732.ミュリエルさんの覚書
「参った……」
私、ミュリエルは絶望していた。
この世界には上手くいかないことなんてたくさんあるものだけど――
……それにしても、これは酷すぎる。
私が何か、悪いことでもしたのだろうか。
真面目に毎日、頑張っているのに。
仕事も勉強も、最善を尽くしているつもりなのに。
だから神様。
今日くらいはどうか、本当にお助けください……。
「……ミュリエルさん?
難しい顔をして、どうしたんですか……?」
「あ、ルーシーさん」
メイドの中でも、安定感のあるルーシーさん。
本気で困ったときにはクラリスさんだが、日頃の何気ない悩みはルーシーさんの方に行ってしまう。
だからこそ、彼女も私の悩みを察して声を掛けてくれたのだろう。
「……まぁ、お鍋の前で悩んでいるようですから……?
お料理のことだとは思うんですけど……」
「そ、その通りなんです……!
ちょっと味見、してもらえませんか?」
「え゛」
私の言葉を受けて、途端に声を詰まらせるルーシーさん。
自覚はあるのだが、私はお料理が下手だ。
いやむしろ、下手に作るのが上手いのだ。
……何を言っているのか、自分でもよく分からなくなってくる。
でもそれが事実なのだから、これはもう仕方が無いことだろう。
「今回のは、美味しく出来ましたから!」
私の説得に、ルーシーさんは随分と考えてから、ようやく折れてくれた。
考えている間、あちこちを移動しているかと思えば……、彼女はいつの間にか、水の入ったコップを手に持っていた。
むぅ……。
いや、気持ちは分かる。でも本人の前で、ぐぬぬ……。
「……ひとくちだけ、ですからね?」
その念押しも、私には追加のダメージになってしまう。
ただ、今日の私は違うのだ。
だからこそ、ずっと悩んでしまっているのだけど――
「それじゃお小皿に取って……。
はい、どうぞ!!」
私は熱々のスープをルーシーさんに渡した。
ほかほかと上がる湯気が、何とも食欲をそそる。
……そそるんだってば!
「はぁ……。
色は綺麗だし、香りもなかなかですね……」
「マーガレットさんに、私のとっておきの食材を買ってきてもらったんです。
もし美味しく出来たら、これからも使っていきたいかも……!」
「なるほど……?
それでは……、ひとくちだけ……」
「お願いします!」
ルーシーさんは、私のスープを恐る恐る恐る恐る、口に運んだ。
……そのスピードの遅さに、私はやきもきしてしまう。
「――ッ!!!!?」
スープの味がようやく確認できたのか、ルーシーさんは驚いた顔で私を見てきた。
「ど、どうですか……?」
「美味しい……っ!
え? これ、ミュリエルさんが作ったんですか……?」
「はい、そうなんです……」
「信じられない……。
少し変わった味はしますが……、こういう個性でしょうし……。
これ、メインのメニューに加えても良いんじゃないかしら……」
「……はぁ。
そうですよね……」
やっぱり、美味しく出来てしまったのか……。
おかしいなぁ……。
「……それで、何を落胆しているんですか?
今まで散々、お料理を頑張ってきたじゃないですか……」
「そうなんですけど……!
でも、何回作っても美味しくなっちゃうんですよ……!!」
「え?
