光武帝、いともたやすく武功をあげる
「兄上、見えて来ましたぞ」
関羽が指差すとそこは、あずまやと形容したものか、あばら家と形容したものか。
静かな山水の囲む絶景に佇む一軒の家には、底知れない風格があった。
劉秀は臥龍というのは言い得て妙だと思った。ここは龍の巣だ。
龍の巣に分け入る人間もまた、遥か怪物。
「頼もう! 新野の劉玄徳が、孔明先生にお会いしに参りました!」
すると、奴婢なのか、少年が出てきた。
「お待ちしておりました、先生はすこし前お帰りに。どうぞお入りください!」
「おおっ! やっぱり文円は吉兆だったぜ!」
狂喜した劉備は、劉秀、それから少年と握手を親しげに交わした後、三人を連れて家の中へ入って行った。
「寝てる……」
劉秀は、ぐーぐー寝ている孔明の姿にはちょっと呆れた。
今まで、無名の孔明に有名な将軍劉備がここまでしてくれたのだ
もう十分品定めはしただろうに。
劉秀は、孔明を叩き起こしたくなったが、さすがにそれはやめといた。
だが張飛、関羽は相当に腹を立てていた。
「ふてえ野郎だ! 確かに臥龍だな!」
「シッ、声が大きい!」
劉備に叱られた張飛に従い、劉秀、関羽も続いて家から出た。
その直後、家の前で劉備にも聞こえる声量で張飛が毒を吐く。
「もう我慢ならん。兄貴を侮辱するにも程がある!」
「妙な真似はするなよ」
「兄貴まで……なあ文円殿、お主も腹が立つだろう!?」
「はい。しかし玄徳殿のご機嫌を損ねたくなくば、雲長殿の言うことを……」
「わかってる。まったくお主まで……ふん!」
張飛はすねてどこかへ行った。もしかすると放火でもする気かもしれない。
劉秀は関羽と二人きりは精神的にしんどそうなので張飛を追うことにした。
劉秀は、ちょうど放火しようとしている張飛をなんとかなだめすかし、早く劉備が出てくるよう願った。
数時間後、張飛は結局、劉秀、関羽らと一緒に酒盛りをして待ち、奇しくも孔明と同じように眠っていたが、出てきた劉備に起こされた。
「起きろ翼徳、孔明先生がお呼びだ」
「おう兄貴、臥龍の奴は起きたか」
「もうとっくにお目覚めだ。ほらさっさとしねえか」
劉備は張飛を抱き起こしてやって、彼ら四人組は、孔明の招きで書斎へ通された。
「劉将軍、ようこそおいで下さいました。そちらの方は関雲長。
武名響き渡る英雄。こちらは張翼徳殿。私はてっきり貴方に乱暴されるとばかり思っていましたが」
背が高く、手には羽扇を持ち、白い着物がただでさえ爽やかで淡い印象をより強くしている、颯爽とした天才軍師、諸葛孔明が現れた。
ほとんど、悪びれる様子はない。
「ふん、文円殿と酒を酌み交わしていた方がよほど楽しいわ!」
「こら失礼だろ!」
劉秀にはなぜか人を引き付ける魅力が備わっており、単純な性格である張飛とはすぐに打ち解けた。
史実では劉秀本人が化け物なのに彼の人徳に集まってきた人間が怪物だらけだったため、哀れな新は最強無敵の軍団によって砂上の楼閣のように倒されてしまったほどだ。
「そちらは……お初にお目にかかります。諸葛孔明と申します」
「お噂はかねがね。劉文円と申します」
「皆様、お茶をどうぞ」
「いえ結構。我々は下がっております」
「そうおっしゃらずに」
「……それでは失礼する」
関羽は、どっしりと威厳をもって座り、そして劉備が話し出した。
「先生。私の来歴はお話するのも恥ずかしい、敗北の連続でした。
関羽、張飛はともに豪傑。時代を作れる英雄。二人を抱えても私の行くところ、貧乏神が付き纏ったのです。
漢室を再興し、民を苦しみから救いたい一心の私は、毎日胸が潰れる思いです」
「その痛みは将軍に志がおありになる証拠でしょう」
「孔明先生、我らに欠けていたのは先生のように類い稀な見識あるお方の助言!
