光武帝、長安へ向かう
要は二人きりになりたかったので、民衆を体よく追い払ったというわけである。
そう説明された麗華は劉秀につられて自分も笑った。
「ふふ、この悪党」
「その悪党に惚れてるのは誰だ?」
「うるさい。馬鹿」
などと川辺で肩を寄せ合いながら言っている、年季の入った仲睦まじい熟年夫婦の背中へ、突如として騎兵が現れた。
「急報です、将軍!」
「おいおい……こんな時に何かあったのか?」
劉秀は珍しく不機嫌な顔をして後ろを振り向いた。
彼も怒る時ぐらいはあるようだ。
伝令は馬から下りると、劉秀の前にひざまずいてこう伝えた。
「あの、将軍。丞相より急に連絡が入りまして、使者を出すと。
そのご使者は既に新野城へ到着されました」
「曹操から? 何という名だ」
「使者の名は司馬懿。字を仲達。丞相期待の若手参謀、という話です」
「司馬懿か。聞いたこともない」
「ともかく会ってお話を。無礼があってはなりません」
「そうだな……あれでも一応は漢の丞相だからな。
わかった。麗華と睦み合うのは、いずれ天下が統一されてからにしよう」
「ご英断かと」
「麗華、一緒に帰ろう」
劉秀は途中で相談したい事があるので、御者は先に帰らせ、二人で歩いて帰ることにした。
本音を言えるのも、何かを相談できるのも、甘えられるのも頼れるのも、この世にもう麗華しかいないためだ。
陰麗華は隣の劉秀には意外にも小言とか皮肉ではなく、真面目な話をし出した。
「司馬懿って、司馬一族?」
「だろうな」
「軽く四百年以上前の名家……もちろんもっと前から。
曹操の曹一族や夏侯氏もそう。
かつての名臣達の末裔が、堕ちたものね」
四百年前と言えば、日本で例えるなら現代人が徳川家康を、その徳川家康が源頼朝を、源頼朝が坂上田村麻呂を論じるようなものだ。
同じ漢とはいえ、その古い歴史を感じさせる。
その時代の人間が揃いも揃って曹操についている。
正義感に厚い麗華でなくても許しがたい事だった。
実は曹操は夏侯嬰、曹参という人物と関係が深い。
二人とも、四百年前に劉邦が漢を創った時、最初期から一緒に戦った有能な人物達で、漢帝国が興ると貴族となった。
要するに漢の忠臣の中の忠臣の家柄なのだ。
そんなお家柄にも関わらず、曹操は漢を牛耳っている。
しかも曹操の祖父は宦官であり、これまた嫌われている。
儒教の考え方では、先祖と家族を大切にし、また子孫を残し、血族を繁栄させることが尊ばれる。
だが宦官は男としての機能を捨てているため、儒教においてはゴミクズ同然に蔑まれる存在。
その宦官である曹操の祖父は皇帝の権威をかさに着て不正に凄まじい額を蓄財していたという。
で、その金で朝廷から官位を買うこともあった。
また、曹操の挙兵の資金はこの祖父や父が汚職などで不正に稼いだ金も当然含まれる。
よく曹操が人気なのは日本だけで中国では悪役と言われるが、これではどう頑張ってもヒーローや主人公として描けないのがわかるだろう。
日本人は多くの場合曹操の背景を知らない。
だからやったことだけを評価しがちだ。
そこだけ見ると相当な英雄に見えるので、ダークヒーロー的な人気がある。
「ああ。時々、自分は間違った事をしているのじゃないかと嫌になる。
曹操こそ、この世を治める器で天に選ばれた男で、俺は天命に逆らってるんじゃないかってな」
「そんなはずないじゃない。曹操はあなたより弱い。
現に司馬懿とかいう人を遣わしてあなたのご機嫌を取ろうとしてるでしょ?」
「うーん、麗華の言う通り、曹操はまだ俺を取り込むことを諦めてないだろうな」
「私は、正直それも悪くはないと思ってるけど」
「ええ? それはないだろ。俺さっき、みんなの前で曹操倒すって言っちゃったしな」
「曹操について、また、あなたが皇帝になればいいの。
最後の皇帝劉協の代わりに、最初の皇帝がまた一から始めればいいと思う」
「……」
劉秀は沈黙した。陰麗華は、彼女がそう進言した理由について淡々と説明を続ける。
「ねえ、あの……何だっけ。そう、光武帝の時の事を思い出して」
劉秀は笑いをこらえて頷いた。麗華も笑いを噛み殺す。
「ああ、光武帝ね」
「光武帝は天下統一後、部下をあまり粛清しなかったけど、高祖劉邦やその妻の呂皇后は天下統一に貢献した武将を殺したわ。
理由は簡単で、太平な天下と皇帝の地位安泰のためには強い力を持つ部下は邪魔だったから」
「分かってる……実に難しい立場だ。曹操についても劉備についても俺は警戒される。
劉備の事は嫌いじゃないが、あいつはああ見えて現実主義者だ。
必要とあらば関羽、張飛ですら切り捨てるだろう。もちろん俺もな」
