荀攸、策を献上する
「気づいたか馬良。地の利とかどうでもいいんだこの場合。
先に動いた方の負け。相手が何を企んでいようと関係ない。
必ずこちらに勝機が生まれるんだ。何故なら相手は動くことを強いられるからな」
「……あの周瑜がそんな単純な男なのでしょうか?」
「奴もまた曹操を打ち破った怪物。正直、俺が今まで対した中でも最強だろう。
必ず想像を越えた手を打って来る。俺がさっきした話は、相手がお前のように教科書通りの奴ならそうなるって話だ」
「ちょっと、兵法書を馬鹿にするのはあなたの悪い癖よ。
馬良くんがそう答えたのはあなたが誘導するように質問したからでしょ?」
「いや、ごめん。馬良、悪いね」
「いえ別に……」
「さて、麗華に怒られるのもしばらくお預けだ。
周瑜……どれほどの相手か、見に行くとしようか」
周瑜という、呉を背負って立つほどの男が一体どれほどの才能か。
劉秀は戦ではなく、お宝の品定めでもするかのように、上機嫌で出発した。
新野から一週間ほどの行軍で、劉秀は例の決戦場となる湿地にたどり着いた。
そして、ここにたどり着いた劉秀軍先頭にいる、総大将劉秀が馬上にて発した言葉はこうだった。
「周瑜……お前も所詮、この俺に冷や汗をかかせるには足りないか?」
周瑜は、セオリー通りに湿地を利用した陣を構築し、約五万の兵で劉秀を待ち構えていた。
湿地には沼が点在しており、劉秀軍が周瑜軍を攻めるには、沼と沼の間の隙間を縫って兵が進む必要がある。
つまり、兵力は分散されてしまう。
組織としてのまとまった力が発揮できなくなり、どれだけ大軍でも、こういう沼地では一歩間違えればボコボコにされて大敗しかねない。
張遼との戦いで、『縦敗横勝』の法則があると言ったが、この沼地で攻めようとしたら、不利な細い縦長の形にならざるをえない。
だから絶対に負ける。
およそ地の利という言葉が含む意味の中で、最も有利な地形は、こういう細長い道を相手が通るしかないところだろう。
だが相手が攻めて来なければ、守る呉の兵士達はただ単に湿地帯でキャンプしているに過ぎない。
「まあいいだろう、我慢比べをするのも悪くはないさ」
いつものように馬上でニヤニヤ笑う劉秀を見て、甘寧は辟易した気分にさせられた。
「また始まった……」
「甘寧、野営するぞ。周瑜と我慢比べだ!」
何がそんなに楽しいのか、劉秀は愉快そうに笑いながら叫んだ。
一方その頃、曹操もまた、重臣を引き連れて、一大決戦へむかう行軍の真っ最中だった。
軍師の荀攸、徐晃、曹休、許褚。全員が曹操の部下の中でも屈指の人物だ。
そして何より、総大将で丞相の曹操も自らがこの戦場へ。
劉備軍史上最強の陣容で守る定軍山の陣地、いやむしろ定軍山城とも言える強固な劉備軍本陣。
そしてそこに仕掛けられた数々の孔明の罠が曹操を待ち受ける。
それの周りには、およそ五万から六万の大軍が遊撃部隊として陣地を守っている。
孔明はこういう、常道とは全く違う戦はあまり得意ではない。
人間として、何というか、上品なので、勝つために何でもするというのが好きじゃないのだ。
その点では不良軍師の法正がこの定軍山攻防戦を指揮する上では向いていた。
そう、この大軍が行うは常道とは全く違う、ゲリラ戦である。
山を隠れ家にし、兵を隠して常に奇襲を行うのだ。
だから正道の軍師である孔明では、ゲリラ戦を存分に指揮する事はできない。
想像してみてほしい。死ぬほど重い鎧と長い槍などを装備し、山の上から敵は矢を撃ち放題。
疲労困憊のところへ、曹操軍の兵士は山登りしながら城を攻めなければならないのだ。
そんなかわいそうな兵士達へ、突然山の中から関羽、張飛とか趙雲が出現してなぎ払ってきたらどう思うだろうか?
