横浜編第七話「嫉妬してるみたいじゃねえか」
青春。
横浜駅前はイメージよりゴチャゴチャしていた。今朝来たときは気にならなかったけど、こうして駅前で人を待ってると、つい周りをキョロキョロしちまう。
おしゃれな観光地はみなとみらいに集中して、こっちは会社と商業ビルだらけって感じだ。
それにしても、どこ通ってもどこかが何かしらの工事をしている。オリンピックまでに全部終わるのか?これ。
「おっ、来た」
一番最初に梶野が気づいた。さすがに反応が早い。
何の変哲もない黒いダウンを着込んで、茂谷直登が横浜駅西口にやってきた。
坊主が伸びた野暮ったい髪型だけど、男前は男前だ。たった数十メートル歩いてくる間にも、振り返る女が何人もいる。別にうらやましくなんか……いや、ちょっとはうらやましい。
しかし本人は周りを一切気にせずこちらへ歩いてくる。慣れてんだな。
もうちょっと落ち込んでるかと思ったけど、見たところいつも通りだ。
多分茂谷にとっては、一日限りのデートの相手が帰ったくらい大したことじゃないんだろう。
「よー、来たか。早速、何で振られたか教えてくれよ」
梶野が迎えるなりいきなり肩をガッチリ組んだ。
「いきなりそれはないだろ」
茂谷は笑いながら、されるがままになっている。
茂谷は優しい。
俺と梶野が入部してからずっと練習で面倒みてもらったけど、怒ったのを見たことがない。あ、唯一広瀬コーチに挑発されてムキになったところを見たか。でも取り乱しところを見たのはそれくらいだ。
話す前の印象は、正直それほど良くなかった。何となく冷たそうというか、他人に興味が無さそうというか。
それでも半年間ずっと一緒にサッカー部でやってきて、その印象は変わった。
初心者の俺が全然うまくならなくてもイラつくことは無かったし、残って練習したいと言ったらいつまでも付き合ってくれた。
試合中も、俺が迷わず空中戦に飛び込めるように常に背後のカバーを万全にしてくれた。
意外といいヤツじゃねえか。
そう思った。
その時は。
「何だ、全然落ち込んでないな」
俺が言うと、茂谷は表情一つ変えずに、
「落ち込む理由がないからね」
と言った。いや、そう言うだろうとは思ったけどな。
「島、行き先変えねえか?全然落ち込んでないってさ」
聞くと、島はゆっくりと首を横に振った。
「いや、変えない」
「もしかしてお前が風呂入りたいだけじゃないのか?」
「……それもある」
「あるのかよ」
島も島で読めないヤツだ。
「で、今からどこ行くんだ?」
肩にかけられた梶野の腕をさりげなく外しながら、茂谷は聞いた。
「銭湯だってよ。スーパー銭湯」
「へえ、いいじゃないか」
意外にも茂谷は乗ってきた。
これはこれでいいかもしれない。裸の付き合いって言葉もあるし、むしろ聞きやすくなるか。
昨日の準決勝。試合終了のホイッスルを聞いた直後。
茂谷はやけに清々しい笑顔を見せた。
その笑顔は、まるで。
島が言っていたスーパー銭湯は、横浜駅から歩いて五分くらいのところにあるカプセルホテルのことだった。ビルが立ち並ぶ通りにさりげなく建っていて、それほど大きくはない。
でもサウナ&カプセルといえばおっさんの行くところというイメージしかない。島は何でこんな場所を知っていたんだ。それより高校生だけで風呂だけ入れるものなのか?
