周瑜、散る
前回までのあらすじ
光武帝は最強だった。孫呉軍七万を堂々撃破。
右翼を攻めて敗走させ、次に孫権のいる中央軍を狙う。
のだが、その時後ろからやってきた伝令の報告に驚愕した。
途方もない才能を相手にしてしまった事を後悔する以外、孫権らに道は残されていなかった。
この戦、一体どういう判断をすれば勝てていたのだろうか。
正直、どんな手を打とうと劉秀に全て叩き落とされただろうと思われる。
「安心しろ、捕虜にしてやる!」
劉秀は叫びながら馬を走らせ、三万の先頭に立って爆走する。
と、そんな劉秀にも、耳を疑う一報が舞い込んできた。
後方の自軍から、連絡騎兵がすっ飛んできたのである。
「将軍、劉将軍! 東の方角で敵軍が再集結し、我が軍の足止めを!」
「……なんだと?」
この一報は、少し遅れて絶体絶命の孫権軍にも伝わった。
その知らせを聞いた瞬間、震えていた孫権の手がぴたりと止まった、
「公謹が! 来てくれたのか!」
「あの方は起き上がる事すら出来ぬ病状のはずですが……」
「そんなことはどうでもよい! あの男がいればこの戦況は覆るッ!」
孫権は吠えた。そう、周公謹は、重い身を起こして陣営から馬を飛ばしてやって来た。
起き上がる事すら不可能なはずの病状。一体どんな奇跡が働いたのか。
周瑜は瞬く間に逃げた呂蒙の軍をまとめあげるやいなや、号令を発した。
「全軍、中央軍を救出せよ! 最後の力を振り絞り、目の前の敵をただ斬り伏せよ!」
「うおおおおおおぉ! 大都督ーッ!」
信じられない事が起こった、と劉秀は素直に認めた。
これは予想を超えた事態だ。そしてそれは更なる展開へと結び付く。
戦場を支配していた空気が、ガラリと一変し、呉軍の士気が一気に最高潮にまで達し、沸騰した。
劉秀は馬の方向を素早く変え、自分を背後から襲おうとしている周瑜軍への攻撃に切り替えた。
「空気が変わった。敵軍の兵士達がまるで別人になったみたいだ。
これを、たった一人で? ただ、戦場へやって来ただけの……瀕死の病人が?」
今の状況を整理しておこう。まず、劉秀の左翼軍は甘寧が率いており、孫呉の右翼軍程普と交戦していた。
しかし劉秀の無茶な采配で二倍以上の戦力差ができ、深刻な劣勢に陥っていた。
のだが、孫呉軍左翼の呂蒙軍が壊滅して、そのまま劉秀が中央軍と右翼軍合計三万を率いて左に旋回し、孫権がいる中央軍一万を包囲しようと狙っているため、孫呉軍右翼の程普軍は急いで退却しながら孫権の中央軍一万へ援軍にいこうと努力している。
だが甘寧軍一万数千が今まで押され続けてきた鬱憤を晴らすように猛攻を加え、程普軍がほとんど援軍にいけない状態になっていた。
程普軍は孫権軍一万へ、一万の兵を割って援軍に行かせようとしているところだったのだ。
そのため甘寧軍と拮抗した状態になっていた。
さあ、孫権のいる中央軍一万は絶体絶命。
とそこへ、戦場の奥の方へ退却していた、蹴散らされた呂蒙軍の一万数千をまとめて周瑜がやってきた。
逆包囲。
包囲しようとしていた劉秀の三万は、ちょうど今、ここで、孫権軍一万と周瑜軍一万数千の二者に挟み撃ちされようとしているではないか。
劉秀にとっては予想外であり、そして想像を超える出来事であった。
「あっはっは、認めざるを得ない。お前は英雄だ周公謹。
もし最初からお前と戦っていたら、どうなっていたかわからない。
まさかこの俺に、戦を楽しいと思う日が来るとはね」
劉秀は敵を讃え、そして周瑜の命は、今この時が最盛にある事をひどく残念がった。
命の火は消える直前の刹那、激しく燃え上がるということを劉秀は知っていた。
「……捻り潰してやる。心を折る準備はこれで出来たな」
周瑜の魂胆は明らかである。孫権に襲い掛かろうとする劉秀軍の背後に出現することで、劉秀がこちらを狙わざるを得なくする。
そうすることによって、孫権が逃げる時間を少しでも稼ごうというのである。
その状況から包囲に移行するもよし、逃げるもよしだ。
孫権の手綱を掴む手には涙がこぼれていた。
「公謹、すまない。すまない……全軍で劉修軍へ突撃せよ!」
逆包囲が完成すれば劉秀とて負ける他はない。
最初から兵力的に劣勢だった戦いだ。
しかし、周瑜の構想にはあるひとつの欠点があった。
それは、周瑜は敗残兵をまとめながら向かっているため時間がかかることだ。
今劉秀にはまだ主導権が握られており、三倍近い兵力で孫権を攻撃して全てを終わらせるか、まだまとまり切っていない周瑜を二倍の兵で攻撃するか二つに一つを選ぶ事が出来た。
