孫権、決戦を望む
呉軍陣営。沼地に囲まれた陣地にいた周瑜の病状もいよいよ悪化していた。
夏の暑い時期にこんなところにいたら、病気も悪化して当然である。
「公謹……一体いつ打って出る気なのだ?
このままでは我らのほうも疲弊してしまうぞ」
孫権は周瑜の寝かせられている寝台の側に来ると、汗をかいて苦しんでいる様子の周瑜に言った。
「主君……」
「なんだ起きていたのか。そのまま寝ていていい」
「いえ主君、質問にお答えします。そろそろ時期がきました」
いつもの自信満々で、全て我が手のひらのうちだと言わんばかりの全能感が溢れた顔つきだった。
そんな周瑜を目の当たりにした孫権は、心の中の不安が一気に晴れていくかのようだった。
「時期とはどういうことだ?」
「私の死を隠して下さい。死を隠して……敵を兵糧攻めにするのです。
敵の兵糧が尽きてきたところで、こちらが襲い掛かります」
「死っ!? こ、公謹、何を言い出す!」
周瑜は、話すのも辛そうに目を閉じて言った。
「この沼地の虫の多さと暑さ……どうやら敵の罠に完全にはまってしまったようです。
私が病身であることを知って、ここで我々が敵の兵糧が尽きるのを待たせたのです。
そして私はまんまと策にはまり、こうして死を目前にしております。
兵糧攻めで敵を撃退するつもりが、熱病にかかるとは……策士、策に溺れるといったところですか……」
周瑜の言っている事が本当かどうか、定かではないということにしておこう。
周瑜が地の利を得るため沼地に布陣することを読んだ上で、「そちらの好きなところで戦おう」と言い、周瑜は沼地に布陣した。
そして周瑜の病状を悪化させることにまんまと成功したのなら、劉秀は大した謀略家である。
もしかすると、甘寧の進言があったかもしれない。
そこは、あえてぼかしておこう。
正々堂々を重んじる風で、実は腹黒な光武帝というイメージも悪くはない。
謀略に関しては抜けているところがある、天衣無縫の光武帝というイメージも悪くはないだろう。
「公謹、そなたが死ぬのを黙って見ていろと言うのか!?」
「劉修と正面から戦ってはなりません。あの男は強い。
しかも今は五万程度の兵士かおらず、向こうと同数。
最低でも奴の五万を討ち滅ぼすには、十五万は必要でしょう」
「公謹、でもこの陣地はどの道捨てなければ!」
「動かなければ負けません。奴はチマチマと城を攻めて領土を削る戦いは好かないようです。
何が何でも決戦を望むはず。敵が望むことは何一つしてやらないのは、兵法の基本です……」
「だがこのままではそなたが死ぬのだろう!
そなたを失ったら我が軍はどうやって戦えばいい!」
「……呂蒙と陸遜がおります」
「わかった。その呂蒙、陸遜を呼んで会議する。
今後、そなたの言う通りここでじっと待つか、何か別の手を打つか、三人で話し合って決める」
周瑜は、まともに劉秀とぶつかるのは愚行だと思っていたので、孫権の曖昧な態度には少し顔をしかめた。
「わかりました……私は少しでも体を休めております……」
「ああ、あまり弱気な事を言うなよ」
孫権はそれだけ言うと、伝令を走らせて呂蒙を呼び、孫権の本陣で緊急軍議が始まった。
とはいえ、一体何があったのか二人とも知らされてはいないので、困惑するばかりである。
「主君、急用とは一体?」
「大都督は?」
「……その周瑜の事なのだが」
孫権は短い足を組んで即席の椅子に座り、続ける。
