光武帝、焦る
「漢中に、最も恐ろしい劉将軍が出陣し曹操の目をそちらへ向けさせる。
しかるのち、意外な場所から許へ進軍というわけですか。
今まで、正々堂々の会戦で勝利して来られた将軍にしてはいささか慎重で回りくどい策ですな」
「まあな。曹操に二つの戦を仕掛け、同時に勝たねばならん。
曹操の軍を削ればあとは簡単だ。長安、洛陽、許などは大体食料生産力に乏しい。
その割に人口は多く、常に輸送に頼っているのが普通。
適当に包囲すれば簡単に降伏するだろう。そしてそこまで行けば曹操の治める他の地域もこっちに従うしかなくなる。
天下をとるにしては一見簡単そうだが、曹操の軍はあらゆる面で優れている。
俺が益州で曹操軍を倒すのは何一つ疑っていないが、難しいのは甘寧に任せた軍だ」
と長めに劉秀が語り終わったところで、隣の陰麗華が恐ろしいことを言い出した。
「ねえ、思ったんだけど」
「ん? どうした?」
「それなら逆にあなたが汝南の軍を率いて城攻めしたらどうかしら?
私思うんだけど、やっぱりあなたの武名は短期間であまりにも広まり過ぎている。
劉文円を見たら逃げろ。この世界のどんな豪傑でも名将でもそう思っているわ。
多分、あなたが出てきた時点で敵は要塞かなにかに引きこもって出てこなくなるんじゃ?
少なくとも、どんな大軍を持ってきても劉文円と正面からぶつからないように気をつけるはず」
「奥方、それはどういう?」
「いや麗華、何言ってんの? 後半はわかるけど」
劉秀も魏延もいまいち麗華の言わんとすることがわからないらしい。
麗華は落ち着き払って続きを話す。
「だから、益州への出兵には私が行くわ。私はもう十分有名だし曹操軍にも顔は一応知れてる。
まさか向こうも妻だけこっちに来てて夫は別のところなんて思いもしないでしょ。
私は向こうへついたら趙子龍将軍とか龐士元軍師に事情と作戦を説明する。
軍の指揮は多分無理だけど、そのくらいなら出来ると思う」
要するに陰麗華はこう言っているわけだ。
自分は益州へ兵を連れて行き、劉備軍の荊州派閥と合流する。
そうすれば曹操軍はこっちに劉秀が来ていると誤解するはずだと。
そして劉秀が来たと勘違いした曹操軍は、周瑜も曹操も簡単に破った劉秀の凄まじい武名に怯え、真っ向勝負を絶対に避けるはず。
このことから考えて、麗華は一応益州の戦地へ赴くものの、ほとんどリスクはないと思われる。
逆に、劉秀は汝南に行き、孫呉の兵をまとめて許の都を急襲する。
ここに劉秀がいるとは知らぬ曹操軍は一応真っ向勝負を挑んでくるはず。
それに対して劉秀は無敗の連勝を続けろ、というわけだ。
「おいおいおい……せっかくこうして俺達一緒になれたんじゃないか?
そりゃ、戦場に連れていく事も前は結構あったけどそんなこと麗華にさせられない……」
劉秀は弱気になり、魏延も狂ったようなことを言い出す麗華に困惑する。
「奥方様、戦場を舐めては行けません。一度出れば何が起こるかわからぬのが戦場です!」
「そうだぞ、魏延もっと言ってやれ!」
「あなたは黙ってて」
「はい……」
劉秀はおとなしく、口にチャックでもしたように静かになった。
それを認めたところで麗華は続ける。
「魏将軍、あなたは作戦通り荊州を守っていればよろしいのよ」
「しかし奥方様のお命を危険に晒すのは……」
「私だって命は惜しい。一度落としたこの命……不思議だけど、前よりももっと大切に感じる。
生きていたい。もう一度あの笑い声を聞くために。
生きていたい。もう一度他愛ない話をするために。
生きていたい。もう二度と離れたくない。それが本音」
陰麗華は夫の前で何一つ偽りもなく、恥じらいもなく、本心からそう言った。
「だったら麗華……」
「天下太平のため劉備を殺せと私はあなたに言った。現場には私が行く。
一歩も動かず、安全で居心地のいいところから、何が平和のためだ!」
「まあまあまあ、麗華落ち着いて!」
いよいよ麗華の興奮度が高まり、首元の衿から覗く白い肌はその下に激しく流れる血潮で紅く染まり、頬も紅潮していた。
もちろん彼女は劉秀の弱腰な制止など聞かない。
「私は行く。あなたは勝つ算段を考えておいて」
こうなると何を言っても無駄だ。
昔、戦場にまでくっついてきて元氏というところで初めての出産をした。
あの恐ろしい精神力を発揮していた時と同じだと劉秀は観念した。
ちなみに陰麗華が戦場で初めて出産をしたというのは実話である。
このことから見て、彼女は普段大人しく優しいが、多分キレると手がつけられない性質だったのだろう。
そして力関係も劉秀より常に上だったのではないだろうか。