……むしろそれで、何を悩むんですか……?」
私だって、美味しく作ることが出来るのは嬉しいことだ。
しかし今回は、残念ながら少し事情が違うのだ。
「うぅ……。
これ、内緒の話ですよ……?」
「はいはい、もちろんですよ」
ルーシーさんはまるでお姉さんのように、仕方が無さそうに先を促してくれた。
こういうところ、相談に乗ってもらいやすいひとつの理由なんだよね。
「……アイナ様、あまり食べていないじゃないですか」
「そうですね。何せグリゼルダ様が――
……でも、スープは全部飲んでくれていますよね?」
栄養を詰め込んだ、このお屋敷自慢の特製スープ。
食欲の無いときには味の調整をするものの、それでもとっても美味しい逸品なのだ。
「……実はですね。
あれ、エミリアさんが代わりに……、片付けているみたいなんです……」
「え? 何で……?」
「みんなに心配を掛けないようにって、アイナ様がお願いしているそうです……。
だから、アイナ様は全然飲んでくれていないわけで……」
「……呆れた。
今、他人の心配をしている場合ですか……」
確かにそれも、その通りだ。
こちらとしては多少の気遣いよりも、大きな心配を掛けて欲しかった。
……ある意味、アイナ様の心遣いは『残酷な優しさ』なのだ。
「それで、ですね……。
エミリアさんが私に、スープを依頼してきたんです……」
「え? ……ちょっと分からないです」
私の言葉に、ルーシーさんは真顔で聞いてきた。
いや、真面目な話をしているから真顔で良いんだけど、それにしても表情をこうも一瞬で変えられると……。
「……美味しいスープでダメなら、私のスープを飲ませたい……って。
以前も、私のスープで元気になってもらったことがあるから……」
「ダリルニア王国から戻ってこられたとき……ですよね?
そう言えば、アイナ様も言っていましたね……。
『強引に目覚めさせられたみたい』って」
「そうなんですよ~……」
ふと、『元気になった』のとは違うような気がしてきた。
でもまぁ、それはそれだ。今はそんなこと、どうでも良い。
「それで、いつもの不味……もとい、ミュリエルさんのスープを作りたかったんですね」
「はい……。
でも今回に限って、全部上手くいってしまって……」
私のお料理が美味しくなるのは嬉しいことだけど、それは次回からにしてもらいたい。
今は私の、今までの味が求められているのだから。
「うーん……。
もしかして、わざと不味……もとい、いつもの味を目指しているのが悪いんじゃないかしら……。
いつも通り、美味しくなるように作ってみては?」
ルーシーさんの助言に、私ははっとさせられてしまった。
確かに、いつもと明確に違うところはそれだ。
あの味は私の意図しないところで生まれるのだから、それこそ私もいつも通り作らなければ――
「……なるほど!
分かりました、ルーシーさん! いつも通り、やってみます!!」
「が、頑張ってくださいね……」
ルーシーさんの優しい励ましを受けて、私は再びスープ作りに臨んでいくのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――それじゃ、アイナさんに飲んでもらいますね。
ありがとうございました」
「いえ、よろしくお願いします」
エミリアさんは私のスープを持って、アイナ様の部屋に入って行った。
……上手く作れただろうか。
いや、それはちょっと違うか。
……上手く下手に、作れただろうか。
うぅ、自分で言ってて虚しくなってくる……。
「ミュリエルさん、無茶なことをお願いしてすいませんでした……」
アイナ様の部屋の前には、ルークさんがずっと待機している。
エミリアさんもルークさんも、顔には随分と疲れが出ているようだ。
……みんな、アイナ様のことが好きなのだ。
私たちメイドだって、それは誰にも負けていないつもりだけど……でも、この二人にはきっと負けてしまうのだろう。
「お役に立てることがあれば、何でも結構ですので……。
お気軽にご用命くださいね」
「ありがとうございます……」
「それでは、失礼いたします」
――本来であれば、私ももっと、この部屋の前にいたかった。
仕事ばかりではなく、純粋にアイナ様のことを心配したかった。
でも、今は違う。そうじゃない。
……まずはこのお屋敷の生活を守る。
それこそが、メイドのみんなで共有した、ひとつの思いなのだ。
廊下を歩いて階段を下りる前。
私は歩みを止めて、自分に力を込めた。
……頑張ろう。
頑張って頑張って、また以前のお屋敷を取り戻していこう。
私の気持ちを後押しするように、遠くの方から声が聞こえてきた気がした。
「……不味うぅっ!!」
――……ってね。




