荀攸VS孔明、法正、龐統
「丞相、それに夏侯将軍、軍議を開きましょう」
「うむ」
曹操は荀攸を連れて陽平関に入り、しばらく待機。
その間、荀攸は偵察騎兵を飛ばして劉備軍の情報をなるべく集めておいた。
やがて張コウら将軍もあつまり、ここで最終軍議が開始された。
まず口を開いたのは進行役を務める荀攸その人だった。
「皆様、これよりこの軍師荀攸より、皆様にご説明したい作戦がございます」
「ああ、続けろ荀攸」
「はっ。では皆様、こちらに簡易的な地図がございますので印しをつけてわかりやすくしました。
赤が劉備軍、青が我らです」
荀攸が皆に広げて見せた地図は、漢中の南と西側を支配し、特に山と森を独占している劉備軍が赤く表示されていた。
陽平関を中心とすると、北の方面を全体的に有しているのが曹操軍だ。
これを見せ、荀攸は続ける。
「知っての通り、山城の劉備をいくら攻めても効果は薄く、逆にこちらの被害は甚大となるでしょう。
しかし、時間をかけるのが敵をどんどん有利にする事は間違いありません。
つまり、劉備軍の早期撃滅は絶対です」
「ああ、そんな方法があれば是非聞きたいな」
「背水の陣作戦です。韓信の真似をしてみる価値はあるかと」
「それはどんなのだ?」
曹操に聞かれた荀攸は勿体振った。
「いえ丞相、この作戦は奇策にして邪道。私は丞相に申し上げました。
正道を用いて勝つと。それがどうしても出来ぬ場合にのみ、恥を忍んで実行します。
それの説明は、その時に。これから説明するのはひとまず劉備軍の包囲を行うまでの戦い方についてです」
「お前真面目だよな……」
曹操は半笑いで言った。
「えー、今のところ、劉備軍はこの漢中の盆地で、数万の兵をこことここ、山と山の狭間にある平地に構え、我らが包囲するのを阻止する構えです。
山と山の狭間の道は狭く、ここを通るとき我らの大軍は縦長の列になります。
ここを死守しようというのでしょう。突破は困難です。
かといって闇雲に山の中を行っても、伏兵に襲われ、大混乱が起こるのがオチです。
そこで我々がとる策は、犠牲を厭わない強引な突破。
相当死ぬでしょうが、これが一番確実で相手が嫌がる戦法です」
「正道すぎる……少しは工夫ないのか!」
荀攸は曹操からお叱りを受けた。
「……相手は最初から地の利を得た場所をしっかり確保しており、これを攻めることは兵法書でもご法度と書いてあります。
しかし、これを攻めろとおっしゃるのは他でもない丞相です。
もし丞相が向こうのお立場だったとしたら、やはり同じようにするのでは?」
曹操は黙った。荀攸の言う通り、曹操も劉備軍はこれ以上ないほどの嫌な手を打ってきている事は承知しているからだ。
「うむ……」
「ですから、地の利を得た敵をあの場から引きずり出す事は不可能ではないと考えています。
ですが背水の陣作戦はやりたくはないというか……」
「もういいから言いなさい荀攸。勿体振るな。言っておくがこの曹操ならこの戦出し惜しみはなしだ、全部で行くぞ」
「……背水の陣作戦はこうです。まず、しばらく普通に戦います。
そして、いくらか犠牲を出し、時間も経過したところで、八万を残して十万を撤退させます」
荀攸の衝撃的な発言に、一同がざわついた。
「ぐぐ、ぐ、軍師、一体どういうことだ?」
と言ったのは許褚将軍だった。
荀攸はみんなが黙るのを待ってから続きを話す。
「将軍、その撤退の理由は、反乱鎮圧のためです」
「誰が反乱を起こすのだ?」
「偽装です」
「あ、なるほど」
「偽装で撤退すれば我が軍は減り、いよいよ与しやすそうに敵には映ります。
八万対十万ですから。そして、大規模な反乱が起きたので和睦をしよう、と実に情けない感じで和平交渉をし、相手を油断させます。
