733.ルーシーさんの日誌
こんなときではあるが、だからこそ、いつも通りにしなければいけないと思う。
人間なんて、不安定なものだ。
しかし不安定な人は、安定している人が支えてあげれば良い。
逆にいつ、自分が不安定になるかなんて分からない。
だからこそ、他人を支えるのは自分のためでもあるのだ。
『情けは人の為ならず。
巡り巡って己がため』
……つまりはそう言うことだ。
人を思いやることが打算的にも思えてしまうが、それはそれで仕方が無い。
……ただ、その上で。
支えてあげたい人のことは、存分に支えてあげれば良い。
見返りが無くても良いのであれば、その人の勝手にやれば良いのだ。
最低限はあるだろうが、最大限なんて無い。
人の『情け』なんて言うものは、きっとそう言うものだと私は考えている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――それでは、出店計画は引き続き進行すると言うことで」
「はい、承知しました。
それにしてもルーシーさん。出すお店がことごとく当たっていて、凄いですね!」
ポエール商会の客室で、ポエールさんと雑談をする。
本職のメイドでは、こんな場所に出入りすることは出来なかっただろう。
しかし私はいくつかの店舗を経営し、全て軌道に乗せている。
ありがたいことに将来も有望視されていて、そのおかげで大商人のポエールさんともやり取りが出来ているのだ。
まさか、趣味の延長で始めたお店がこんなにも上手くいくだなんて――
……ただ、私の本分はメイド。
アイナ様のお屋敷をクビになったら考えてしまうが、それまではずっとメイドを続けようと思っている。
「ポエールさんの支援のおかげです。
本当にありがたく思っています」
「ははは、それは何よりです!
……このあとは、もうお屋敷にお戻りですか?」
「はい。仕事が残っていますので」
ケーキ屋やパン屋の仕事をするときは、お休みは丸一日でもらうようにしている。
しかし今は、そう言っていられる場合でも無い。
正直、3時間だけ抜けるのですら気を遣ってしまう。
もちろん今日だって、休憩時間を中心にして抜け出してきたわけだけど……。
「ところで……。
アイナさんは、大丈夫そうでしたか……?
私が行っても、お会いしてくれなくて……」
ポエールさんは悲しそうに言うが、それは彼だけでは無い。
アイナ様は今、基本的にはエミリアさんとしか会っていないのだ。
……お屋敷の前まで、心配して来る人も多い。
特にあの、王都のお屋敷でも日参していた……テレーゼさん。
今回も毎日、心配してちょくちょくと来ているようだ。
……それこそ1日に、2回も3回も。
「何かあれば、私から連絡をしますので……。
今は少し、時間を頂けると……」
「まぁ、そうですよね……。
何せあのグリゼルダ様が……、ですからね……」
「お強く、聡明で、美しい方でした。
……お酒を嗜まれるのも、また素敵で」
私の言葉に、ポエールさんの目からは涙が溢れてきた。
やはりこの街の初期から関わっているメンバー……と言うのもあるだろう。
彼の心の中では、たくさんの思い出が駆け巡っているに違いない。
「う……っ。
……す、すいません。最近、涙腺が弱くて……」
「いえ、無理はなさらないでください。
私もこう見えて、悲しい思いでいっぱいですから……」
……しかし私たちメイドは、その悲しみから早く立ち直らなければいけない。
その気持ちを麻痺させてでも、立ち直らなくてはいけないのだ。
悲しみに暮れるのは、みんなが立ち直ったあとで良い。
そうしたら私たちは、ゆっくりと悲しみを癒していくことにしよう。
……だから、残酷ではあるけど。
今、悲しむのはアイナ様にお任せしよう。
まわりの私たちは、それぞれ出来ることをやっていかなくてはいけないのだ。
――……出来ること。
私はもちろん、メイドとしてアイナ様を支えていく。
しかしそれ以外にも、出来ることは――
「……さて。
契約書の更新も終わりましたし、今日はこの辺にしておきましょう。
他には大丈夫でしょうか」
……大丈夫、だろうか。
ポエールさんも、やはり悲しみに振れてしまっている。
いくら大商人と言えども、これでは……。
もしかしたら、何か穴があるかもしれない。
何となく私は、そんな気がしてしまった。
「……いえ。
もう少しだけ、時間を頂いてもよろしいですか?