「この前あなたが話してくれたけど、曹操への必勝の策は益州、荊州、揚州の三方向から同時進攻することなんでしょ?」
「ああ、そう言ったと思う」
「……それには劉玄徳さんとの連携が不可欠。曹操の狙いは司馬懿を使った、あなたと玄徳さんとの離間の計だと思うわ」
「はあ……」
さすがの劉秀も改めて自分に降りかかっている理不尽と未来に続く災難を突きつけられて、憂鬱にため息を吐いた。
「劉邦夫妻に粛清されないよう、謀略家の陳平は無能の振りをしたという。
でも今さら、睨まれた状態でそんなことしても無意味だな」
「孔明さんって人は天下を三つに分けると言ったらしいわ。
今、まさしく天下は三つに分かれている……私はやっぱり、劉玄徳さんと協調して曹操を倒すのは凄く難しいと思う」
麗華の言う通りだった。明らかにこちらに敵意があるのは曹操も劉備も変わりがない。
であるなら、曹操陣営について邪魔な劉備達を消し、その後劉備や孫権を討伐した功績をもって曹操の陣営の中に溶け込んでしまう方が楽だ。
実際、この作品を読んでいるのはしっかり三国志を知っている人だと思うので遠慮なく言うが、三国志の最終的な勝者にあたる司馬懿は曹操陣営の中で実権を握り、優秀な息子、孫と一緒に最後には天下を統一した。
その路線を行けと、暗に麗華は助言しているわけだ。
これに対し劉秀は、劉秀らしからぬ煮え切らない態度だ。
「うーん、劉備や趙雲、孔明、張飛……俺には多くの友人がいる。
殺すには忍びない。と、とりあえず……司馬懿に会ってから決める」
陰麗華は、ここで鋭く、これから起こる恐ろしい可能性についてを指摘した。
「わかってるの。もし万が一、司馬懿が劉備軍討伐の勅書を持ってきたらそうも言ってられなくなるわ」
「うっ、麗華、怖いこと言うなよ」
「恐らく褒美と一緒に命令も下されるわ。どうするの?
もしそんなことが起きたら……一応考えを聞いておきたい」
「司馬懿がもしそうしてきたら、受けざるを得ないな。
劉備軍とは中途半端に睨み合いを続けてお茶を濁してだな……」
「……わかった、それがあなたの気持ちなのね」
「悪いか?」
「別に」
「そう怒るなよ。でも、曹操は俺達との間に今はまだ事を荒立てる気はないはずだ。
下手に刺激すると、俺達には劉備と手を組んで攻め込まれる危険があるからな」
「どちらにしろ、曹操には然るべき報いを与えなきゃ私は気が済まないわ……」
温厚で通っている陰麗華が威嚇じみた険しい表情を浮かべた。
劉秀はその怒りを和らげるのに努める。
「まあまあ、いくら怒っててもチビとか人の身体的特徴をだな……」
「ごめんなさい、少し口が悪かったとは思うわ。
でもあのチビのやったことは許される事じゃない!
徐州で大虐殺は起こすし、私達の子孫の劉協くんは幽閉するし、他にもありとあらゆる悪業をやり尽くしているんだから!」
そのほか、麗華が世話になった心の優しい徐庶を軟禁し、いつ殺されるとも知れない身に置いていることも麗華は許せなかった。
ちなみに、劉秀はまた麗華がチビと言ったことはもうツッコまなかった。
「わかったわかった。要は劉備にも曹操にも妥協しようっていう俺の考えが気に食わないと?」
「当たり前よ。どっちも叩き潰すのがいいわ。
劉玄徳さんだって信用のおけるような男じゃない」
「やれやれ、昔と変わらん血気盛んさだな麗華は。
とりあえずは司馬懿の話を聞いてからにする……」
それからしばらくして城にたどり着いた二人は、そこで集まっている民衆をかきわけて城へ入り、城の中で待っていた司馬懿と会見した。
とは言っても、劉秀という男は人に尊大な態度はとらない。
自分と自分の懸絶した才能に絶対の自信を持ち、つねに余裕たっぷりで行動する彼だが、決して驕って踏ん反り返ったりはしない。
今日も劉秀は城の宴会場へ司馬懿を通し、彼とは同じ目線でお互いにあぐらをかいて座った。
司馬懿は、外交のために出てこのような対応をされるのは生まれて初めてだと思いつつも、やはりここは下手に出る。
「お初にお目にかかります。司馬懿と申します」
「そなたが司馬懿か。用とは何かな?」
「大将軍の功績を陛下は大きく讃えられ、こちらの勅書を賜りました」
司馬懿は従者を呼び、従者は一抱えある大きめの重箱のような立方体を用意した。
「音読致します」
司馬懿は立ち上がり、劉秀の目の前で詔勅を読み上げる。
「劉将軍の孫呉討伐に際した働きは天下に轟くいにしえの名将のごとしである。
詳細な褒美の授与のほか式典ともてなしの宴を催す必要がある。
よって同将軍は朕の待つ長安まで足を運ばれよ」
「光栄の至りです」
さあ果たして麗華の言う通り長安にて劉備を討伐せよとの命令を受けるのか。
それとも曹操は何か別の事を企んでいるのか……。