「島、本当に大丈夫なのか?あんまり高いと出せねえぞ」
梶野が不安げに聞いた。そう、値段も大事だ。いくらスーパーでも銭湯ごときに二千円も出せない。
「大丈夫だ」
島はスマホの画面を俺たち三人に見せた。
「なるほど、デイユースか」
茂谷が納得したようにうなずいている。
「何だ、デイユースって」
「要するに日帰りプランだよ。ここだと九十分で千八十円のプランがある」
カプセルホテル内の銭湯に九十分滞在して千八十円。
「高いのか安いのかわからん。地元のスーパー銭湯は六百五十円だったよな?」
俺が言うと、梶野もうなずいた。
「六百五十円だ。銭湯として考えると高いけど、ホテルの日帰りプランと考えると安い。つまり絶妙な価格設定だ」
「確かに」
二人でうなずきあっているうちに、島と茂谷がさっさと中へ入っていく。
「おい待てって!行くから」
一月の寒空の下、風呂に入ってるヤツらをただ待ってるなんてごめんだ。
俺たちは慌てて二人の後を追った。
「ふぃーっ……」
ほとんど坊主に近い頭に折りたたんだタオルを乗せて、俺は大浴場の湯船につかっている。声が出るのはジジくさいと梶野に笑われたけど、出るもんはしょうがない。
ホテルに入ってすぐ、島がフロントでなぜか会員カードを出してデイユースプランをさっさと申し込んでくれた。おまけにちょっと割引までしてくれていた。
同じ系列のホテル、地元にあったか?ちょっと記憶にない。島はどこで会員になったんだ。
受付の姉さんに白いガウンのようなものと大小のタオルを渡された。すべてがフカフカだ。
大浴場にはサウナやジェットバスも当然のように用意されていて、上がった後はカプセルルームで昼寝するもよし、リラクゼーションルームでマッサージチェアを楽しんでもよし。
リラクゼーションルームにはマンガ読み放題までついている。いたれりつくせりだ。これで九十分千八十円なら払う価値はある。
「すいててよかったな」
体を洗い終えた茂谷も湯船に入ってきた。今湯船には俺と茂谷と老人の三人だけだ。
「おお、本当にな。島たちは?」
「サウナで勝負するってさ」
「好きだなあ、あいつら」
「まったく」
好きなのはサウナか、子供じみた勝負のどっちだろうか。多分両方だ。
ちらり、と茂谷の方を見る。
身長は俺と同じくらいの百八十ちょいだけど、ちょっと線が細い。前に一度筋トレに誘った時、「重くなってスピードが落ちないか?」と渋っていたのを思い出す。
確かにサッカーのDFにスピードは重要だ。特にセンターバック。
でも高いレベルの相手になると、スピードがあるのは当たり前で、逆にそこからはシンプルに強さと高さの勝負にシフトする。
故障上がりでサッカー歴半年の俺が、全国レベルでもそこそこ通用した理由はその高さが効いた証拠だろう。
茂谷は高さも十分あるし、あまり気にしてなさそうだけど。
「そういやさ、何で運営の姉ちゃんに帰られちゃったんだ?お前はそういうミスするやつじゃないと思ってたぞ」
何となく沈黙が続いて、忘れかけていた話題を引っ張り出す。ちょっとわざとらしいか。
茂谷は笑って、
「何だ、気にしてたのか。そういう話題に食いつくのは梶野だけだと思ってた」
と言った。
「別に俺だってその手の話題は嫌いじゃねえよ。節度があるだけだ」
「節度ね」
言うと、茂谷は湯船のヘリに頭を乗せた。
「心ここにあらずって感じでつまらない、って言われてバイバイされた。カップヌードル博物館で」
俺は笑った。
「そういや電話してきた時、そこにいるって言ってたな。何だ、昼飯だけおごらされたのか?」
「いや、全部おごってもらった」
「何だよそれ」
チクショウ、うらやましい。
またしばらく沈黙が続く。
去年、俺がまだバレー部にいた頃、一つ上に仲のいい先輩がいた。
実績もないのに威張るタイプが多かったバレー部の中では優しい方の先輩で、俺はよく目をかけてもらってた。
でも肝心の実力の方は中くらいで、控えの二番手くらいが定位置になっていたと思う。