「もう長くないと本人の口から聞いた。この夏の暑さで体力を奪われ、更に沼地には毒気のようなものが漂い、周瑜の体を蝕み続けているのだ。
もしこれが、劉修の策略だとするなら我々は一杯食わされたといったところだろう。
周瑜の結論はこうだ。何があろうと敵の兵糧が尽きるまで待つべし。
たとえこの周瑜が死んでも死を隠して睨み合いを続けろと言っていた」
沼の毒気というのはよくわからないが、もしかすると微生物や寄生虫、病気を媒介する蚊などがいたのかもしれない。
「この陸遜、大都督に賛成です。
今我々は五万ですが、程普将軍の援軍が来れば七万までにはなれます。
ですがあの大都督ですら、七万の兵をもってして劉修の五万を倒す方法を全く思いつかれなかったということでしょう。
私も思いつきません。決戦を挑めば待つのは死あるのみです」
「この呂蒙も大都督に賛成です。ですが大都督は、秘密裏に柴桑で休んで頂くのはどうでしょう?」
「うむ……だが奴を怒らせる事にはならないか?」
「あっ……」
呂蒙は思い出した。周瑜は温和で優しい性格でこそあるが、役立たず扱いなどされるとキレる。
自分の有能さには絶対の自信があるためだ。
怒らせたら病状が悪化するかもしれないし、何より今揉め事を起こして敵につけいる隙を与えたくもなかった。
「……残って頂くしかないようですね」
「ああ、全く持って劉修という男の策略には寒気を覚える。
まず奴は、こちらに好きな地形で布陣するよう言った。
我々はこの沼地を選び、睨み合いとなった。奴は正面きっての会戦となると強すぎるから、我らは兵糧攻めに出たのだ。
しかしここで誤算があった。大都督、周公謹の病状の急激な悪化だ。
そして今、我々は、公謹が死ぬ前に決戦に出るという、強い誘惑に駆られている。
はっきり言って、全部敵の思惑通りであろう。一体どれほど先を読んでいるのか、底が知れない。
何という底の知れない相手なのだ。
だが、少しだけよい材料もある。兵士の質だ」
「兵士の質ですか」
「そうだ」
劉秀軍は、荊州からかき集めた五万の兵。どれをとっても新兵同然である。
何故そうなったかというと理由は簡単。
荊州の精鋭、主力と言える兵士は全部漢中を攻めるために劉備軍が持っていってしまっているからである。
「弱兵五万は兵糧も節約している。一方我々には七万の兵がいるだろう。
二人とも、本当に意見を聞きたいのはここからなのだ。
このまま睨み合いを続ければ劉軍は荊州に撤退するかもしれないが、公謹は確実に命を落とす。
奴の撃退と公謹の命はあまりにも釣り合わないと思わないか?
あの男抜きでこれからどうやって戦えばいいというのだ!」
「その通りだと思います主君。大都督はご自分の命を軽く見すぎです」
呂蒙に続き、陸遜もこう言った。
「確かに敵は弱兵五万。我々は援軍を合わせて七万。
一見、勝てそうな条件は揃っています。
ですがそれはこちらを油断させるためでしょう。
確かに決戦を挑む上で状況は悪くありません。
しかし、無策に数で押せば曹操の二の舞になることでしょう」
「うむ……私はその策を聞きたかったのだ、陸遜。
それに呂蒙、そなたも策はあるか?」
「は……ならばこの呂蒙に妙案がございます」
「聞こう!」
「は、まず敵に大都督が亡くなったと知らせ、実に情けない感じで和睦交渉するのです。
敵は和睦を受けたふりをして襲ってくるでしょう」
「……本当にそう上手く行くだろうか?
そなた劉文円が、曹操に何と言ったか知っているか?
