光武帝、孔明を泣かす
「あの怪物張遼との戦。武者震いがします」
「ですな。ところで私の字は文円です。張遼の字は?」
「確か文遠だったかと。それがなにか?」
「あ、いえ……行きましょう」
発音が似ているというギャグのつもりだったのだが、趙雲が理解してくれなかったので劉秀もこのネタにはこだわらず、二人で軍を集め甲冑を身につけ、出陣した。
翌日、荊州北部から南下してやってきた張遼は、既に伝令の報告を受けて知っている通り、張飛のところへ悠々と闊歩していた。
張遼軍の数は五万、張飛は橋の前を二万ほどの軍で守っている。
迂回する道も当然あったが、張遼は劉秀の読み通り張飛に挑む意志を見せたのである。
ついに、両者が声の届く距離まで接近した。
馬に乗り、矛を天衝くがごとくそそり立たせている豪傑、張飛。
対するはそれよりいくぶんか年上の張遼。こちらも矛を携えている。
どちらも偉丈夫。静かな川のほとりで、鬼神と武神があいまみえていた。
まずは張飛が矛を張遼へ向け、挑発の口上をまくし立てた。
「我は張飛、字は翼徳。その方ら曹の賊軍を討伐せしはこの張飛だ!」
「それはこの俺がその場にいなかったからよ。
我が名は張遼。字は文遠。張飛よ、お主は関羽の義弟だったな。
大人しく退くというのなら、関羽に免じて命は取らぬ」
「笑わせおる。そのような大言壮語はこの俺に一騎討ちで勝ってから吠えるがいい!」
「よかろう。お前達、手を出すな。一合でけりをつける」
張遼は左腕を風車のようにぐるりと回し、手綱を持たずに両手で矛を持った。
張遼は出身地からして恐らく騎馬民族の出身。
鐙もなく手綱を離す事など造作もなかった。
「張飛よ、これ以上の言葉は不粋。ゆくぞ」
「こい張遼!」
馬はいななきを上げて走りだし、圧倒的な質量を持つ巨躯の騎士が金属音と火花をまき散らして激突した。
張遼の予言通りとはいかず、一合での決着はならなかった。
二人の英雄の激突は、余人の手が及ばぬ高い次元で拮抗を見せはじめた。
となると、これはもう若い張飛の方が一歩有利である。
唸るような風切り音を上げ、長大な矛をまるで爪楊枝のごとく振り回す張飛は張遼に比べるとかなり若いその体力にあかせて押しまくったのだ。
この作品では、張飛はまだこの時点で三十代の説をとる。
「もらった!」
張飛乾坤一擲の打ち下ろしが放たれた。
「ぐ!」
刃に矛がめり込み、危うく叩き折られかけた。
張遼ですら、もはや張飛の矛を受け止めるのが精一杯で、しかも受け止める度に馬は足跡を地面に刻んで下がってゆく。
屈辱的である。張遼の愛馬は度重なる衝撃にその細足を弱らせ、ついにその時は来た。
張遼の愛馬は膝を折り、張遼の体勢がぐらりと崩れたのである。
「終わりだ!」
張飛は叫んだが、この瞬間、断頭の矛を受け止める者がいた。
呂布の時代から張遼に付き従っていた精鋭騎兵である。
「余計なことをッ!」
と張遼は負け惜しみをいったが、助けられている事はどう見ても明らかだ。
全盛期にある張飛の武勇にはさしもの張遼も勝てなかった。
張飛は、張遼のかつての主である、あの呂布と一騎討ちして勝てはせずとも負けもしなかった男だ。
だが弁護すると、張遼の馬は遠征で疲れていて休む時間もなかった。
お互い万全の状態であるなら結果はわからない。
「将軍をお守りしろ!」
張遼に危機が迫るやいなや、張遼に忠誠を誓っている古参兵は凄まじい速度で凝集し、方陣をつくって張遼を固く守護した。
「フン、張遼。お前はともかく部下は骨があると見たぞ」
張飛は一旦距離を取り、虎のような鋭い眼光を放って張遼の軍を一睨みして言い放った。
張飛にしては賛辞である。彼が敵を珍しく褒めた。
と、その時副将らしき男が声の限りに叫んだ。
「張飛を殺せ! 何としても首をとるのだ!」
