曹操、踵を鳴らす
「ま、こんなもんだな!」
「ああ、張将軍。曹操軍をこうまで撃破出来るのは、天下でこの劉軍だけですな!」
「ははは、違いねえ!」
とまあ、黄忠や張飛はこんな調子で荀攸の思惑に気づく様子もない。
荀攸は迂直の計を使い、川を徐晃に攻めさせ、失敗した。
頭のいい荀攸なので、これは成功失敗、どちらにしても保険をかけてあった。
成功すれば山を取り囲み、戦を優位に進められる。
失敗すれば、法正ら孔明が、曹操の軍師である荀攸をあなどる事になる。
我々はあの荀攸の企みを見破り、逆に一杯食わせてやったと。
実際法正ら軍師も、これは作戦成功したのだと信じていた。
そんな上り調子の劉備軍に、何と曹操を乗せた一台の馬車が現れたのはそれから数日後の事だった。
荀攸の作戦通り、ここは総大将の曹操自らが出て、和睦の交渉に出るのが最も有効だと曹操も判断した。
「……おいおい、何か来るぞ!」
張飛は総大将の黄忠に判断を委ねる事にした。
「う、うむ……ここは私が応じてみよう」
ということになり、護衛もなしに近づいて来る曹操を乗せた馬車に、黄忠の一騎が駆け寄った。
「そこの者、漢の丞相、曹操か!?」
曹操は席から立ち上がり、大物ぶって答えた。
「いかにも! 我は皇帝陛下の身代わりに政務と軍務、国の大事の一切を司る。
貴公ら漢の忠臣達十万の上に立つ漢の丞相、曹操であるぞ!」
「おのれ、ぬかしおる! 用件を言え!」
「まあそう焦るな。総大将劉備をここへ呼べ、話をしあおう」
「……誰がそんなざれ言を信じるものか! 汚い罠にはめて主君を亡き者にしようというのであろう!」
黄忠に面罵されても曹操は大物感を崩さず、決して声を荒げる事もなく、静かに答える。
「黄忠よ、考えてもみよ。私が劉備を殺せば私も殺されるであろう。
劉備と私の首では価値が全く釣り合わんだろうが」
「やかましいわ! だが……主君には話を通しておく」
黄忠はそう言い残すと馬を走らせ、自ら山を騎馬で駆け登って山上の定軍山城に向かい、その門の前には既に騎馬した劉備の姿があった。
曹操が出てきた時点で、劉備と話をさせろというのは明白だったからである。
「おい黄忠、道中疲れただろ。ゆっくり休め」
自分を労ってくれる主君に、黄忠は真っすぐな目で伝えた。
「ご主君、曹操が話し合いをしたいと」
「話し合いね……確か、曹操は官渡の戦いの時も敵将の袁本初と昔語りをしたらしいな。
どう思う、法正、孔明、 龐統?」
劉備は後ろに居並ぶそうそうたる顔ぶれの、三軍師に聞いた。
彼らは声を揃えてこう答えた。
「計略の匂いはしません。どうぞ主君、行ってらっしゃいませ!」
「ああ、わかった! あいつも俺も、恨み言ならいくらでも言い合えるってもんだ。
長くなったら悪いな、お前ら!」
「お気をつけて!」
劉備は馬で勢いよく山の斜面を駆け降り、意気揚々と曹操の元へ向かう。
まるで、長年の親友とでも会いに行くかのように。
「来たか、劉備!」
「来たぜ、曹操!」
二人の顔には笑顔があった。その胸中を伺い知ることはできない。
馬車の前に馬をつけた劉備はしばしどうするか迷ったが、やがて馬に乗ったまま曹操と同じ目線で話し出した。
「曹操、いよいよ降伏する気にでもなったのかい?」
「馬鹿を言えこのむしろ売りめが。休戦協定を結んでやると言っているのだ」
「知ってるか曹操。戦いをやめにしようってのは、先に言い出した奴が負けだ」
「好きに解釈するがいい。劉備、今回の戦中々楽しめたぞ。
いつもお前とやるときは、すぐ逃げてしまってつまらなかったからな」
「ふん、減らず口を叩きやがる」
「私はギリギリの戦いをこそ望む。お互い、尻に火が付いたまま戦う今の状況は悪くないのも確かだがな」
強がる曹操に対して劉備は口元を歪め、ニタりと嫌らしい笑いを浮かべた。
「ほお? ならこのまま戦ってやってもいいんだぜ?