俺は勝利を盗まないだそうだ。今度もそうするのではないか?」
「主君、奴の異常なほど正々堂々とした性格は聞いております。
ですが必ず襲ってくる事でしょう」
「なぜだ?」
「今この時期、急に大都督が死んだなどという知らせ、奴が信じる訳がありません。
騙されるのはアホウくらいのもの。奴は見抜いて来るでしょう。
現に大都督は、ご自分の死を隠せとおっしゃいました。
恐らく、我々の上を行く大都督や、劉修に見えているのはそういう世界」
ちょっとわかりにくかったかも知れないので、一応解説しておく。
劉秀としては、孫呉軍が打ってくる手を二パターンに絞り込んでいた。
ひとつは、周瑜の言った作戦。持久戦を挑む事で劉秀軍の兵糧を尽きさせ、撤退に追い込むものだ。
これに対しては劉秀は、それはそれでいいと思っていた。
放っておけば周瑜は勝手に死ぬ。周瑜の命と兵糧の交換と考えれば、実にお得な取り引きである。
そしてもう一つ孫呉軍が打ってくる手がある。
それは呂蒙が提案した作戦。
呂蒙が提案した作戦は、周瑜が死んだと嘘の情報を流し、軍を喪に服させ敵を油断させること。
そうした上で和睦をし、引き上げる。引き上げているところを劉秀軍が襲う。
劉秀は、周瑜が死んだ訳ではないと察するからである。
だが、実は東から程普軍の二万ほどが援軍にやってきているのだ。
劉秀軍は五万で兵は経験が浅い貧弱ばかり。
それで孫呉軍五万に挑もうという時に、急に程普軍二万が出現するのだ。
いくら劉秀でも焦るはず。劉秀軍の経験の浅い兵士も相当な恐慌状態になるだろう。
と呂蒙は考えた。
実際そこまで有利な条件を作れば、劉秀に勝てるかもしれない。
もし勝てれば、孫家の呉は荊州を一気に飲み込み、天下すら見えてくるのだ。
これを聞き、孫権は非常に魅力的な提案に思えた。
「明日朝、必ず葬式の方お願いします」
呂蒙は力説する。陸遜も、これには一応賛成だったので反対意見は言わなかった。
敵軍の兵糧と周瑜が交換では、あまりに割に合わない。
当の周瑜は「それでもいい、孫権軍が壊滅するくらいなら」と言っているが、陸遜も周瑜が今後の呉に絶対必要な人間だと信じていたのだった。
当初は陣地を捨てての決戦に反対していた陸遜だったが、ここで賭けに出なければ劉秀には一生勝てず、孫呉が天下を狙うに必須の荊州は絶対手に入らない事は最初から理解していた。
陸遜はここで、最終確認をする。
「主君、勝てば大都督のお命はもちろん、荊州すらそっくり手に入る事でしょう。
負ければ孫呉軍は壊滅。揚州は劉軍に征服されることでしょう。
そのことはよく、ご確認下さい」
「わかっている陸遜。このことを公謹に伝えてくる」
孫権は立ち上がり、明日朝、周瑜の葬式をするための準備をすることを頭の中に留めつつ周瑜が寝ている陣屋にもう一度足を運んだ
「……主君」
「公謹」
「私が死んだと偽り、決戦を挑むと決まったのでしょう」
周瑜は、千里眼でもあるみたいに孫権の胸中を言い当てた。
「誰かから聞いたのか?」
「いえ……ただ、予想がついたまでのこと」
「なら聞こう。そうすればこの戦、勝てると思うか?」
周瑜は少し黙った後、存外希望的観測を口にした。
「わかりません。向こうは五万、こっちは七万。
向こうは新兵。こっちは精鋭が揃っております。
更に言えば敵主将、劉文円には今、張飛も趙雲もおりません」
「それでも……それでも勝てるかはわからないというのか?」
「はい。三倍以上の敵を壊滅させるなど人間業ではありません。
そんな怪物相手に勝てる可能性があるとすれば、今だけなのも確かです」
「そうだ。私の判断で決めた。そなたをここで失うわけにはいかない。
この籠城戦に勝ったとて、得られるものなどない。
そして失うのは、かけがえのないものだ」
「主君、個人的感情を、国の大事に持ち込んでは……」
周瑜に説教をされかけたとき、孫権はこう言って周瑜を制した。
「呂蒙も陸遜も同意してくれた。そなたは必要な存在だ。きっと全軍がそう思っている」
「全く、ずるい方だ。そう言えば私が断れないのをわかって……」
「ああ、知っててそう言った。答えは?」
「お好きになさってください。確かにこの戦で勝っても何も得られはしません。
私はそれでもいいと思っていました。奴に挑み、負けて、孫呉を失うよりはいいと」
「だが、気が変わったか?」
「変えたのは紛れもなく主君のお言葉でした。
ですが、私には奴を倒せるこれ以上の策など思いつきませぬ。
お力には……なれそうもありません」
「いや……その気持ちには感謝する。今まで頼り切ってすまない」
孫権は周瑜と別れ、自分の陣屋に戻って書状を書き、静かに明日の朝を待った。




