若君。劉修は全く侮れぬ男です。
十五万が出払っている今は奴にとってまたとない好機。
私が思った通りの男なら、奴は必ず攻めて参ります」
「なるほど。やはり先生は素晴らしい。申し訳ない、少し試した」
「試した……とは?」
曹丕は、いかにも冷たく無慈悲な色白い顔に付属した、薄い唇をにやりと曲げた。
病弱でドSな冷酷王子様、それが曹丕。それだけでもう十分にキャラの立っている男である。
「既に許都が敵の攻囲を受けている。援軍要請が来たので先生を呼んだのだ」
「やはりそうでしたか……」
「先生。単刀直入に聞くがこれに対してはどうするべきだろうか?
包囲し、許を陥落させる前に劉修は帰ってきた父上の十五万と戦う必要が出て来る。
つまりここで援軍を出す事はないと私は思うのだが、どうだろうか?」
「残念ですが揚州を手に入れた劉修には既に限界まで国力を傾ければ二十万を動員することが可能です。
また、丞相の率いておられる十五万が劉修に勝てるかどうかも不明です」
「先生、あまり私を舐めないで頂きたい。丞相は乱世に踊り出た天下の英雄であるぞ。
四万で十五万を撃破など不可能ではないのか」
「失礼を申しました。若君のおっしゃる通り不敬な発言でした。お許し下さい」
その謝り方に明らかに心がこもっていないと感じた曹丕は渋々ながら司馬懿と話を続ける。
「仲達先生、確かに丞相は一度劉修に敗れている。
それも十万で三万に挑みながら負けた。
今回は四倍近い兵力を揃えて来ている。それでも勝てぬというのか?」
「決戦だけは挑むべきでないと考えます。今は丞相がもっとも信頼なされた軍師・郭奉考殿も荀公達殿もおりません。
荀公達殿と張文遠がいながら十万で三万に負けたのが江陵の戦い。
十五万で四万に勝てるかどうかで言えば、勝てる可能性は非常に低いです」
「じゃあどうしろと? 永遠に丞相は戦って奴に勝てぬではないか」
苛立つ曹丕に司馬懿は衝撃的な発言をした。
「おっしゃる通りです。この長安に移り静養なされている荀文若様もそうお考えになり、劉修に大司馬の位を授けました。
戦っては勝てません。奴が生きている限り天下の統一は不可能。
味方にし、政争で決着をつけるしか道はございません」
「先生、さっきから言っている事が不可解だぞ。何故そこまで恐れる?」
その問いに司馬懿は床にぬかづき、平伏した状態で答える。
「ありとあらゆる状況証拠が物語っております。奴は光武帝の生まれ変わりです」
「はあ? 馬鹿も休み休み言ってくれないか、先生?」
曹丕は冷徹なまでの現実主義者なので、司馬懿の言うファンタジーな話には難色を示した。
そんな反応を受けても構わず司馬懿は続ける。
「若君は実際にお会いになったことがございませんので……」
「そうか。実際に見てどうだった?」
「背丈は伝説の通り中肉中背。
怖気をふるう美男子ぶりも伝説に聞く通りでございました。
妻は麗華と名乗り、更に興味深い事がございます」
「なんだ?」
「その麗華は発見当時、皇后の大切なお召し物を盗んだ罪で罰せられるところでした。
しかしいくら探しても盗難の被害は認められませんでした。
加えて、その服は『死出の旅』に出るための……すなわち死に装束でした」
「つまりこうか。皇族のための死に装束を盗んだ女がその辺に倒れていたところを徐庶が介抱した。
そんな馬鹿な。ありえない。意味がわからないぞ」
「我々の計り知れない何かが起こっているのかも知れません。
無論、劉修が劉秀であるという証拠は戦の中にこそございます。
人間ではとても及ばぬ武勇、超人的な軍略の才。
そして弱い者を助けようとする一貫したその態度。
荊州、揚州では下僕が解放され、民を隷属させていた地方有力者が軒並み潰されています。
以前ここ長安へ来た際に奴が門番と起こした悶着をご存知でしょうか」
「知らぬ」
「通るときに金をせびる門番に腹を立てた劉修は一旦帰り、丞相に報告して門番を更迭させてから改めて通ったとのことです」
「ケチだな? 確かに光武帝はケチだったらしいが」
「そうかも知れません。しかしそこも光武帝らしさを感じさせます」
「なんだと?」
曹丕はしばらく考えてみたが司馬懿の言わんとしていることがわからなかった。
「光武帝は生前、夜遊びしていると部下に締め出されて野宿するはめになった事があるようです。
しかし光武帝は怒るどころか門番の何人も差別しない勤勉さを褒美の理由としました。
賄賂を受けとらない官吏というものが如何に大事か、丞相に教えたかったのではないでしょうか」
「わかったわかった。そなたが劉文円を高く評価している事は十分にな。
それで先生、一番聞きたいのはだ……我々は丞相の指示を仰ぐか?
