荀攸、散る
そう、この春、陰麗華はとある学園へ入学した。
憧れの年上のお兄さん、劉秀がいる学校へ今年、念願かなって見事合格したのである。
儒者の先生の講義が終わるやいなや、麗華は大きな荷物を抱えて教室を飛び出した。
「文叔お兄さまの好物の鴨肉の丸焼き、食べてくれるかしら!」
行き交う生徒を交わし、麗華は弁当箱を手に持って廊下を疾走する。
「ねえ、ねえお兄様、おべんとーー」
麗華の期待に膨らんだ小さな胸は、見事に裏切られた。
「はい、あーん!」
「あっはっは、いつ食べても聖の作ったご飯はおいしいよ」
上級生の教室では、クラスの帝王で運動部の絶対的エースでもあるリア充の劉秀と、その恋人である郭皇后の姿も。
郭皇后は、劉秀が開けた口に箸で筍を煮付けてどうにかしたやつを持って行っているところだった。
二人とも実に幸せそうに笑い、郭皇后も劉秀の胸にしな垂れかかっている。
ふたりはしっかりと手をつなぎ、しかも郭皇后は椅子に座った劉秀の膝に乗っているではないか。
「ったくお行儀が悪いなあ、文叔さまったら……」
「悪いって耿弇、馮異もそんな怒るなよ?」
「主君、こんなところ麗華ちゃんに見られたら……」
「大丈夫だって、麗華はこの学校入らないってあの子の兄貴からも聞いてーー」
劉秀の顔が固まった。麗華が、この世の終わりみたいに絶望的な顔で硬直し、こっちを見ているのに気がついたからである。
その周辺にいた馮異、郭皇后らも同じところへ視線を移し、事態を理解した。
「よ、よお麗華……」
「おぉーっほっほっほ、こんな子が我が校にどうやって忍び込んだのかしら?
ここは大金持ちのよい家柄でなくては入れなくってよ?」
郭皇后は、一向に劉秀の膝から下りず、むしろこれは自分の膝だと主張するように下りないまま話す。
「あら、文叔は特別よ? だってこの私が見込んで特別に入学させてあげたんだから……ねえ?」
「あ、ああ。凄く感謝してる……はは……」
「それに私たち、もう四人も子供がいるし……」
空気は重く、冷たい。馮異ら劉秀の部下は、我関せずという風にしれっとどこかへ行ってしまった。
「まだその子と……ていうか私より年下だし……」
「待ってくれ麗華、行くな! もう別れるから!」
劉秀は郭皇后を膝からどかして立ち上がった。
「嘘ばっかり! この前も郭さんを廃后した割に関係は断ってなかったじゃない!」
「いやまあそれは、実家に気も使うしさぁ……恩もあるしいきなり完全に縁切るのは……」
「いいの私。幸せを壊すくらいならもうあなたとは……!」
麗華は劉秀の目の前から走り去っていった。
「待ってくれ麗華、俺は!」
劉秀の悲痛な叫びとともに、汗びっしょりで飛び起きた麗華はため息をつくと、目に浮かんだ涙を手で拭いた。
「夢か……私、まだあんな昔のこと気にしてるのね……」
定軍山の戦いが行われている中、荊州の陰麗華は実は、内政をしていた。
兵糧の補給に財務のやりくりなど、やる人間がいないので政治経験もあり、また荊州の帝王として既に定着しつつある劉秀の寵姫なので、権限が付与され、権限に見合うだけの仕事をしていたのだった。
実は陰麗華は、戦場で出産をするとか劉秀について戦場へ行き、馬に乗って戦おうとしたとか、なかなか豪傑的エピソードもある強い女性だ。
「さすがにもう、戦場へ出る気はしないわ……」
陰麗華は、年を取って弱くなった自分を嘲笑し、少し、涼しい夜風に当たろうと寝所を出た。
7月24日まで、揚州に滞在した劉秀は柴桑で孫呉の連中を待ち、集まった彼らにはぶっちゃけた話をした。
揚州の人間をまとめなければ曹操に勝てないので身分、地位、財産を保証するから邪魔だけはしてほしくないことをこんこんと言い募り、ついに約束を取り付けた。