もう、一分一秒だってこんなところに居たくない。
こんなの勝てるわけないだろう。
まともな神経してたらそう思うはずである。
そこに加え、数々の軍師達の罠があれば、曹操軍が戦いつづける事は非常に困難。
それでも曹操は勝つ見込みがあるのだろうか。
自信だけはありそうな顔の曹操が長安を経由し、漢中方面の険しい山脈へと入る道で馬に乗り、行軍指揮をとっている途中、前方から一騎の騎兵がかけて来るのが曹操にも確認できた。
合流してみると、漢中戦線を指揮している夏侯淵からの伝令であった。
「丞相、将軍からのご報告です!」
「うむ。言ってみろ」
「は! 劉軍は陽平関のすぐ側にある定軍山に築城!
ここに籠城し、更に周囲には大量の伏兵を散らしてあります!
これを我々の軍だけでは到底対処出来ず……!
丞相の頭脳とお力がどうしても必要です、お力添えをお願いします!」
「わかっておる。戻ってこう伝えろ。
我々本隊はあと三、四日もあれば漢中の本拠、南鄭にも到着するだろう。
それから全力を持って劉備軍と激突し、可及的速やかにこれを倒す!」
「は!」
伝令は休憩もそこそこにきびすを返して走り出した。
報告を聞くなり、軍師の荀攸は青い顔をして曹操に聞いた。
「丞相、敵は寡戦を挑んで来るようです。どうされるお積りですか!」
「兵が少ない場合、孫子は戦わず逃げ、自軍の兵力を相手よりなるべく多くしてから改めて戦えと言っている。
だから、兵が少ない時の戦い方はほとんど著述していない。
孫子の考えでは、兵が少ないまま戦う、それ自体既に負けであり、その状態で勝とうとすることは邪道というわけだな?」
「はい……」
「はっはっは、劉備らしいではないか。あいつに正道の戦など似合わん!
この曹操も、巨大な国力を手にしてからはこうして大軍を出し、正道で戦ってきた。
だが荀攸、お前は官渡の戦いの時には十倍の敵を倒す策を授けてくれた。
今回の戦、お前と孔明ら劉備の軍師達との頭脳戦となるであろう」
「はい、全身全霊を傾け、この戦いに臨みます!」
「その意気だ荀攸。そしてこの戦いは同時に、長きにわたるこの曹操と劉備の決着をも意味する事となるだろう。
行くぞ荀攸。敵が力と知恵を合わせてこしらえた仕掛けを、そなたが破るのだ」
無茶苦茶な要求である。だが荀攸は拱手をした。
「お任せください、丞相。最良の邪道は最悪の正道に勝るでしょう。
しかし最良の正道を邪道で破る事は出来ません」
「よく言った荀攸。そなたに総参謀を任す。不休で励め」
「はっ!」
「行くぞ、夏侯淵と張コウには荷が重過ぎるだろう」
曹操は旅を急ぎ、山を越え谷を越え、漢中の中心地を目指す。
より早く、より早く、と。法正の立てた計画通りだった。
曹操は、この辺は自分の領土なので大丈夫だと思い、慎重に伏兵を調べる事もなく行軍する。
その山の中に、既に法正の指示通り配置された奇襲部隊がいた。
やはりゲリラ戦はこうでなくては。
敵の行動を読み、伏兵を配置し、敵の食料を奪い、また隠れ、混乱を生み出し、精神的にも弱った敵を攻撃するのだ。
法正はただ兵法書を読んでその通りに戦を進めるだけの軍師ではない。
強大な敵を、険しい山々という守るに適した地形を利用してゲリラ戦で翻弄する。
それを二千年前のこの時代に可能とする才能を持ち合わせていた。
本の受け売りで悪いが、法正の今回とった戦闘スタイルは毛沢東のそれに似ている。