それとも、先手を打って劉修を攻めるのがいいのか?
あるいはそれ以外の道なのか?」
「とにかく奴と戦ってはなりません!」
「ハァ……賢明な先生ならわかっておられるだろう。
政治というのはそう簡単に正論を受け入れられないものだと。
もはや我々と劉修の関係は抜き差しならない状況で、戦わねばならない。
確かに相手は強いかもしれない。それでも戦うしかないのだ」
そんなことは司馬懿が一番よくわかっていた。でも自分が言わねばならなかった。
本来ならもっと別の事を言うべきである。例えば劉秀に勝つための算段とか。
しかし現実は非情で、司馬懿には勝てる気が全くしなかった。
相手は四十三万の敵軍を一万程度で破った光武帝と同等の力を有していると見ても過大評価ではない。
今、曹操の下にそれだけの兵力は存在しない。
四十万くらいは確かにいるが、そんなものを動員したら兵糧が不足して反乱が起き国が崩壊する。
むしろ、四十万もの兵力を出すことは劉秀を助けることにつながるのだ。
あの時の新軍は、二百年続いた漢帝国の遺産があり、当時は三国時代より遥かに人口が多かったので出来た事だった。
二十万の兵力を持った劉秀を、曹操陣営が倒す方法は存在しない。
賢明な司馬懿が出した結論は、劉秀は仲間にしようというものだった。
実際建武二十八将星とか呼ばれる光武帝の有能な部下は、この人を敵に回すことは馬鹿げていると判断した。
人を見る目がある奴から光武帝の部下になった、とは言い過ぎかもしれないが、そのおかげで十数年で天下統一出来たのは確かだった。
二度目になるが、司馬懿は十分に賢明な男だった。
だが賢明な男だからこそわかっている。曹丕の言う通り、政治は正論を受け入れるとは限らない事を。
「申し訳ありません……この非才の身では献上出来る策はございません」
「丞相の指示を待つのが妥当か」
「はい。あと十日もすればご到着なされるでしょう」
「だが私の立太子(後継ぎとして認められること)はどうなる?
丞相は曹植を未だに気に入っておられ、私の事など、ただ年上の子だからとしか思っておられない。
丞相の指示待ちに徹したら評価を落とすことになろう!」
三国ファンなら知っての通り、曹丕は政治的には評価できる部分が多い。
この後には漢の国を終わらせるなど、三国時代でも屈指のスケールが大きい人物ではある。
が、戦が下手だ。戦下手として知られる孫権より酷い。
出ると必ず負ける。貧乏神みたいな奴である。
その曹丕が、司馬懿の言うことを聞きつつも反対を押しきって戦おうと言うのだ。
司馬懿に言わせれば言葉も出ないといったところだろうか。
「若君、私の意見は変わりはしません。奴とは戦わぬが最良。
助言を聞き入れて下さらないなら、いっそこの首をはねて頂けますか」
「わかったわかった! 先生、私が悪かったから、言う通りにする!」
曹丕はさすがにそこまで言われて押しきれるほど司馬懿を軽く見ている訳ではなかったので、仕方なく折れた。
「はい。しかし攻めて来ない事は奴も計算のうちでしょう……何か仕掛けて来そうです」
「ふはは、一体この戦力差で何ができよう!」
曹丕はいかにも小物な悪役の吐きそうな負けフラグ的台詞を発したので、司馬懿は急に不安になってきて着物の裾をギュッと握った。
50話予定でしたがもうちょっとだけボリュームが出た。
まあでも、あともうすぐで終わります