揚州には甘寧を赴任させ、力関係を明確にするとともに監視の役目も持たせた。
史実の甘寧からすれば結構な出世である。
荊州へ侵攻した曹操がそうであったように、新しく侵略した土地は庶民からの信頼と指示を得て安定化させるため、多少の時間を要する。
曹操は漢中戦線から撤退し、隙を見て劉備軍を撃滅する腹であった。
しかし荀攸は残念ながら決戦の時間に間に合わなかった。
撤退途中、曹操軍は劉秀が揚州を降伏させたと聞いて断腸の思いをして漢中を捨て、長安まで撤退したのだった。
そして、同時に曹操は助かった、とも思った。
もし途中で戦いを切り上げて撤退していなかったら、相当な危機に陥っていた。
曹操軍にとって最大級の屈辱だった。
劉秀軍が揚州をとった今、もはや一刻もグズグズはしていられない。
「丞相、私の読みが甘かったようです。あと、あと一歩のところでしくじりました……」
荀攸は道中病に倒れ、この夜、曹操が病床の荀攸を訪ねて来ていた。
「仕方がないことだ……文若に統一された平和な天下を見せてやりたかったが、この曹操が死ぬまでにも叶うかどうか……」
「私をお裁き下さい、丞相。
これほどの恥をかいて、生きてなどおれません!」
「馬鹿者が、お前に落ち度はなかったではないか……」
そう言った直後、曹操は目を見開いて荀攸の肩を揺さぶった。
「どうした、おいどうしたのだ!」
「ぐふっ……これで、劉文円に雪辱も行かなくなりました……」
荀攸の口からは大量の血が噴きだし、曹操の着物を赤く染めた。
曹操軍の軍師、荀攸は陣中で憤死し、ついに曹操の軍師は外様のカクと最年長の程イクばかりが残る事となる。
曹操の最も信頼した軍師が郭嘉なら、曹操の最も親しんだ軍師は荀攸だった。
つい最近曹洪も劉秀との戦いで討ち取られたばかりだ。
曹操は更なる朋輩を失い、慟哭する。
「荀攸! お前も病で逝ってしまうというのか!
郭嘉も私の目の前で血を吐き死んだというのに!」
仲間を大切にする性質である曹操は、荀攸の考えに従い、劉備軍の前から文字通り血を吐くような思いで撤退することとなった。
漢中は鶏肋というわけだ。曹操は劉備軍に完全に敗北し、漢中を明け渡して長安まで退いた。
210年の8月までに、許の都から天子は移され、長安に移り住んでいた。
西暦210年中に、あまりにも時代が動きすぎる。
ほんの数日前までの勢力図が一気に塗り変わった。
現代の中国に比べると三国時代で中華、天下と呼ばれた範囲は狭い。
その中で劉秀と劉備は中華の南半分を制圧したに等しい。
とはいえ、だ。
中華が南北に分断される事は幾度かあったが、殆どの場合北が勝っている。
三国時代の後には南北朝時代というのがあるが、この時も北を治めていた国が南朝を飲み込み、日本史で言うと聖徳太子が出て来る少し前にあの隋が出来たりしている。
北と南では明らかに国力の差があり、現代ですら、中国の首都は北京にある。
グーグルマップかなんかで、一度北京の位置を見てみるとわかるが、この都市はかなり北の端っこの方にある。
「首都がこんな端っこにあって、ちゃんと広い国土を支配できてるの?」
と思ってしまうぐらい極端な位置にあるのだ。
面積的には、劉備軍と劉秀軍は中華の半分以上を占めている。
一見すると曹操が勢いに乗れていない分不利に見えるのだが、さっき長く説明したように、この状態でもまだ曹操の治める中華の北半分は強大な国力と人口を有していた。
戦争の行方はまだまだ解らない。
実のところ有利なのはまだまだ曹操側である事に変わりはない。
荀イクらはなんとかまだ健在。状況はまだ曹操有利に変わりはなかった。