守るのに適した峻厳な山脈が腐るほど存在するここ益州と主戦場、漢中。
これに、数多くの正規兵ゲリラ部隊が多数潜伏するのだ。
そして、周辺住民がこれに呼応し、協力。
強大な敵をも倒せる体制をこうして整えるのは、毛沢東も同じ。
毛沢東はこれで天下をとり、中国共産党が今でも中国を支配している。
つまり、効果は証明されている。ゲリラ戦という言葉など影も形もないこの時代でさえ、劉備の配下の軍師達が出し合った案をまとめた結果、曹操に勝つにはこれしかないと結論が出ていた。
大量の伏兵によって強固に守られた本陣、定軍山。
これと睨み合っていた夏侯淵の本陣がある、陽平関に、ついに総大将曹操が到着した。
「丞相ご到着! 丞相ご到着!」
門兵は叫び、太鼓やドラを鳴らさせて総員に曹操の出迎えをさせた。
まずは、大将の夏侯淵が搦め手門から曹操を出迎える。
「丞相、ご助力に感謝します」
ついでに実権はないが一応共同戦線を張るものとして、張魯も曹操に挨拶をする。
これ以外、彼の宗教王国が生き延びる術などなかった。
「感謝します」
「淵、我等が来たからにはもう安心だ。
そなたらの軍はどのくらい残っている?」
「八万です、丞相。じわじわと削られ続け、どうにか要害に立て篭もる事で膠着状態を保っています」
「援軍は十万だ。十八万の大軍は、昔の戦国時代でも滅多にお目にかかれない数だぞ!
全軍打って出るよう指示せよ。劉備軍を叩くぞ」
「はい、しかし丞相、劉備軍は山に強固な城を、短期間で築いております。
突破するのは非常に困難かと……」
「誰も突破とは言っておらん。籠城するなら囲んで包囲してやる」
「しかし丞相、非常に悪い知らせがございます」
「ん? 報告書になかったことか?」
「はい、つい数刻程前にわかったことです」
「なんだ?」
「あの城には確かに、劉備軍の首脳が集まっております。
しかし守る兵は一万に満たず、そのため食料を消費する速度は、十八万の我々の方が遥かに早いのです。
恐らく数ヶ月以上の包囲に耐える事でしょう。
周囲の小さな城にもそれぞれ多数の兵士がおり、攻略は至難です」
「問題ない。食料に関してこの漢の丞相がついている。何を心配することがある」
「心配ですな……」
荀攸は、曹操に対して臆面もなく口にした。
曹操は冷や汗をかいて振り返り、聞き直した。
「どういうことだ荀攸」
「まず、我々の補給路はどうしても険しい山道を使わざるをえません。
これに対し敵が妨害することはあまりにも容易で、補給路は脆弱と言わざるをえません」
「……その可能性は作戦立案の段階で協議して、問題なしと見たはずだろう!」
「丞相、敵はいきなり想像を超えた手を打ってきました。
この荀攸は一目で劉備軍の考えがわかりました。
敵はこの漢中という土地全てを味方につけ、『漢中』と一緒に我が軍と戦うつもりなのです」
「地の利か……」
「はい。敵の戦略はこうです。山城を我々に包囲させ、その間、無為に消費される食料を奇襲部隊が破棄、または略奪します。
こういうことを我々か奴らのどちらかが力尽きるまで繰り返し、いずれ撤退させる腹です」
荀攸は、敵の意図を瞬時に見破り、曹操に説明までしてみせた。
信じられない事だが、これが曹操の軍師の中で最強の実力を持つ荀攸たる所以だろう。
彼は更に曹操へ進言する。
「また、荊州の劉修軍と孫呉軍が戦っておりますが、もし奴が我々がまだ戦っている最中に孫呉軍を倒したら?