特に何があるというわけでは無いのですが……」
「そ、そうですか……?
私も正直、仕事が手に付かなくて……。
兄のピエールなら、こういうときも頼りになるのですが……。
私はどうにも……はい」
そうは言うが、ポエールさんだって大したものだ。
ピエールさんとは違い、まわりには突出したアドバイザーのような人材がいるわけでも無い。
むしろその立ち位置は、アイナ様が収まっているような感じになっているのだけど……。
引き続き、私はポエールさんと雑談をすることにした。
さすがに話題が豊富で、話しているだけでもこちらの肥になっていく。
普段であれば、彼はいつも忙しい。
こんな風に時間を取ってもらうなんて、なかなか難しい話なのだ。
「――……とても、ためになりました。
本当、時間が経つのが速いですね……」
「そ、そうですか? でも、少し疲れてしまいましたね。
今朝は早く起きてしまって、そのあと全然寝付けなかったんですよ……」
「そうですね。気苦労もありますでしょうし……」
「……はい。
あとは何だか、寒くなってしまって。
この季節にしては、今朝は寒くなかったですか?」
今は春。
寒くなる日は普通にあるけど、それにしては確かに違和感のある寒さだった。
……違和感のある寒さ?
それは何かを、物語っているかのよう……。
ふと、アイナ様が王都からいなくなった頃を思い出した。
あのときはしばらく、雨が止まなかったんだっけ……?。
そしてそのまま、大凶作を起こすほどの寒い日々が――
「……光竜王様の、加護……」
「え?」
私のふと零した言葉に、ポエールさんが聞き返してくる。
「アイナ様から聞いたことがあります。
以前の、この大陸を襲った気候変動のこと……。
……光竜王様の加護が、切れたせいだ……って」
「ああ、私も聞いたことがありますね。
それが何か――」
……そこまで言うと、ポエールさんははっと気が付いた。
何を隠そう、グリゼルダ様こそが光竜王様なのだ。
直接聞いた訳では無い。
しかしダリルニア王国の一件で、それは公然の秘密になっていて――
「……もしかして、また……おかしな気候になってしまう……?」
「その可能性は高いかと……。
だから早目に、対策を練っておくと良いかもしれません……」
「確かに……!
こうはしていられない!! ルーシーさん、今日はこれで失礼します!!」
そう言うと、ポエールさんは大慌てで部屋から出て行ってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
お屋敷の厨房に戻ると、キャスリーンさんが夕食の仕込みを始めていた。
「あ、ルーシーさん……。
……お帰りなさい」
さすがに彼女も、元気が無い。
何せメイドの中で、アイナ様のことを最も信奉しているのだから。
「ごめんなさい、私もすぐに始めますから」
「あ……。まだ、休憩の時間ですので。
私はちょっと……手持ち無沙汰で、やっているだけですから……」
……そう言うキャスリーンさんの手元は、やはり危ない。
包丁と言っても立派な刃物。
それを扱うとき、他のことに気を取られていてはいけないのだ。
「……大丈夫。
私も、手を動かしたいところですから」
「そ、そうですか……?
それなら一緒に、お願いします……」
――ひとまず今は、私もメイドの仕事に戻っておこう。
考えたいことはたくさんあるけど、それはベッドの中まで置いておこう。
悲しみはアイナ様。
諸般の対策はポエールさん。
……やるべきことは、やるべき人がやれば良い。
だから私は、メイドの仕事をこなしていこう。