劉秀の決断は素早かった。周瑜は無視してもよかったが、あえて相手をしてやることにしたのだ。
現実的には、孫権軍一万を包囲して殲滅すれば事は足りるしそれは非常に簡単なことでもあった。
しかし劉秀は一見堅実に見えるやり方で勝ちを拾うよりも、孫権軍へ精神的なダメージを与える道を選んだ。
つまり今この状況の精神的な支柱である周瑜の軍を真っ先に粉砕し、孫呉軍全てを呆然と自失させ、戦意を完全に根絶する道である。
むしろ、孫権の一万を潰しても孫呉軍は周瑜がいるかぎり心が折れないと劉秀は読んでいた。
劉秀軍は全軍を周瑜軍へ向けると、無慈悲な大突撃を命じた。
「一度逃げた上、病人に率いられた軍だ。お前達なら蹴散らせるな!?」
兵達から大歓声が上がった。一つの勝利は猫を虎にも変える。
劉秀はこの戦いの中で、経験の浅かった兵士の育成にすら成功していた。
何から何まで計算しつくされており、計画に狂いはない。
周瑜という狂い咲きの花は確かに劉秀を驚かせたが、全体を崩すには足らなかったのだ。
「突撃せよ!」
一方それをさせまいと一万の軍を展開させる孫権に、陸遜は諌言した。
「大都督の一万数千の兵をしんがりに、撤退。
主君、それでよろしいですな?」
見ればいつもは冷静沈着な陸遜も、目には涙を浮かべていた。
馬上の揺れによって滴り落ち、それが頬にかすかに光る一本の筋を残している。
「何故だ。このままでは公謹が!」
「大都督は承知しておいでです。あの逃げ出した兵は所詮二倍の劉秀軍を止める力などないと!」
「やってもみないでわかるか!」
「落ち着いてください」
孫権はだんだん冷静になってくると、とりあえずは全軍で後退するように命じた。
「……ああ。撤退だ! 全軍撤退するぞ! 今は撤退だ!」
程普軍は甘寧軍に拘束されていたが、これも戦いをやめて撤退した。
「またこの役目か……我ながら命がいくつあっても足りん」
倍以上の程普軍に圧倒され続け、常に後退を余儀なくさせられていた甘寧が、ようやく敵が撤退してくれた安堵から呟いた。
「大都督、一体ここまで、どうやって……!」
周瑜を恩人と崇める呂蒙が、顔面蒼白で聞いた。
極限の緊張と集中の中、突然周瑜が現れて、まだ完全に状況が飲み込めていなかった。
「理由などない。後悔を残して死にたくなかったからだ。
奴に勝てる軍略を、ついに主君に献上することが出来なかったからな」
「誰のせいでもありません、奴は人を越えた化け物で……」
「なら今の私も、とっくに死んでいる体を引きずった化け物だ。
どうせただの死に損いなら化け物同士、最後までしぶとく足掻いてやる!」
「……はい!」
呂蒙は、ただまっすぐに答えた。
「主君のため、敵を留める! 一時でも長く!」
呂蒙も覚悟を決めた。決死の突撃を何度も繰り返す呉軍の殿軍は、一万数千という兵力ながら三万の劉秀軍の突撃によく耐えた。
しかし一人、また一人と衝撃に耐え切れずに落伍していき、半分以上が玉砕した。
それでもまだ、満身創痍の周瑜とそれを必死で守る、傷だらけの呂蒙だけは最前線でしぶとく生きながらえている。
劉秀は、これ以上の攻撃をひどく空しく感じた。
「一応聞く! 降伏しろ、命だけは助けてやる!」
と劉秀が聞けば、その数十メートル向こうにいる呂蒙が、周瑜の代わりにこう答えた。
「お前が我々ならば、降伏するのか!?」
呂蒙の威勢だけはいい答えに、劉秀はいつもの笑いを発した。
「あっはっは、そりゃそうだ。わかった、お前達は敬意を払って擦り潰す!」
劉秀は兵を横に展開。更に両翼を突出させた。
包囲、殲滅戦法に出るのである。自軍は甘寧を加えた四万三千、呉軍は五千だった。
およそ九倍強の、とても逆転不可能な戦力の差だった。
「囲んで殺せ、一人も逃がすな。ただし投降者は絶対に殺すなよ」
「はい、了解しました将軍」
「何だか弱いものイジメみたいで好きじゃないが……」
魏延は素直に、甘寧は不服そうに従い、戦陣はぐるりと呉軍を一周して囲んだ。
「……全くの、四面楚歌だな」
周瑜は自嘲的な笑いをもらした。
「大都督、あなたと戦えたことを、誇りに思います」
「よせ、目の前の敵に集中ーー」
周瑜が言いかけた時、目の前に信じられない光景が広がっていた。
敵の総大将劉秀が、残った数少ない呉軍の目の前に馬で出てきたのである。
「呂蒙、私が劉玄徳一の将、劉文円である。話をしにきた……どこにいる?」
「呂蒙は……私だ!」
一人で乗る事も出来なくなった周瑜を馬の背に乗せた呂蒙が声をあげた。
劉秀は呂蒙の傷だらけの姿を見て、満足そうに笑った。
「あっはっは、傷だらけだな、よく戦った!
