194.不思議の国のアイナさん①
――頬をくすぐる風。草の匂い。暖かな陽射し。
どこまでも重く、気怠く、陰鬱とした時間を、かなり長い間、過ごしてきた気がする。
しかしそれもようやく終わり、私の前には明るい世界が広がっていた――
「……はて?」
あれ? 私、こんなところで何をしているんだっけ?
眼下に広がるのは豊かな緑。どうやら私は、どこかの丘にいるようだった。
なんだか以前も、こんなことがあったような……?
よーし、落ち着こう。まずは素数でも数えて落ち着くのだ。
えぇっと、2……3……5……7……11……13……17……19……23……29……飽きた!
せっかく素数を数えたのに、何だかあまり落ち着かない気がするのは何故だろう。
はてさて、それにしてもここはどこなのかな。
周囲はなんとものどかな、しかし誰もいない――そんな場所。
家なんてあろうはずもない、そんな空気をどこか醸し出している。
「むー、夜になったらどうしよう……。もしかして野宿?
いやいや、それよりもご飯とかはどうするの」
そういえば何だかお腹が空いているようにも感じられる。
空いているかと言われれば微妙なのだけど、でもどこか空いているという少し気持ち悪い感覚。
あれこれと考えていると、近くの茂みから突然ガサッという音がして、そこから白ウサギが飛び出してきた。
「あばばばば! あーばばば!!」
……は?
え? なにあれ、最近のウサギってあんな鳴き方するの?
……いや、ウサギってそもそもどう鳴いたっけ?
小学校の頃、学校にウサギ小屋はあったんだけど――そういう委員会には入ってなかったし、よく覚えてないんだよね。
「それにしても『あばば』は無いでしょう……」
呟いている間にも、白ウサギはどこかに向かって走っていく。
どこか冷めた笑いを自覚しながら――特にすることも無いので、私はその白ウサギを追い掛けてみることにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
白ウサギはしばらく走ると、飛び出してきたところとは別の茂みに入っていった。
気配を察しながら、茂みの中に何もいなさそうなことを確認してから覗くとそこには――
「マンホール?」
――街中でよく見かける、普通の金属製のマンホールを見つけることができた。
しかしマンホールっていうのも、何だかずいぶん久し振りに見たような気がするなぁ……。
周囲にはそれ以外は何もなく、その茂み自体もそんなに大きいものではなかった。
「んー。あの白ウサギ、ここに入っていったのかな?」
マンホールの中に白ウサギかぁ……。
ネズミなら『まさに!』っていう感じでイメージしやすいんだけど、白ウサギがこんなところに入ったらすぐに汚れちゃうよね。
ここに入ったら、私の服も汚れちゃうだろうし――
……と思ったところで、私は自分の姿にようやく気が付いた。
「うわぁ! これ、アリスの服じゃん!?」
『アリスの服』――その言葉が口をついて出てきたとき、そこで突然、いろいろなことを思い出すことができた。
私の名前はアイナ・バートランド・クリスティア。今は王都ヴェセルブルクに暮らす、S-ランクの錬金術師!
その前――転生前は、日本に暮らす神原愛奈! ……うんうん、そうそう! しっかり思い出した!!
今(何故か)着ている服は、少し前に白兎堂という服屋で作った可愛らしい服。
まさかこれがきっかけで思い出すことができるとは……。
「……それで、ここはどこなのかな?」
アリスと言えば『不思議の国』である。
もしかして、ここがそれ? さっき白ウサギも走っていったし――
いやいや、待て待て。そもそも私、今まで何をしていたっけ?
――確か……そうそう、神器の素材を調べようとしていたんだよね!?
そして気が付けばこんなところにいるわけで。
「……そうか、分かった! これは夢だ!」
そう思いながら頬をつねる。
痛い!
夢の中で頬をつねって、それが夢かどうかを確認する――
これは割と古典的な方法なんだけど、以前これを夢の中でやったときはしっかり痛かった記憶がある。
……はい、一応やってみただけです。ごめんなさい。
さて、それにしても意識がここまではっきりしていて、感覚もしっかりあるとなると、これはずいぶんリアルな夢ということになる。
夢の中で夢だと気付く夢――明晰夢っていうやつもあるんだけど、これって少しでも意識しちゃうと一気に目が覚めちゃうんだよね。
私も何回か経験があるけど、今回はそれとも違うようだし……。
「まさか、別の異世界に転生したとかは無いよね……?