どうかこの劉備にそのお力を貸していただきたい!」
「ふぅ……」
孔明は、土下座する劉備に対していかにも無礼に息をつき、足を崩してから言った。
「残念ながら、都と天子を曹操に握られ、曹賊の勢力圏は肥沃で広大です。
持てる兵は数十万に及び、とてもではありませんが、正面からぶつかることは不可能です。
一方南にも孫家の呉が勢力拡大の機会を狙っており、荊州牧の劉表はその中で優柔不断に右往左往しています」
「先生……?」
「劉表は民の心を得られておらず、しかも病でこれはまさに天の助け。
どの道、いずれは曹操や孫権らに渡るのです。
劉将軍が劉表から荊州を譲り受け、それを足掛かりに、呉と協調路線をとりながら勢力を拡大するのです。
力を付けた将軍は更に益州もとって関中に攻め入り、許都を攻めるのです」
「そうなんだけどなあ、外聞的にもダメだと思うし、俺も出来れば恩人から奪うような真似は……」
「しかし将軍、みすみす賊にとられ、将軍に何も残らぬでは大業を成すことは出来ません。
天子のため、民のため、どちらを取るべきかは火を見るよりも明らかかと存じますが」
「ぐ、ぐぐう……」
劉備は道義にもとることはしたくない。されど大きな業績をなしたい夢は、身を焦がすほど強く抱いている。
その板挟みで苦しんでいる事も孔明はよく知っているので、黙って見守るのだが、ここで意外な人物が発言した。
「先生、私は劉氏の名をもつ者です。こうしましょう。
名目上のみ、私が荊州牧となってその後、劉将軍を補佐として指名します」
「おのれ、誰がお主など信用するものか!」
関羽がぬっと立ち上がり、座っていた劉秀の体に大きな影を落とした。
「おい雲長!」
劉備は慌てるが、劉秀と孔明は冷静沈着だった。
「いいえ雲長殿、劉文円殿が裏切る事はないでしょう」
「なぜだ?」
「荊州牧になるにしても、劉の姓だけでなれるものではありません。
劉表も、文円殿をそう簡単に信用はされないでしょう。
しかし、劉将軍を補佐にすると明言すれば、喜んで譲渡してくれるでしょう」
「だが……」
「文円殿は、劉将軍という後ろ盾を失った途端、荊州の民、官僚の支持を失うはずです。
劉将軍を討てと命じれば逆に兵に自分が討たれるのは目に見えています。
ゆえに、裏切りはありえないのです。
例えるなら宦官が皇室に寄生はしても、絶対に宿主を殺す事がないように」
宦官は、皇帝の権威のおかげで力を持てる。
宦官の力は皇帝の、皇室の力と同様なので、宦官が新しい王朝を立てたり、王朝を積極的に壊すということは中国では起こらなかった。
結果として宦官の悪い政治が国を壊しても、彼らは自ら壊す気はなかった。
劉秀もそれと同じだと孔明は言っているわけだ。
納得した関羽は、無言でドスンと座り直した。
「しかし……劉文円殿の才知には驚かされました。
天下の英雄、劉玄徳殿には優れた武将はいても軍師がいないと聞いておりましたが」
孔明は、目の前の怪物の才能に早くも気がついた。さすがである。
「実は今朝、玄徳殿にお仕えするようになったばかりでして」
「得心が行きました。文円殿、共にわが君を支えて参りましょう」
「はい」
と言っている二人の傍らで、劉備はぽかんと口を開けていた。
「孔明先生、なんだって?」
「わが君、これから一生、私の主君は劉玄徳のみです。犬馬の労もいといません」
「おお! おお! 孔明先生! これは身に余る光栄!
