696.逃げ
ヒマリさんは私に斬られた脇腹に手を当てながら、しりもちを付いたまま細かく震えていた。
……ここには私とヒマリさんしかいない。
そしてそんな状況の中、圧倒的な力の差を見せ付けてあげたのだ。
このまま、早々に諦めてくれれば良いんだけど――
「……うぅっ。
ゆ、許さない! あんたなんて許してあげないんだからっ!!」
何とか立ち上がって、私のことを睨み付けてくるヒマリさん。
「まだ戦う気?」
「こんな怪我だけじゃ、私は降参なんてしないもんっ!
私は神様からもらった力があるんだから――」
そう言いながら、ヒマリさんは2本目の短剣を抜き放った。
咄嗟に鑑定をしてみるが、特に超越的な要素は無いようだった。
「……その短剣が、もらった力?」
「ふんっ! 見て驚きなさいっ!!」
その言葉に従うように、短剣の刀身には薄黄色のオーラが突然纏わり付いた。
陽炎のような、心がざわめくようなその輝きは――
「虚無属性の魔法……!?」
かつてオティーリエさんが使っていた魔法。
しかしあのとき見たものよりも、危険な感じがひしひしと伝わってくる。
「そんなことまで知っているのね。
でもこれ、魔法じゃないの。どこかの王様がまがい物の魔法を使っていたみたいだけど――」
「まがい物……」
「――こっちが本家本元!!
このユニークスキル、『虚構消滅』こそがねっ!!」
そう言うや、ヒマリさんは真っすぐ私に突っ込んできた。
もちろん短剣の刃はこちらを向いている。
これを受けてはきっといけない――
「よいしょっと」
「あれっ」
……ただまぁ、そうは言ってもヒマリさんの動きは見切っているのだ。
危ない刃なのであれば、それを受けないようにするだけで終わってしまう。
「右利き? それじゃ、ごめんね」
私はすっぱりと、ヒマリさんの右腕を斬り付けた。
あまり出血しないように斬りはしたけど、それでもかなりの痛みにはなるだろう。
「……うえぇ……、い、痛いよぅ……。
あんた、錬金術師なんでしょ……? この怪我、治してよぉ……」
「えぇ……。
それじゃ治してあげるからさ、この場所から出してくれない?」
「……あ。
そっか、そうだよね……! ここから、私だけ逃げちゃえば良いんだ!!」
「ちょっ」
「あんたはこのまま、この部屋と消えちゃいな!!
あははっ、ばいばーいっ!!」
突然元気になったヒマリさんは、そのまま姿を消してしまった。
パッと消えるというよりも、凄いスピードでフェードアウトしていくような感じで……。
……そして残されたのは、当然のように私がひとり。
この空間には何も無い。
ただ真っ白な、広い広い空間があるだけ――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――というわけで、助けて英知さん!」
「アイナさん、お久し振りです」
とりあえず、困ったときには英知さんだ。
少し不安だったものの、英知の世界には特に問題なく行くことが出来た。
「数か月ぶりですね!
雑談でもしていきたいところですが、今ちょっと困ったことになっていまして」
「『迷いの部屋』のことですよね?」
「はい! さすが英知さん!
閉じ込められちゃっているんですけど、どうにか出ることって出来ませんか?」
「もちろん、出来ますよ。
少し計算させてください」
英知さんはそう言うと、私の頭に手を乗せてきた。
姿は以前と同じ、また見知らぬ錬金術師風の女の子。
……少し年下にも見えるかな?
「何だか不思議な気分ですねぇ……」
「ふふっ。
……さて、計算は完了しました。
元の場所に戻ったら、そのまま前に22歩、身体の向きを右に45度変えて、さらに16歩進んでください」
「前に22歩、45度右になって、16歩……。
22、右45、16……。
……はい、覚えました!」
「そうしたら真上に向けて、アルケミカ・クラッグバーストを放ってください」
「え? 何で急にそんな?」
「『迷いの部屋』の空間は、あくまでも人造的な存在なんです。
簡単に言うと、必ず継ぎ目が出来てしまうのです」
「継ぎ目……」
「あまり難しく考えなくても問題ありません。
服を作るときに、どうしても縫い目が出来てしまう……くらいの、簡単なお話ですので」
「ふむ、なるほど……。
その継ぎ目に思い切り強い力を撃ち込んで、空間を壊してしまう――……と」
「はい、その通りです。
もし場所が分からなくなったら、また聞きにきてください」
「分かりました! それではまたっ!
22、右45、16……!!」
「はい、よく出来ましたー」
名残惜しくはあるが、私はそのまま拍手をくれる英知さんとお別れをした。
いやー、英知さんは本当に頼りになる存在だよね!
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
元の場所に戻って、英知さんの案内通りに場所を移動する。
そこは他の場所と全く同様、特に何もないところだった。
しかし私としては、不安になることは全く無い。
それだけ、英知さんへの信頼は厚いものになっているのだ。
「それじゃ早速――
……アルケミカ・クラッグバースト」
――ズガアアアアアアアァンッ!!!!!!
いつも通りの轟音。
その余韻の中、周囲の景色が歪むように消えていき――
……そして、お屋敷の廊下の景色が見えてきた。
「……ん? あれ?」
「アイナ様!?」
「アイナさんっ!!」
私がつい声を出してしまと、ルークとエミリアさんが慌てたように話し掛けてきた。
さっきまでは団員が1人倒れていただけなのに、今は6人ほどが集まっているようだ。
「みんな、どうしたの?」
「それはこちらの台詞です!
アイナ様は今までどちらに!?」
「あー……。ちょっと襲撃されて、別の場所に飛ばされていたと言うか……。
そうだ! 誰か、赤髪のツインテールの子、見なかった?」
「その人がアイナさんを襲ったんですか?
私たちは何も見ていませんけど、それじゃこれは……その子のものでしょうか」
エミリアさんが指差す先――
長く延びる廊下には、端の窓に向かって血が点々と付けられていた。
その窓も開いているところから、ヒマリさんは外に逃げたものだと推測される。
……来たときと同じく、ユニークスキルで帰れば良かったのに。
もしかしたら、私を閉じ込めていたから出来なかったとか?
「まずはこの血の主を見つけたいかな。
結構危険な力を持っているから、確実に確保しておかないと」
「分かりました。
よし、第三騎士団の団員を可能な限り動員しろ!!
今晩中に、必ず捕まえるぞ!!」
「「「はいっ」」」
「私も、はいっ!」
第三騎士団の団員たちと共に、エミリアさんの返事も聞こえてくる。
逃げる相手を追うというのも厄介な話だけど、ここは絶対に捕まえておかないとね……!