うーん……。他に情報も無いし、ひとまずこのマンホールでも開けてみようか……」
とりあえずマンホールのくぼみに指を掛けて開けようと試みるが、当然のことながら重く、まったく動く気配が無い。
しばらく頑張ってはみるものの、微動すらさせることができなかった。
「……いやいや、それにしても白ウサギが入っていったのって、ウサギ穴じゃなかったっけ……?」
誰ともなしに、不満を言ってみる。……聞く人なんて、誰もいないのだけど。
「次は、棒でも使ってテコの原理でいってみよう……」
そう思いながらアイテムボックスから細長い棒のようなものを取り出そうとするが――
「……あれ?」
どうにも収納スキルが発動しない。
「むむむ?」
あれ? もしかして収納スキル、使えなくなっちゃった?
えぇっと、自分をかんてーっ
――鑑定スキルを使おうとするも、何も起こらず。
「お、おぉ……? もしかして――」
れんきーんっ
――錬金術スキルを使おうとするも、何も起こらず。
「……えぇ、本当に……?」
いつも頼り切っているスキルたちが何も反応してくれない。
こんな状況で、頼りになるものがまったく無いとは……。
うーん……力も無く、スキルも無く。
開幕冒頭のマンホールすらも開けられず……。
そもそもこれ、『不思議の国』にも行けてなくない?
夢ならこのまま目が覚めるのでも良いんだけど、いつ覚めるかも分からないし……。
せめてこう、魔法でも使えてドカーンとやれれば――
そんなことを思いながら自分の手と腕を見るも、いつもの指輪とブレスレットは付けていない。
そうとなれば、魔法は自力で使うことのできるものに限られることになる。
「……魔法かぁ。そう言えば最近はあんまり練習してなかったなぁ……」
そんなことを思いながら、昔の記憶を辿ってみる。
魔法関連で読んだ本なんて、メルタテオスで買った『はじめての魔法~水属性~』くらいのものだ。
確かに初歩的な本だったけど、それでも一応いくつか魔法は載っていたっけ……?
例えば――
「アクア・ブラスト……」
何気なくマンホールに手をかざして魔法の名前をつぶやいてみると、予想に反して水球が勢いよく弾け飛んだ。
その勢いにマンホールは1メートルほど吹き飛ばされ、元あった場所からは黒い穴が姿を現す。
「……おおぅ」
予想外の展開に、まずは自分で自分に驚く。
試しに宙に向けてもう何度かアクア・ブラストを使ってみると、しっかりその度に手から水球が飛び出していった。
――これは楽しい!
どういう経緯かは分からないが、何故かここでは魔法が使えるようである。
「よーし、武器は手に入れた! どんどん進んでみよう!」
突然手に入れた武器に気を良くしながら、とりあえず黒い穴を覗き込んでみる。
それはどこまでも深い黒色で、静かに周りの空気を吸い込んでいるようだった。
ひとまずはゆっくり、片足を入れてみると――
「うひゃっ!?」
吸い込む力が一気に強くなり、一瞬で身体ごと引きずり込まれてしまった。
そして私に訪れたのは、ひたすらの落下。真っ暗闇の中を、ひたすら落ちる感覚。
最初は驚きが先にきたものの、何分、何十分経ってもひたすらに落ち続ける。
「――それにしても、こんなに落ちるものだったっけ?」
いつしか冷静にそんなことを思うようになっていた。
こんな感じだと、この星の反対側まで行っちゃわないかなぁ。いや、その前にマントルで焼け死ぬか。(さすがに死ぬよね?)
でも『不思議の国のアリス』って、焼け死ぬような話じゃなかったし――
そんな記憶が、私を不安から遠ざけてくれた。
不安からは遠ざけてくれたんだけど、それから何時間も落ち続ける感覚までは遠ざけてくれなかった。




