劉備、守る
「大都督……大都督!」
兵士も呂蒙も周瑜の死を悼み、涙を流し、そしてそれが永遠に続くかに思われた。
しかし周瑜の遺志を受け継いだ呂蒙はめそめそと泣くのをやめ、劉秀に言った。
「お前の言う通りにしよう……それが、この方のご遺志だ」
「賢明な判断だ。元より、我等に敗北した後建業に戻ったとして……お前達や孫権を待っているのは、反戦派の重臣達。
彼らの反対をこれ以上押し切る事は出来ない……それはわかっているんだろう」
「ああ、だから大都督も投降を承知して下さった……」
「さあ行こう、呂蒙。その男は確か、孫策伯符という親友がいたらしいな。
私について来るならば、その男は責任を持ってその横に埋葬させてやる」
「……感謝します」
呂蒙は頭を下げ、劉秀が戻って馬に乗るのを待った。
そう、ここで呂蒙が周瑜とともに抵抗し、命を落としていれば、周瑜のなきがらはこの縁もゆかりもない、寂しい戦場に放置するしかない。
呂蒙は、劉秀に誇りを奪われる以外に道はなかった。
「行くぞ、孫権を追う」
およそ五千ほどの兵を加えた劉秀軍は、一路孫権の逃げた方角を目指して行軍を再開した。
それからおよそ二十四時間後、恥も外聞もかなぐり捨てて逃げる孫権の背後へ、投降した連絡騎兵が追いついてきた。
それを発見した孫権は、久しぶりに顔を明るくして、その伝令にこう聞いた。
「伝令、公謹は……しんがりの軍は一体どうしているのだ!?」
「殿軍は五千になるまで抵抗を続けました。
しかし、大都督のご容態が悪化し、息を引き取られたとほぼ同時に将軍が降伏勧告を受け入れられました」
「馬鹿な……そんなこと私は信じぬぞ!」
孫権にとって、信頼する二人を一挙に失った事はあまりに大きい痛手だった。
「それから、将軍からはこれを預かっております……」
伝令は呂蒙直筆の書簡を手にし、孫権に差し出した。
その手紙にはこう書いてあった。
『主君、まずはこの呂蒙の不明と不忠をお許しください。
ですが、これは大都督のご遺志でもあり、主君のためでもございます。
私は劉修より大小様々な降伏すべき理由を並べ立てられ、それに納得致しました。
その理由の一つが、建業の重臣達であります。
息子の曹丕が留守を預かる曹操の領土ですが、そちらへ重臣達が助けを求める危険性があります。
その手土産として、主君が暗殺される危険性は非常に高いのです。
主君、今すべきことをよく噛み締めてお考えを。
劉修に降り、その軍とともに、安全に建業へ参りましょう。
もしくは柴桑でも構いませんが、ともかく劉の軍で身を守り、身の安全を保証してもらうしかありません。
今、曹と劉どちらも敵であり、更に我らの味方のはずの重臣達ですら敵。
曹と劉、どちらかについて、もう一方と重臣達から身を守らねばなりません。
どちらにつくべきかは、あまりに明白かと思います。
主君、劉修は曹操よりも遥かに強いのですから』
呂蒙からの、降伏を促す書簡だった。
これを読んだ孫権はがっくりと膝をつき、唇をかんだ。
「周瑜、呂蒙を失い、三万五千の兵が死亡……及び投降した。
この状況で、一体どうやって戦うというのだ……!?」
「主君。劉軍を倒し、一気に天下を伺うという戦略は完全に破綻致しました。
優秀な将軍と兵士をごっそりと失い、もはや再起は不能です。
こちらがしようとしていたことを、相手にそっくり返されました。
一応、この陸遜も主君には劉修への投降をお勧め致します」
「……はあ、あの化け物さえいなければ、我々がこの千載一遇の好機を掴めたのに。
父、兄に申し訳ない。申し訳ないが……ここは言う通りにするしかあるまい」
「ご英断です、主君」
「全軍を停止させる。柴桑と連絡し船を出して川を渡る。
劉軍および呂蒙達と合流し、呉は一旦店じまいだ」
孫権は宣言通り馬を止め、傷ついた兵士達の休息と治療のためにも軍を停止させ、劉秀への伝令を飛ばした。
これを受けた劉秀は、早速呂蒙を呼んだ。
「呂蒙、いるか! 降伏の書状だ!」
「……はい、ここに」
呂蒙が馬を寄せてきた。後ろに周瑜の姿はない。
兵士に預けてきたようだ。
「呂蒙、やることは言うまでもないな。お前が行ってきて孫権を安心させるのだ。
投降した者は助けるという証にな。また、この書状を」
呂蒙が劉秀に確認して開けてみると、そこにはこう書いてあった。
孫権及び、孫権に付き従ってきた江東、江南の全ての者。
財産、地位、命はこれを漢の国の大司馬にして荊州、揚州牧の劉修が保証する。
ただし反乱を起こす者は大司馬の権限により、徹底的に叩き潰す。
「……こ、これは!」
呂蒙は手が震え、不本意に大きい声が出た。
「まさか……戦いが始まる前には、もう……」
「その通りだ。これを書いたのは十日も前のこと」
呂蒙は理解した。自分達は戦ってはならない相手と戦ってしまったことを。
これが、帝王か。