兵士達は奮いたった。張遼の復讐という面も、むろんある。
だが一方、張遼に勝つ寸前であった鬼神張飛を討ち取れば天下に名が轟く好機でもあったからだ。
その後の曹軍の反撃は凄まじいものがあった。
同じく精鋭であるはずの劉備軍でさえも太刀打ち出来ず、張遼軍は数に任せて押し始めた。
「へ……わかったぜ、劉修の魂胆が」
張飛は退却中にニヤリと笑い、潔く橋を渡り、敵に背を向けた。
張飛はイメージほど馬鹿ではない。
劉秀と趙雲の兵が、どっか行ってしまって一行に合流して来ないことに不信感を抱いていた。
だがここにきて意図を理解した。
ここより張飛の役目は、味方を逃がしつつ、殿を自ら務めて自然に偽装撤退することに変わった。
この後ろに控えているのは、付近の丘陵の影に隠れた伏兵である。
その伏兵はもちろん遠くに隠れているので、こっちへ援護に来るまで時間がかかる。
それまで時間を稼ぎ、同時に被害が少なくなるよう戦うのが張飛の困難な仕事だ。
「逃げろ能無しども、ここは張飛が引き受ける!」
張飛は、最も訓練された精鋭百騎とともに橋に仁王立ち。
張遼との再戦になだれ込んだ。
「賊よ刮目せい! 英雄張飛ここにあり!」
ここは総大将張遼に肉薄しており、敵軍は危なくて飛び道具を使えないので、一番安全である。
張飛は戦場では頭が切れる。けだし好判断だった。
もちろんここが安全というのは、張遼に真っ二つにされずに済む武勇を持っていればの話だが。
「どうしたどうした、さっきまでの威勢は!?」
張遼はじりじりと攻め寄せ、後退を続けさせる。
劉秀がこの戦況を見ていれば、最高だぜ張飛の旦那と叫んだ事だろう。
張遼は一度張飛に負けかけてヒートアップしているのだ。
そこへ再戦となり、張飛が二倍の敵に悪戦苦闘しながら張遼と戦い、後退を続けている。
張遼が興奮し、張飛との血沸き肉躍る乱打戦に意識を集中させ過ぎてしまっても無理なかった。
それを引き出したのは張飛の一番最初の奮戦に他ならない。
張飛は完璧に役目を果たした。
「クソォ……この勝負一勝一敗だな!」
張飛は渾身の力を込め、張遼を馬ごとはじき飛ばすやいなや尻をまくって遁走した。
この戦いで最も重要なのは時間だ。劉秀、趙雲らの伏兵は数キロ先の丘の影に身を隠している。
それで、偵察騎兵を出して様子を伺っているわけだが、当然戦場へ到着するにはタイムラグがある。
この溝を埋め、奮戦するのが張飛に与えられた困難な役目だ。
劉秀は、決して張飛を侮って、負けることを前提に先鋒を務めさせたのではない。
むしろ逆で、張飛は戦場では頭も冴えるし武勇も天下に轟くと信頼して、任せたのだ。
そして張飛は期待に応えた。
「んなわけあるか、俺の勝ちだ! 突撃せよ!」
張遼が叫び、総崩れとなっている劉備軍目掛けて曹操軍が突撃をかけた。
十分に時間を稼ぎ、犠牲少なく偽装撤退を成功させた張飛。
その奮闘に応え、趙雲、劉秀の伏兵が丘陵の向こうを大きく回り込んでやってきた。
「敵襲ーッ! 将軍、左右から伏兵です。その数恐らく一万近く!」
「見ればわかる! 撤退するぞ!」
だが橋の幅は迅速に全軍逃げ切るにはちと狭く、最も深く突出していた総大将張遼とその近侍の精鋭部隊は孤立した。
張遼から見て右から来た趙雲隊の武者働きにより、敵軍が半分に分断され、劉秀隊がその反対側からやって来て側面を包囲した。
この時逃げた曹軍はおよそ一万。残り四万は包囲の輪の中にいた。
上手く張遼の心理すら操って深く引きずり込んだ張飛の手柄だった。
「この張遼が包囲だと!? ナメるな!
包囲しているということは、壁は薄いということだ!」
張遼はすぐさま最も精鋭であるわずか数十騎に命を下した。
「これより包囲を突破する。ただ前へ! 前へ!