いいぞ呂蒙。それに後ろのは周瑜か?」
「だったら何だ!」
「いや、お前達には敬意を払う。そこで呂蒙、少し話がある。
そなたはわかっているだろうが、呂蒙と周瑜という二人の英雄を一気に失えば、孫権と呉は身を守る能力を完全に失う。
そこで提案がある。お前達、こちらへ投降してくれないか?」
「……」
呂蒙は、しばし荒い息をしたまま劉秀を睨んで黙っていたが、やがてこう聞いた。
「投降などしないと言ったはず。一体何が言いたい?」
「呂蒙、考えてみろ。お前達は力無く、頼る相手が必要だ。
私を拒むならば、頼る相手を曹操とするというのか?」
「それは……」
「お前達は名指しで漢の逆賊と言われているではないか。
だがこの私は違う。お前達ほど忠義に厚い男はまたといないだろう。
こちらにつけ。そうすれば全員の命を保証し、荊州出身も揚州出身も一切差別なく用いる!」
「……信用出来るか!」
呂蒙が拒絶することは劉秀も知っていた。むしろそうでなくては。
ここで簡単に折れるような奴なら劉秀は認めてなぞやらない。
「あっはっは! ならこうするまでだ!」
「あ、将軍何を!?」
魏延が止めるのも気にせず、劉秀は馬から下りた。
更には、これ以上に常軌を逸した行動に出る。
「光武帝は捕虜達の中に丸腰で分け入ったという。俺もそれにならおう」
劉秀は腰の剣を放り投げて魏延に渡し、呂蒙の乗っている馬の前まで歩いてきた。
圧倒的有利な状況とはいえ、丸腰で戦争中の敵の目の前に劉秀は出て行ったのだ。
「さあ呂蒙、孫権を助けられるのは今だぞ?」
「……本当に敵わないな、劉将軍。頭脳でも、胆力でも」
呂蒙は諦めたように笑いを浮かべ、敵を称賛した。
その途端、慌てた様子の周瑜が最後の力を振り絞ってこう叫んだ。
「やめろ呂蒙! 裏切りなど! 見損なったぞ!」
「すみません……大都督。呂蒙は劉修の言う通りに致します」
「何故だッ!? お前、この俺をーー」
周瑜は言いかけた時に、呂蒙の背中が震えているのに気がついた。
「あんたが命をかけて守ろうとしたことを……無駄に出来るわけないじゃないですか!」
呂蒙は叫び、悔し涙を手の甲に滴らせた。
彼の言う通り、周瑜が死を賭して逃がした孫権は、いずれ時間が経てば曹操に処刑される運命。
その運命を変えるには、周瑜に罵られようと、忠節を曲げようと、劉秀に従うしかないのだ。
「馬鹿者が、馬鹿者めが……」
「すみません、でも、これ以外に方法が……」
「……私の代わりに主君を守れ。そう言い遺すつもりだったが、必要なかったらしいな」
周瑜は満足そうに言うと、ついに呂蒙の背中で冷たくなった。
「大都督!?」
呂蒙が異変に気づいて周瑜の遺体を揺り動かし、その死を確認したとき、周囲の兵士達にも周瑜の死は一斉に伝播した。
周瑜がいることで兵士達はとてつもない力を発揮することが出来た。
しかし逆に、彼の死によって、兵士達から一切の戦闘の意欲は消え去った。
「大都督……大都督!」
兵士も呂蒙も周瑜の死を悼み、涙を流し、そしてそれが永遠に続くかに思われた。
誤字多過ぎ笑った
教えてくれた親切な人ありがとう