いかに我々が決戦を望まないかを深く印象付け、油断を誘います。
そして和睦を断られたら、なるべく弱そうな形で敵の前に布陣します。
和睦を受けた場合、ごく普通に撤退します。ここまで油断に油断を重ねて、初めて劉備軍はあの陣地を捨てて、こちらを倒しに来るでしょう。
これが背水の陣作戦の全容です」
話を聞き終わった一同は静まり返り、しばらくの間呼吸音すら聞こえなかった。
話を聞いて理解出来たもの、出来なかったものは半々といったところだろうか。
前者に分類される曹操は、荀攸の肩を叩いて大いに笑った。
「はは、道理で戦ってからにしろと言ったわけだ。
この作戦を実行するのに、まず正攻法での山城攻めは不可欠だったのだな!」
「そういうことです。山城をまず攻め、そして犠牲を出す事で、こちらの厭戦気分に説得力を持たせる必要があります。
時間制限がある中、既に地の利を得ている敵を倒す。
それには、この欠陥だらけの策しか思いつきませんでした。
敵が襲ってくる保障もないし、八万で十万を倒さなくてはならないのです」
「十分だ。十分だ荀攸! 八万で十万ぐらい、どうという事はない!」
「それと丞相、確認しておきたいのですが、もしこの作戦が失敗し、和睦が成立してしまった場合は、漢中の要所に守備兵だけを置いて劉備攻めは諦め、東の戦線へ集中して頂きます。
それでいいですね、丞相?」
「私も長くない。文若も……奴には曹操の天下を見せてやりたい。
郭嘉には見せてやれなかったものでな」
曹操を支え、数多くの戦でその神算鬼謀を発揮し敵を蹂躙した、荀攸と双璧をなす曹操の軍師、郭嘉。
彼は数年前に病没しており、それ以降の曹操は少し精彩を欠く部分があった。
郭嘉は法正と一緒で不良軍師だったが、非常な人格者である荀攸とはよく意見があった。
お互いの実力を認め合った同僚で、友人だった。
「丞相、劉備を確実には倒せぬ私の力不足はお許しをーー」
そう言った時である。荀攸がにわかに咳き込み出した。
五十をとっくに過ぎた荀攸を心配し、曹操軍の重臣が駆け寄る。
「軍師、一体……」
一番先に駆け寄った夏侯淵は、荀攸の手のひらの、わずかな鮮血に目を見開いた。
咳が止まった荀攸は、荒い息をしながら立ち上がり、曹操に言った。
「先が長くないのは私も同じです。それなりにこの体も限界なのですよ、丞相。
あと数年生きられれば御の字というものでしょう」
恐らく喉が悪いのだろう。血を吐いたのはそのせいか。
もちろん場合によるが、吐血するにしても量によって病の重篤度合いは違ってくる。
大量の血を吐く場合、胃や内臓がやられており、もう手遅れだ。
その点、ほんの数滴でしかない荀攸はまだマシである。
「時間がない……時間だけが私をこうも駆り立てる。
叔父上も丞相も、その点では同じでしょう。
時間は若い劉備達に味方します。ご安心を。
八万で十万の劉備軍を破壊する算段は整っております……」
「もういいわかった、休め荀攸! そなたを失うわけには行かぬ!」
曹操は荀攸の手を引いた。
「皆様、まずは正攻法で攻めて下さい。お願いします……」
荀攸は去り際にそう言い残すと、曹操自らの手で陣屋へ連れていかれ、そこで寝かされたのだった。
残された将軍達は、軍師に頼らずに戦闘を継続することを誓った。
将軍であれば、病気をおして戦場へ出て来ることはあまりない。
だが軍師は違う。歩けなくても体をどれだけ病に蝕まれていても、軍略を練り、頭の中で幾多の戦争を描くことをやめてはいけないのだ。
さて劉備軍と曹操軍の十万規模の大激突が目前に迫っていた7月10日。
揚州の戦場では、新たな手が打たれようとしていた。