これで天下はとったも同然だ!」
またも狂喜した劉備は、勢い余って孔明だけでなく、関羽や張飛にまで握手をし、気炎を吐いた。
「先生、先生と文円殿のおっしゃる通りにします!」
劉備は、本当は狂おしいほどに荊州が欲しかった。
それを手に入れる言い訳がどうしても欲しかった。
劉秀は、孔明と荊州を同時に与えてくれた天の恵みそのもののように劉備には見えた事だろう。
「雲長、例のものを!」
「はい」
関羽が取り出したのは、この時のための金をあしらった装飾品だった。
「主従のしるしに、どうかお納めを。高かったんだぜ」
「頂けません」
「そこを何とかお願いします先生。何もお礼を贈らぬでは顔が立たねえよ。
侠客は命よりメンツを大事にするもんだよ先生」
土下座された孔明は、迷惑そうに贈り物を受けとった。
「確かにお受けしました」
「孔明先生! この愚夫、劉備を導いてくれ!」
この直後には五人の男達は語らい合いながら荊州の新野へ戻った。
孔明の政治力や劉表の厚遇もあいまって劉備のもとには、単なる客将とは思えないほどの兵力と兵糧があつまり、まるで引き絞られた矢のようだった。
荊州の豪族の力を借りたり、遊民、難民を徴兵したりと孔明の策が光ったとか。
この力を試したい、そんな気持ちが劉備の中にも芽生えた。
新野城では、孔明はやはり新参者にしては厚遇されていて白眼視されたが、劉というだけでどこの馬の骨ともわからぬ劉秀もいたため、孔明へのヘイトは多少軽減されていた。
劉備と孔明に気に入られた劉秀は、来たる戦いに備え、なんともう半分参謀半分将軍の役割を任されていた。
人材不足にも程があろうというものだが、実際今回の博望の戦いにも一枚噛んでいた。
孔明は人を見る目があまりないイメージがあるが、今回は正しかったと言える。
曹操十万の兵が出発した日の事。
兵士の訓練に、教官としてつけられた劉秀は訓練の合間に、自ら率先して武芸を見せていた。
劉秀は知略で優れていただけに留まらず、個人的な武勇も豪傑といっていいほどで、農民兵らは劉秀の美技に感服しきりだった。
「凄いもんだな、劉修」
劉修。それが、劉秀の名前だった。劉修、字は文円。
本名を言ったら物狂い扱いされるのがオチなので、隠すしかなかった。
劉修は劉備と同じく子宝に多数恵まれた絶倫男の玄孫を自称していた。
その彼が呂布並の弓の腕を見せていた時に通り掛かった劉備が声をかけた。
劉備は劉秀の事を名前で呼んでいいほど打ち解けていた。
「主君。兵達は我が武芸に感激しております。
心服を勝ち取る事は、忠誠心と士気を高めるに必要でした。
決して遊び、戯れていたわけではございません」
劉備は頬をふっくらさせて笑った。
「いやいや、結構じゃねえか。なあ孔明先生」
「文円、その兵は次の戦でそなたに預ける。
功あらば、引き続き軍権を与え、将軍に任じよう」
と、劉備の隣にいた孔明が言った。
「ありがたき幸せ」
「ところでわが君。我々はああして新兵を教え、使わねばならぬほど状況が逼迫しております。
曹操は北で兵を集めているという情報もございます……」
「関羽、張飛、趙雲にも匹敵する武勇をもつ劉修がいる。
そして何より孔明先生がここに。何を負けることがあるんだい?」
「趙雲、劉修は根からのお人よし、命令には従うでしょう。
しかし関羽、張飛の私に対する態度は主君もご存知のはず」
「うむ……命令に従わぬ事は有りうるなあ……」
劉備は難しい顔でヒゲを撫でた。
「もしその時がくれば、例のものをお貸し願いたく」
「もちろんだ。簡単な事よ」
数日後には、敵襲の知らせがこの新野にもやってきた。
劉備軍は劉表に義理立てするため、劉表の命を受けて曹操の軍と戦う事になっていたのだ。
集合のかけられた劉備軍の面々は、机に座る劉備とその横で立っている孔明の前へ並ぶ。