お前の今、そこに立っている場所が、お望み通りギリギリの一線だ」
周りにいる荀攸や黄忠、趙雲などは、二人の会話があまりに剣呑で一触即発なので、戦々恐々として会話を見守るしかなかった。
「あの小汚いやくざ者崩れが、よくもこの丞相に大口を叩けるようになったものよ」
「お褒めにあずかり、恐悦至極だな」
「賠償金、その他一切の条件なしの即時停戦。それが条件だ」
「……飲もう、その条件!」
劉備はいつもの明るい笑いを顔に取り戻して言った。
だが、それに続いてかなり不穏な事を口にする。
「曹操、お前も知っているだろう。高祖劉邦は、覇王項羽と停戦協定を結ぼうとした。
垓下の戦いでだ。しかし大参謀、張良らの助言により項羽に後ろから襲い掛かった。
生涯不敗だった項羽はその時最初で最後の敗北を喫したんだぜ」
待て、まて、まだ笑うな。曹操からしたらそんなところだろう。
後ろから攻撃することをほのめかす劉備は荀攸の策にまんまとはまっており、孔明、法正らですら気づく様子はない。
荀攸も曹操も、最初からそれを迎え撃つつもりで今まで戦ってきたのだが。
「お前の麾下に張良も陳平もおらんだろうが」
「背中に気をつけろよ」
「ほざけ、皇室の血統を騙りおって」
「まあまあまあまあ!」
荀攸が止めに入り、曹操、劉備はようやく静かになった。
「……いいだろう。とっとと漢中を明け渡すんだな」
「わかったわかった、欲しいならやる」
「それはどうも、恩に着るぜ」
「口の減らんやつだ……荀攸、行くぞ」
曹操は不機嫌そうな顔で、荀攸や十数万の兵を従え、劉備に背中を向けて陽平も捨てて長安への行軍を開始したのだった。
その去っていく背中を眺めながら劉備が物思いにふけっていると、ちょうど良く軍師達が駆け降りてきた。
「主君、どうかされましたか」
代表して孔明が聞いた。
「お前ら、我が軍はあの逃げる曹操軍を追うべきだと思うか?」
「はい、張良がしたように私もそれをお勧めします」
「そう言うと思ってた。行くぞお前ら、曹操の首をとりに行くぞ」
「はい、準備をさせましょう。全軍を召集します!」
劉備軍は、とりあえず全速力で全軍を召集。
山中に散りばめておいた大量の伏兵を呼び戻し、それから、捨てられた陽平関やその他の城塞すら無視して進撃を開始。
曹操軍から遅れること五時間であった。
その日の夜。曹操軍も劉備軍も行軍を休止し、夜営して日の出を待っていた。
劉備が眠りにつきかけていた時である。
南の方から、伝令が馬を飛ばし、ものすごい勢いで走って来るではないか。
せっかく気持ち良くなっていたところへ、かなり大きな騒ぎが起きているので、寝床から起き出してきた劉備は途端に不機嫌になる。
「なんだよもーいいところだったのに!」
「報告! 報告!」
「あーはいはい、報告あるから来たんだよね。で何?」
劉備は大きな耳たぶが垂れている耳の穴を小指でほじり、酷く不機嫌に言った。
それに注意を払う余裕は伝令にはないので、劉備の前で馬を下りて水筒から水を飲み、喉を潤すと、ひざまずいて手を体の前で組んで拱手した。
「荊州の劉将軍が十日ほど前に孫呉軍と決戦!
周瑜が陣中で没したうえ、孫呉軍は決定的敗北!