東と西、両方の軍の対処に追われる事になります。
我が叔父、荀文若の立てた戦略では、我々が十八万の大軍で劉備を素早く撃滅し、その後東へ兵を出し、ついに天下を平定することです。
しかし焦り過ぎました。私の見たところ、もうすでにその戦略は破綻を見ているかと」
「お前……そういうことは早く言えよ」
曹操は腰が抜け、自分が乗ってきた馬の横腹にもたれかかった。
「申し訳ありません、敵がまさかこの短期間で、ああも完璧に堅い城を築き上げるとは思わず……」
「で、負けるから撤退しろと?」
「ですがそれは、この荀攸が敵を破る術を見つけられなかったらのこと。
丞相、私の策を信じ、全てを賭けて頂けますか。
もし少しでも私の頭脳をお疑いになるのであれば、撤退なさるべきかと」
「ふむ……」
曹操は疲れたように息を吐いてから、荀攸に問い掛けるように言った。
「はあ、我らは何故戦うのであろうな」
「え……と、丞相?」
「我等は同じ漢の臣下であるはずだ。何故劉備は二十年以上もこの曹操に盾突く?
戦いがそんなに楽しいのか?」
自分で言っておきながら、曹操は不敵に笑い、鬼か悪魔にしか吐けないような恐ろしい台詞を口にした。
「ふふ、面白いに決まっているだろうが。
己の全存在を賭け、後世と現世の名声と富と権力を求め、俺達は戦う。
知恵を振り絞り、苦心に苦心を重ね、それぞれの頭の中の発想を現実で戦わす。
相手のことを愛した女よりも深く強く想い、探り、近づき、そして殺した時のえもいわれぬ喪失感と興奮!
これだから戦う事はやめられないのだ!」
曹操は、自分が数十年の長きにわたって身を投じてきた戦場に居続ける理由をついに言語化することに成功した。
「狂気の沙汰ほど面白い。山が高いほど登りがいがある。
そしてお前は、この曹操の期待という山脈をいくつも踏破してきた戦場の探求者だ。
全部引っくるめてお前に全部賭けだ! 荀攸、劉備に勝て!」
「はっ! この命に代えてでも!」
荀攸はひざまずいて手を拱き、曹操の全幅の信頼を受けた誇らしさから顔を緩めていた。
荀攸は結局言わなかった。荀イクが焦って戦略を誤ったのは、死期が近いことを悟り、故に曹操の天下統一を焦っているということを。
荀イクは212年に死去し、その前から病を患っていたとも言われる。
荀イクの願いはただ一つ。主君曹操の天下統一と、乱世に苦しむ民衆の安定的な平和。
確かに昔は賢くて強い曹操の方に狡猾にも取り入った荀イクだったが、彼の理想はただ、人々の平和である。
そういう意味では荀イクと劉秀は似ているかもしれない。
二人が忠誠を尽くすのはある意味、この中華の民衆にであって、誰か個人にではない。
そんな叔父の気高い志を荀攸はよく知っており、また、その病状についても誰よりよく知っているのが荀攸だった。
こんな大事な時に、丞相が病気を悟ったら動揺させるから、言わないでくれと言われている。
荀攸は口を閉ざしていた。そして、荀イクが長くないことを知りつつこの戦いに挑む。
彼の戦略を実現し、生きている間の天下統一を見せてやらねばならないからだ。
無茶とわかって、死ぬかも知れないとわかって荀攸はここへ足を運んだ。
曹操と劉備の長きにわたる因縁を断ち切り、戦乱を終わらせ、叔父に安心して逝ってもらうためだった。
「私もやきが回ったか。私情で兵を動かすとは……」
荀攸は誰にも聞こえないよう、小さく独り言を言った。
「丞相、それに夏侯将軍、軍議を開きましょう」
「うむ」
定軍山の戦いの最中、もう一つの大戦が東で起こっていた……。
その大戦も例によってイラストを使った図解があります。
このイラストの評判が聞いてみたい。わかりやすいんだろうか。