目の前すべて、尽く切り捨てろ! 突撃!」
張遼と、古参の老練兵の突撃力は凄まじいものがある。
包囲の中にある味方の兵すら蹴散らす勢いで駆け出した三十の騎兵。
が、それは劉秀とて読んでいた事だった。
「そうくると思った。歩兵、前へ」
長い槍と盾を構えた重装兵が防御体勢をしき、張遼の騎兵突撃を狡猾に阻んだ。
防御体勢をとった歩兵を騎兵は貫けない、というのは歴史が何度も示してきた事実だ。
槍に怯え、馬の足がとまる。ここへ劉備軍が殺到した。
馬の速度のない、止まった騎兵など恐るるに足りない。
「この、離れんか馬鹿どもが!」
張遼は包囲にさらされ、ぎゅうぎゅう詰めになった隊列の中で止まった馬に乗りながら、あろうことか馬の力を借りずに腕の力だけで劉備軍をなぎ払い出した。
「嘘だろこいつ。化けもんか。呉漢みたいだな、懐かしいな」
劉秀は張遼に恐れおののく兵の中、全く余裕で笑っていた。
確かに多少犠牲は出るが、もはや勝ちは揺るがないからだ。
それに、張遼ぐらいなら自分でも何とかなると思っていたからでもある。
劉秀もまた、人間離れした武力を持っている。
「もっと間隔を詰めろ、前進しろ。騎兵の足を奪い、力を削げよー」
包囲は更に狭まり、いよいよ張遼は窮地に立たされた。
もはや勝ち目はない。逃げる事すらままならない。
しかしここで、思いがけない援軍が張遼にやって来た。
「張遼! この趙雲の手柄となれ!」
趙雲将軍が、まさかまさか、包囲の中に割って入ったのだ。
張遼は歯を剥いて笑い、きびすを返した。
「首になるのは貴様だ!」
「遼来、遼来!」
張遼の供をする忠臣とともに、趙雲が入ってきて開いたスペースを走って張遼は趙雲と激突した。
趙雲はさすがに張飛、張遼に比べると武勇で劣る。
また、窮地に追い込まれた張遼とその部下の興奮度は限界を超えて沸騰していた。
手負いの獣を相手取り、趙雲はしかも一対一の勝負をさせてもらえなかったため、瞬く間に落馬し、負傷した。
趙雲が開けた隙間を縫って張遼は強引に包囲を突破し、北へと逃げ去った。
とはいえ、それ以外の曹操軍は包囲を受けて一万が投降。
二万が死亡し、劉備軍三万、張遼軍五万という戦力差でありながら劉備軍が勝った。
「やれやれ。もう少しで敵将を討ち取れたんだが……」
劉秀は呆れたように言い、とりあえず趙雲を捜し出して介抱してやることにした。
「文円……殿。すまぬ。私が功を焦ったばかりに……」
「いや、かえってよかったと言えよう。
敵将張遼が、こんなに面白い奴だと知ってれば策を弄したりはしなかった。
それより将軍、お怪我の方は?」
この戦が、次の戦で非常に、とても非常に大事な伏線になる。
というか、劉秀がその頭脳で構築した戦争計画によって、この戦いが伏線となったのだ。
伏線がどういうものか、どういう結果をもたらすことは、その時に説明があるだろう。
「大事ない。敵は逃げることだけ考えていたようなので」
「それはよかった。おい、将軍をお運びしろ!」
劉秀は指示を出し、馬にもう一度乗った。
そして兵に囲まれ、得意げに一騎討ちの仔細を話している張飛のところへ向かう。
「さしもの張遼も、俺に手も足も出なかった!
俺の矛の重さが馬の足に来ていたと見え、馬が体勢を崩したのだ!
ここだ、と俺は思い矛を振りかざしたが、邪魔が入ったんだなこれが……」
「将軍、天下に轟く武勇、感激致しました」
と言いながら近寄って来たのは劉秀だった。
「おう劉修、どうだった俺の演技は。俺にだってこのくらい出来るぞ!」
「お見それ致しました。将軍を囮に使うような真似を致し、まこと申し訳ございません」
劉秀は下馬して拱手し頭を下げたが、張飛は鷹揚に笑う。
勝ち戦だし、一騎討ちでも勝ったのでご機嫌なのだ。
「いや、偽装撤退は戦の常道。何も謝る事はない。
さあ、一刻も早く城に戻らねばな! 兄貴達も一万で城を守っている。
万が一もう敵軍が寄せていたら一大事だ!」
「いや、それはないでしょう。それより事は急を要します、将軍」
「なに?」
「逃げた張遼の軍は恐らく一万から二万。曹操はこの敗戦を知るやどうします?