「皆のもの、曹軍南下の報を受け、荊州の長、劉景升様より出撃の命が下った。
我々は西平に布陣して敵と交戦する」
と言った孔明に劉備が続く。
「これを防がねば荊州の危機となる。十万以上の大軍だ。
至急、全軍をもって出撃する。作戦は後で話す、以上だ!」
「はっ!」
この日より劉備軍は北上しては敵を迎え撃つ陣を敷いていくのだが、それからしばらくすると、異変が起こった。
曹操の軍が兵を割ってどっか行ってしまい、残ったのは夏侯惇率いる数千のみだった。
十万以上の大軍が攻めてきたという話しもあるが、少なくとも劉備軍が交戦するのは、一万に満たない敵だ。
この情報を掴んだ劉備、孔明は作戦を変更することを、改めて将軍達に伝える。
「我々は、これより北上し、博望の地にて敵を待ち構える。
劉文円、別働隊として南道に潜み、本隊撤退の後、追撃する敵に奇襲をかけよ」
これは、敵軍から「あれ? 関羽いないな。罠か?」
などと怪しまれる事を防ぐため、別働隊にはまったく無名の劉秀を選んだわけだ。
「承知」
「趙雲、この作戦を読んで警戒し、別の道を通る者もいるはずだ。
趙雲は別働隊をもってこれを討て。関羽、張飛は先鋒を務めよ」
「は!」
趙雲は元気がいいが、古参の二人はあまり気乗りしない模様だ。
「へいへい」
「いいだろう」
関羽、張飛が孔明のことをまだ信じられないのも無理はない。
あんなに失礼な事をした若造にいい感情をもてと言う方が無理というものだ。
「命令に従わぬ者は斬る。私にはこの印がある」
「いちいち言わずとも見りゃわかる。兄貴、行こう」
張飛ら半信半疑のまま、彼ら劉備配下の将軍は持ち場へとそれぞれ向かった。
今回の作戦は孔明立案の骨子となる作戦に劉秀が手を加えたものだった。
この段階ではまだ強い将軍は揃っていなかったが、ここで見込みのある劉文円という謎の男が早速武将として加わった事により、史実のものより若干自由度が上がっていたのだった。
劉備軍の兵士達は、さきほどの新兵を除いては、謎の男、劉文円に対してかなり半信半疑な部分はあった。
だが、孔明に対する関羽らと同様に、渋々ついていった。
劉秀隊が向かったのは、決戦の地である博望の地の南側にある、茂みの多い怪しい道だ。
ここに兵を隠すスペースは山ほどある。
で、偽装撤退してきた劉備軍を追撃している最中の曹軍を、この茂みの中から突如現れた劉秀隊が攻撃。
その後、偽装で逃げている関羽、張飛ら劉備軍主力部隊が反転し、攻撃に加わって敵をボコボコにするという作戦だった。
結果は、まさしく史実にプラスアルファされた結果となった。
敵将の夏侯惇らは、適当に戦火を交えた後に負けたふりをして偽装撤退した劉備隊を追撃した。
この時、李典だけは、南道に伏兵がいる可能性を考慮して慎重論を唱えたが受け入れてもらえず。
曹軍は勇猛果敢に劉備軍を追い詰め、そして、罠にかかった。
劉秀隊が曹軍に奇襲を仕掛けて混乱させ、足止めをさせている内に、劉備は瞬く間に軍を反転させて号令をかけた。
「全軍かかれ! 押し潰すのだ!」
「ウオオーッ!」
勇猛な働きをする劉秀に負けていられないとばかりに、関羽、張飛は雄叫びを上げて部下を奮い立たせた。
それぞれ長大な青竜刀と蛇矛を振りかざし、敵をちぎっては投げ、ちぎっては投げ。
数では劉備軍に勝っているはずの敵軍を脅かすほどの武者働きで、味方の兵士達もその頼もしさに、本来以上の力量を発揮して敵軍を押し込んだ。
更に、残った李典の隊は、全く予想だにしていない趙雲隊の長距離奇襲攻撃を受けて散々に打ち負かされ、敗走した。
劉秀は、二手先を読んで趙雲を行かせたのだ。
この作品は演義ベースの時と史実ベースが混在しています。
話しの上での都合のためです。