例の出産のときも身重な彼女に劉秀は帰れといい、麗華の方も帰らないと言い続け、結局劉秀が折れたものと思われる。
「劉将軍……将軍は……恐妻家だったのですね……」
魏延は陰麗華があまりの剣幕で、夫の劉秀までもが恐れているのを見てちょっと引いていた。
「きょ、恐妻家じゃないし! 魏延お前言葉には気をつけろよ! 俺が困るだろうが!」
魏延は今まで劉秀のことは最強で無敵で何もかも彼の手のひらのうちの魔王であるとすら思っていた。
それが、妻には頭が上がらない。少し可笑しかった。
「魏将軍、荊州の守りはお任せしましたよ」
と麗華は魏延に笑いかけたが、その笑顔の裏に麗華を恐妻呼ばわりした故の怒りが隠れているように魏延には思われた。
「はっ、はい、それでは……」
魏延は持ち場である江夏へ戻って行った。この最前線、新野は留守を馬良に任せる事になった。
彼も劉秀につくことになったばかりに、未だに義兄弟同然の孔明とも顔を合わせられてない不運なやつである。
魏延が麗華を恐れて退散した直後、劉秀は恐る恐る横の麗華に言った。
「ところで、さっきの本気で言ってないよな?」
「もちろん本気だけど」
麗華は無表情でクールに答えた。
「やれやれ、気性が荒いな。歳取ってすこしは丸くなったんじゃないのか」
「でも私の出した案は魅力的ではあるでしょ?」
「それはそうだが……」
「じゃ、許と洛陽の攻略は任せました。私は益州へ行ってきます」
「呼ばれるまで待機だぞ?」
「わかってる」
というわけで作戦に変更があり、より嫌らしい罠が仕掛けられる事になった。
陰麗華は劉秀の影武者と一緒に益州へ向かい、一方劉秀は全く動かないふりをしてその実、汝南へ向かい甘寧と合流して、呂蒙を副将とした曹操の重要拠点奪取作戦を開始するのだ。
麗華が益州へ呼ばれる少し前の8月19日に最初の異変が起こった。
この日、いつものように政務を行っていた龐統は急に劉備の目の前に呼ばれたのである。
連れられて来てみると、なんと成都城の城主の間には主だった劉備軍のお偉いさんが多数揃っていた。
関羽、張飛、趙雲、孔明、黄忠、それから李厳、法正、その他諸々だ。
「これは……どういう……」
龐統がしらばっくれたわざとらしい演技で周囲を見渡す。
するとこの中で数少ない全てを承知している孔明が、茶番劇を開始した。
「龐統よ、しらを切るでない。調べはついている。
そなたは以前から妙に劉修と親しく、また出身は荊州である」
「何を言っておるのだ孔明! 話が見えぬぞ!」
「だからしらを切るでないと言っておるであろう、龐統!
そなたは劉修と通じた疑惑がある。これが証拠だ!」
孔明は一通の書簡を龐統の顔面めがけて投げつけ、龐統は衝撃に怯んだ。
床に落ちた書簡を拾い、それに目を通した龐統は驚愕の色を顔に浮かべる。
「こんな……嘘だ、でたらめだ!」
確かにそうだ。それは劉秀から送られてきた直筆の書簡。
そこには、荊州軍を益州に引き入れる代わりに龐統をこの劉修の側近にすると書かれてあった。
国を売る密約書。これが本当なら大事である。
龐統は劉備の前に情けなく土下座し、半泣きの汚い顔で劉備に許しをこう。
「わが主! どうかこのような讒言をお信じになりますな!
孔明の言うことは全てでっちあげです!」
劉備は聞いているのかいないのか、イマイチ掴めない超然とした表情でただじっと龐統を見つめる。
「だが龐統よ。貴様、既に一度孫呉を裏切っておる事を我々が忘れていると思っているのは見くびり過ぎであるぞ!
龐統、そなた最初は曹操の配下となり、その後すぐ孫呉へ行った。
それもまたすぐ裏切ってわが君、劉玄徳についた。
機を見て節操なくどこへでもつく ネズミのような男、それがそなただ!
物的証拠が出た以上、裏切ったと見なす!」
時代が時代なら敏腕検事か弁護士にでもなれたであろう、孔明の流麗で饒舌な罵倒が炸裂した。
龐統は何も言えなくなって俯く。
「その沈黙、肯定と見なした。誰かこの者の首をはねよ!」
「ああっ、お待ちください、聞いてくださいわが主!
嫌だ、死にたくない、助けてーッ!」
龐統のやり過ぎなくらいの迫真の演技だった。
関羽、張飛などはすっかり騙され、目を伏せて死に行く龐統に哀悼の意を表した。
しかし、刀を振りかざした兵士がすわ断頭、というところで劉備が初めて口を開いた。
「まあ待てお前達。それに孔明。仮にも友人をそう易々と切るな」
「で、ですが……」
劉備は反論を許さなかった。まあ台本通りなのだが。
「龐統、曹操と孫権を見限ったのは正しい判断だったな。
だが最後の最後で間違えた。天下を統べる器はこの劉備だけだろ?」
「もちろんですわが主! 私が仕えるのはあなた様だけでございます!」