恐らく十万くらい出して来る可能性があります。何としても追わねばなりません。
水軍が来て、さらに十万の軍も来たとなれば孫権に頼るしか道はありません!」
「そうだな……おい劉修、作戦を言え」
「わかりました。その前に捕虜をどうにかしましょう」
劉秀は後ろを向き直り、部下に冷酷な命令をくだした。
「捕虜には帰順を促すがよい。従わねば切れ」
捕虜は外交上使えるカードではあるが、劉秀の命令ならば仕方がない。
劉秀はかつて、捕虜の中に丸腰で入り、親睦を深めて全員を仲間にした事があるという。
それでも張遼を慕う多くの忠臣が頑として仲間になってくれなかった。
降伏か死か、質問が行われ、一刻後には七千が劉備軍に加わり三千が潔く死んだ。
死んだもののほとんどが、張遼と苦楽を共にしてきた者達。
忠誠心は人一倍だというわけだ。
血を見て嫌そうな顔をしてから、劉秀は張飛にこう続ける。
「まず、子龍将軍の代役が必要です」
「なら甘寧を使おう。丁度いい機会だしな」
張飛がその名を知っているのが意外だったが、ともかく劉秀は甘寧という男を部下に呼び出させた。
そして会ってみると、甘寧はいかにも戦に向いていそうな雰囲気があり、使えそうだと判断した。
甘寧の目は昆虫のように心を閉ざして何も見せようとしない。
そのような男こそ戦に向いているという持論を劉秀は持っていたのだった。
甘寧はまごうことなき、人殺しの才能をもつ男だ。
さっき話に出た呉漢が、劉秀の部下の中では甘寧に近いか。
「お呼びでしょうか。将軍」
「甘寧、趙雲が軽傷を負った。骨が折れているかもしれん。
名の知れたお主を使う時が来た。副将を拝命せよ」
「は、ありがたき幸せ」
「騎兵を飛ばして主君に知らせましょう。時間がない」
そんなことが起きていると知った曹操は、神妙な顔つきで自分の目の前にひざまずいている張遼に言った。
「張遼、一応聞くが本当に三万なのだな? 三十万の間違いじゃないな、本当だな?」
「本当です。この張遼は五万を率いながら三万に……敗れました!
生き残った兵はわずか二万足らず。精鋭の多くが私を守って討ち死に致しました……」
「なるほど。荀攸、どう見る?」
荀攸は、戦略に誤りがあったことが露呈し、曹操に切られるのではと内心恐れおののきながらも声を震わせて答えた。
「劉備軍が……孫権と結んでいるのかどうか疑っておりました。
張遼殿の負けは決して無意味ではありません。
むしろ吉報をもたらしてくれたのです。劉備がこれほど抵抗するのなら、孫劉連盟はないと見てよいかと……」
「私もそう思っていたところだ。しかし孔明の策は見事である。
話に聞けば、張遼と張飛の一騎討ちをさせている間に別働隊が忍び寄り、策を持ってこれを分断し包囲したと。
単純だが効を奏した。ただ、軍略で覆しうるのはせいぜい二倍の兵までだ。
張遼、投降した劉キの軍三万、包囲軍五万、そしてそなたの軍二万を合算した十万の軍を編成する。
三日後、これを持って劉備を攻めよ。総大将張遼、副将は曹仁とする」
「丞相! 海よりも深いご恩でございます! 全身全霊を賭けて孔明の首をとります!」
張遼は曹操の寛大さに感じ入り、深々と頭を下げた。
曹操は甘い。自分が認めた男には多少の失敗など気にはしない男だった。
曹操は張遼に十万の兵を任せて出陣させたが、その数時間前、孔明も同じ報告を受けていた。
書簡を一瞥するなり孔明は天を仰ぎ、机に書簡を投げ捨てた。
「おお劉修よ、何と言う事をしてくれたのだ!
曹操は間違いなくすぐに大軍を送り込んで来るぞ!
これでは孫軍はとても間に合わん。戦には、勝ってはならぬ時があるのだ!」
孔明は歎き悲しみ、それから数刻の間、孫権に呼び出されるまでは誰とも会わずに与えられた自室にこもっていた。