以後、劉将軍の麾下に入り、揚州全域が将軍に降伏しましたぁっ!」
「え……あいつ、そ、そんな兵どっから出てきたんだ?」
劉備も驚いたが、唖然としたのは劉備よりは多少軍略に明るい軍師達だった。
軍略を知っていればいるほど、こんなことは無茶苦茶だとより深く理解できる。
大軍で小さな軍を倒すのが戦。その逆はない。
もし存在するとしても、それは戦術ではなく魔術である。
そんなことを、劉秀は二度目もやってまぐれではないことを証明してしまったのだった。
孔明は、恐る恐る劉備に言った。
「恐らく我々が荊州兵の主力を引き抜いた後、募兵し、独自に編成し訓練したものかと」
「はい、数は五万、いずれも新兵。ですが孫呉軍七万を撃破しおよそ四万という壊滅的被害を与えました!」
「……その新兵で、文円がか?」
「はい」
「孔明。いにしえの大将軍、韓信がこの世に蘇ったら、きっとこんな感じで勝ちまくるんだろうな」
「はい……およそ人間業と呼べるものではないでしょう。
そんなものを相手にしてしまった、孫呉軍には同情を禁じ得ません。
敵でなくてよかったと心底思います」
「はあ……」
劉備は馬鹿ではない。この一報でずいぶん色々な可能性に頭を悩ませた。
それ故の深く憂鬱なため息だった。
「狡兎死して走狗煮らる。ふと今、そんなことを考えちまったよ孔明。
あいつも同じ劉だ。やりたくはない。だがその劉だからこそ、やる必要がある」
法正はそんな劉備の翼々(よくよく)とした臆病な発言に感心して激しく笑い出した。
「はっはっは、ご主君! 今でも仲間のふりをして近づき、散々利用した挙げ句殺すのですね!
そんなところまで劉邦に似なくても! はっはっはっは!」
孔明、法正は口を開いたので、龐統は自分もとこう発言した。
「主君がこのまま漢中王となられれば、むこうもそれを警戒せざるを得ないでしょう。
一見、現在の状況は面積の広い三州を劉家の血が支配し、天下は曹と劉で南北に二分されているかのように見えます。
しかし、今、この状況は劉曹孫の三つ巴の時代と何も変わっていないのでは?」
龐統は目下劉備軍の中で話題に上がっている劉修が光武帝であり、最強かつ無敵であることを知っている。
そのため、なるべく彼とは手を組む方向に話を持っていこうと努力する。
「そうだなあ。あいつはこの乱世に颯爽と現れたもう一匹の龍。
ま、言っちまえば真打ち登場といえるかもな」
「曹操と劉修、どちらを選択すべきかは火を見るより明らか。
加えて劉修は万夫不当の神懸かり的な軍略の才を持っております。
万が一敵に回せば敗北は免れません。
また人望に優れ、民に慕われており、これを殺すなど噴飯ものですぞ!」
「そうです主君!」
話を聞いていた趙雲が、加勢に入った。
「暑苦しいなあ子龍」
「暑苦しくても言わせていただきます。あの方は英雄で漢の功臣。
そんな将軍ですら殺されるのならば、その他の人間が主君を恐れ、反乱さえ起こるでしょう!