呂蒙の魂に、震える身に、その納得が深く染み込んだ。
彼らは、本当の帝王の姿を未だ見たことがない。
それを生まれて初めて目撃したのである。
「勝つという確信はあった。本当は孫権を捕虜にするつもりだった。
だが周瑜のおかげで叶わなかった。まあ結果は大して変わらないがな。
その周瑜を命懸けで守ろうとした呂蒙、お前の勇敢さと忠義は評価する。
我が軍に加われ。田舎に引っ込んでいるより、その方がよほど天下のためになるだろう」
戦え、それが天下のためだ。嫌な言い回しである。
まるで田舎に引っ込んだら悪い事だとでも言いたいようだ。
呂蒙はどのみち、劉秀の言うことは聞くしかないので素直に頭を下げた。
「承知……しました。行って参ります」
呂蒙は馬を走らせ、数キロ先にいる孫権軍にまっすぐ向かって十分程で追いつくと、大声を張り上げて孫権を呼んだ。
「ご主君! 呂蒙であります! 呉下の阿蒙が参りました!」
「呂蒙か……」
全てを諦めたような目をした孫権。それを見た呂蒙は言葉を失う。
「降伏勧告に来たのであろう。ご苦労だったな」
「は、はい……江東、江南の者は全て現在の地位、資産、そして命を保証するので投降せよと」
「承知した。呂蒙行くぞ。柴桑で正式に降伏を受け入れる。
それ以外……我らが生き残る術は……ない」
「はい……」
孫権軍はここから、川を渡ったところにある柴桑という重要拠点への船を用意すると、合流してきた劉秀軍とともに川を渡った。
周瑜の訃報と孫呉の全面降伏という報告が、劉秀軍から発せられたその頃には、定軍山の戦いもいよいよ開幕となっていた。
7月17日、陽平関。
重い体を引きずり、陽平関の中から荀攸は、高所に陣取った敵軍を眺めていた。
三国志ファンは知っての通り、山に陣取る時に馬謖くんはこう言っていた。
高所である山をとれば敵に攻められにくく、また攻撃もしやすいのだ、と。
確かにそれは事実なのだが、馬謖は兵糧や水の確保が不十分なまま陣を敷いてしまった。
故に魏軍の包囲を受け、彼の与えられた軍勢は枯れて死んだのである。
だが今回、法正、孔明ら劉備軍の最強メンバーがいるのでそんな間抜けな事にはならない。
同じ山の布陣でもこの定軍山の攻防で使われる城壁は鉄壁中の鉄壁。
その上敵に食料を運ぶ補給部隊は険しい山道を通り、これの邪魔をするのは非常に容易とくれば劉備軍の漢中攻略はもはや目の前に見えていた。
しかし、史実での定軍山の戦いと今回の戦いは大きく違う。
まず、荀攸、荀イクがまだ生きている。
そして曹操も死ぬ数年前の年老いた姿ではなく、まだまだ体の方は壮健である。
更に挑むは十八万。とてつもない大軍勢を阻まねばならない。
更には荀攸の仕掛けた罠をも超える必要がある。
劉備軍勝利までの条件は、非常に険しいものだった。
「荀攸、そろそろ行けそうか?」
荀攸が一人で敵情を眺めていたところ、総大将の曹操が陽平関の普段は守備兵以外はこない屋上に姿を現した。
「丞相、いつでもいけます」
「よし、号令をかけるぞ」
「はい、皆のもの銅鑼を鳴らせ!」
ジャーンジャーン。
「げぇっ、関羽!」
という空耳が聞こえたなら、あなたは横山版の三国志のファンだろう。
ドラの音が鳴るとともに、兵士がぞろぞろと盆地に集結し、十八万の巨大な軍勢が突如として劉備軍の眼下に姿を現した。
「壮観だな。下りるぞ荀攸」
「は……」
曹操は荀攸と一緒に馬を取りに行き、騎馬すると十八万という大軍の中央へと向かった。
四方八方、どこを見渡しても自軍の兵でいっぱい。
そんな中で曹操はいつものように笑っていた。
「ふはは、荀攸お前も嬉しいだろう。十八万の大軍を率いるのは軍師としてさぞ気分がよかろう?」
「ええ、丞相。震えます!」
「女を抱くのとは別種の、そしてそれ以上の快楽。
大軍を握り、操る快楽は一度覚えると生涯離れられん。
そして数は多ければ多いほどよい。さて荀攸、そろそろ号令をかけるか」
「はい、丞相。お願いします」
「うむ。全軍に告げる!」
荀攸のそばで、曹操は鼓膜が破れんばかりの大声でこう言った。
「全軍、勇者たれ! 突撃せよ!」
「ウオオオオ!」
十八万という数は、軍勢の一人一人に全能感という重要な感覚をもたらす。
兵士は劣勢になれば必死になろうものだが、それも程度の問題だ。
劣勢になりすぎると逃げ出すし、優勢過ぎても慢心し、結果脆くなる。
今、曹操軍は十八万の友軍がもたらす安心感と、恐怖の魔王曹操が与えるプレッシャーにより、理想的な精神状態となっていた。
今だから言えるけど、気づいてみたら周瑜はすごい扱い良い。
北方謙三版の三国志より扱いがいいのではないだろうか。
周瑜は見せ場である赤壁を光武帝にぶち壊されたので、筆者が気を遣ったのだった。
何しろ、さっき「周瑜 有能」で検索したらこの作品が検索結果でヒットしたぐらいである。