そんな先輩が、ある日を境に個人で猛練習を始めた。朝早くから夜遅くまで。鬼気迫るとはまさにあのことだ。
後で聞いた話では、先輩はレギュラーを目指して一度とことん自分を追い込んでみようと思ったらしい。
その時はそこまではっきりわからなかったけど、何かを変えようとしていることだけは俺にも伝わった。
たまに練習を手伝いながら、先輩がレギュラーになれればいいのにって思ってた。
そして県大会に向けてのレギュラー発表の日。
先輩の名前は呼ばれなかった。
解散した後、
「先輩」
と俺は結構な勇気を出して呼びかけた。言うことなんて何も思いつかなかったけど。
先輩の周りには誰も集まってなかった。人望が無いわけじゃない。多分みんなも俺と同じように、何て声をかけたらいいかわからなかったんだ。
呼びかけただけで黙っていた俺に、先輩は言った。
「おう金原。ありがとな、今まで」
そう言って、笑った。
一週間後、先輩はバレー部を辞めた。
昨日の準決勝。
1-2で千葉県代表の米良野高校に敗れた直後。
茂谷が見せた笑顔が、先輩の笑顔と重なったんだ。
「昨日の失点」
「え?」
ポツリとつぶやいた茂谷に、俺は思わず聞き返した。
茂谷は頭に置いていたタオルを、額と目を覆うように置きなおした。
「二失点とも、僕が競り負けた」
「そんなことねえよ。チームスポーツだろ」
「そうじゃない。明らかに僕を狙っていた。特にあの益戸正人と藤田涼の二人」
「あの二人は特別デカくてゴツかったから、しょうがねえって。全国レベルだぞ」
実際、米良野高校は強かった。後半途中まで藤谷のゴールで1-0でもってたのが今じゃ奇跡に思える。
特に大会ナンバーワンストライカーの益戸正人は身長が190あって、足も速い。おまけに両足と頭も精度が高いという極悪な選手だった。
藤田涼は益戸ほどの精度はないけど、太い脚からのキック力とゴツい体ごと向かってくる突進力は正直びびった。
それでも当たり負けだけはしないようにしよう、と思い切って飛び込めたのは。
茂谷、お前が後ろにいたからなんだぞ。
……なんてことは、恥ずかしくて言えん。
第一、辞めるかもっていうのは今のところ俺の想像でしかない。誰だって負けた直後は落ち込んで当たり前だ。弱気な発言の一つもするだろう。
「茂谷、辞めるなよ!」
と言ったところで、
「辞めるなんて言ってないよ」
で話が終わりそうだ。それは避けたい。
「でも」
茂谷が続ける。
「お、おう」
「未散は違った」
「ん?藤谷?」
何で藤谷が出てくるんだ。
「一回戦から、未散は臆せず全国レベルにぶつかっていっていた。実際通用していたしな」
「それは……藤谷は、やっぱすげえよ」
そんなことはわかってる。
みんなが全国大会の舞台に固くなっている中、あいつだけはなぜか堂々としていた。赤いユニフォームの10番は、県大会の時以上に頼りになる背中だった。それは間違いない。
でも。
だからって。
何でこんな時まで、お前は藤谷の話をするんだよ。人が心配してるってのに。
結局そうなんだ。
練習に付き合ってくれる優しいヤツだと思ったけど、本当は違う。
すべてが藤谷のためなんだ。
藤谷が望むから。
藤谷が求めるから。
こいつの目には、背番号10しか映ってねえんだ。
胸の中にたまり始めたもやもやを打ち消すように、俺は両手でお湯をすくい、思いっきり茂谷にぶっかけた。
「うわっ!なんだよ、いきなり」
「うるせえ」
「うるせえってお前、子供みたいなことするなよ」
「そりゃお前だろ」
「え?」
俺は湯の中から立ち上がり、言った。
「あのな。お前が10番を見続けてるのと同じように、お前の7番を必死に追いかけてる男もいるんだぞ。忘れるな」
俺の言葉を茂谷がどんな顔で聞いていたのかはわからない。だって俺はさっさと背中を向けて逃げ出していたから。
チクショウ、何だこれ。
これじゃまるで。
俺が藤谷に嫉妬してるみたいじゃねえか!