主君が天下を握られたとしても、その安定は望めませぬ」
「ふ、これは意見が割れましたな」
趙雲らの意見を嘲笑い、法正はこう言った。
「この問題は今解決すべきではないでしょう。
内部での分裂を誘発する危険な議論です」
「ああ。この話を打ち切るべきだな。
だが俺は一つ、確信している事があるんだな」
「……それは?」
「運命という名の全てが味方した大きなうねりは、この劉備の背中に風となって吹いている。
それだけは確信しているんだ。俺が天下をこの手に掴むのは必然だ。
他の誰でもねえ。俺より頭のキレる曹操でも文円でも孔明でもなく、天は未来をこの俺に任せてくれている」
孔明は照れて羽扇で顔を隠しながらこう言った。
「主君、おっしゃる通りです。それで曹操軍追撃はいかに致しましょうか?」
「漢中さえ確保すりゃ曹操軍などものの数じゃない。
どうせ途中の城を攻めてる間に曹操軍本隊には逃げられるのがオチだ。
これより全軍漢中と成都へ居座り、荊州には戻らない事としよう。
荊州、漢中、そして揚州から三方同時攻撃で曹操を葬る。
そのためには荊州と揚州……まあつまり、劉修との良好な関係が絶対条件だ。
孔明、以前お前が言っていた三正面作戦、俺は忘れてないからな」
そうやってにこやかに笑いかけられた孔明は感動のあまり、地に平伏したい欲求にかられた。
劉備の恐ろしいところは、この不気味なまでのカリスマを自覚している点にある。
孔明は確かに逸材であり、その孔明は当時基盤と言えるものは何も持たなかった劉備の仲間になった。
劉備は、涙を流して部下の無事を喜びながら、心のどこかで冷徹な計算もできる。
そのどちらも本心。そんな複雑怪奇な人格を持った、一体の怪物でもある。
確かに劉備は、曹操や劉秀に比べて何もしていないにも関わらず、勝手に事態はどんどん好転していき、ついには漢中王の称号も手中に収め天下を目前にしている。
この時まだ五十前後。天下を握るまで十分生きられる年齢である。
いくら劉秀でも運命と必然には、勝てはしないだろう。
と、そんな話をしている劉備の姿を将軍達と一緒に眺めていた張飛は、横の関羽に不意にこんなことを聞いた。
「なあ、兄貴。何だって軍師や長兄は劉修を殺すって話になってんだ?」
「考えてもみよ。武功でも実力でも、はっきり言って劉修が圧倒的に上だ。
我らは益州しかもたぬが、奴は二州を手に入れ曹操とも対等以上に渡り合える能力まで備えている。
もし我らが力を合わせて曹操を倒したとして、実権を握るのは奴に他ならぬだろう」
「そ、そうだな。武功は明らかにあいつが一番上だ。
俺達の誰よりも、大きく、派手な戦果がある……」
「翼徳、お前はあの男と友人であったな」
「ああ、兄貴。あいつは友達だ。裏切ったと聞いたときは斬ろうかと思ったが、そうじゃないんだろ?」
「うむ。そう見て間違いなかろう。どうやったかは知らんが、短期間で呉軍と決戦に持ち込み倒しおった。
この報告を聞けば曹操軍も退かざるをえない。
我々を助けるためやったことは、疑いようもなかろう」
「だったら!」
「つまり危険なのだ。忘れたのか翼徳。我らの桃園で結びあった誓いを!」
劉備と関羽、張飛は楼桑村という劉備の故郷で、共に天下に太平をもたらすと誓い合ったのだ。
あれからもう二十年以上にもなる。劉備は、母を残してまで乱世に身を投じた。
もう、とっくに亡くなってはいるだろう。儒教の教えでは親不孝は最大級の罪。
それでも劉備は故郷を出ていくと決めた。関羽、張飛もこれについて行くと決めた。
「忘れるわけが! 俺達があの日の誓いを忘れる訳はねえ!」
「我ら生まれ出ずる日は違えども、ただ死する時は同じ日であることを願う。
そうしてあの美しい桃園の日だまりの中で、我ら三兄弟は酒を酌み交わしたではないか。
我ら三兄弟のあのお優しい母上は、貯金をはたいて料理と酒と肉を振る舞って下さった」
「ああ! あの時の酒の美味さには、二度と出会えねえ!」
「なら翼徳、友人と兄弟どちらを選ぶというのだ?」
「……そんなの決まっている、兄弟さ兄貴。
俺は長兄に天下をとって頂くため、戦ってきたのだ」
「わかっているならよい。ならどうするのだ?」
「兄貴や軍師の言ったことに……従う」
「それでいい」
ジワジワと広がってきた劉備陣営と光武帝との溝。
それがついに顕れた。
漢中王となった劉備と、未だ巨大な勢力を誇る曹操。
そして二者を圧倒する勢いと能力を持つ桁違いの怪物・劉秀。
姿を変えた三国志はいよいよ最終章へ!
とまあ、煽りましたけど、感想欄で展開を予想されていた。くやちい。