「金原、顔真っ赤だぞ。もうのぼせたのか?」
丁度サウナから出てきた梶野が、俺の顔を見て言った。やべえ、そんなに赤くなってたのか。
「あ、ああ、もういい。あとはもうマッサージチェアに……ん?」
かたわらに、手桶を持った島が立っている。
「島、何持ってるんだ?」
「金原がかなりのぼせているように見えたから、そこの水風呂からすくってきた」
「おい、やめろ。大丈夫だって」
あとずさる俺を、梶野が後ろからガッチリつかむ。
「バカ、離せ!本当にのぼせてないって!」
「心配するな。俺はサウナから出たばっかりだから、かかっても構わない」
「お前の心配はしてな……あーっ!」
くそったれ。余計なことしなきゃよかった。
私は一つ賭けをしていた。
未散に向かってフリーキックを蹴る時、いつもは加減している左足を全力で思いっ切り踏み込もうって。
力いっぱい蹴ることができたら、女子サッカー部創設はうまくいく。
コケたら前途多難。
ちょっと極端かな?
ああ、でも怖いな。
未散だけじゃなくて、有賀さんと串山さんも、遠くから他の職員さんも何人か見ている。
そんな中で、また左足に力が入らなくなるのはいやだな。転ぶし、みっともないし。
いや、ちがう。
私は。
私は、このプレッシャーをどこかで望んでいたのかもしれない。
ただベンチで祈るだけじゃなくて、全身で感じるヒリヒリした感覚。
フィールド上の選手にしか得られないもの。
私はセットしたボールに向かって左足を踏み込んだ。
全体重をかけて。
「ふんっ!」
ボールのほぼ正面から、インステップでまっすぐ振り抜く。
無事着地した私は黙ってフリーキックの行方を見つめる。
意表を突かれたのか、GK未散は一歩も動かず、まっすぐ向かって行くフリーキックに正面から対峙した。
「ぬおっ!」
変な声をあげて、グローブをはめた両手を差し出し、思いっきり上に跳ね上げる。
弾かれたボールが真上に高々と上がっていった。
「痛ーっ!お前、思いっきり蹴りやがったな」
未散が両手をブラブラさせて文句を言っている。
「だって……ん?」
上空に上がったボールが、ゆっくりと落ちてくる。
「ん?」
未散が私の視線に気づき、上を見上げる。
「あ」
落ちてきたボールが見上げた未散のおでこに当たり、バウンドしたボールがそのまま背後のゴールへ転がっていった。
「やった!ゴオオオオオール!」
私は走り出し、有賀さんと串山さんにハイタッチする。
「おい、ちょっと待て!今の一回止めただろうが!」
おでこをさすりながら未散が抗議している。
「ラインは割らなかったんだから、インプレーでしょ?往生際が悪いよ」
有賀さんと串山さんもニコニコうなずいている。
「くっ……納得いかない負け方だ」
グローブを外しながら、未散がブツブツ言って歩いてくる。
本当は勝ち負けなんてどうでもいい。
左足、全体重かけて踏ん張れた。力が抜けなかった。
ああもう、ただそれだけで嬉しい。私にしかわからない感覚だけど、全然かまわない。
女子サッカー部、何とかなる気がしてきた。
有賀さんたちにお礼を言って、私たちはNスタジアムを後にした。
新横浜駅までは徒歩ですぐ。
集合時間にはまだ一時間くらいあるけど、新幹線に乗り遅れたくないし、お土産を買う時間も欲しい。
手ぶらで帰ったらきっと秋穂が怒る。
隣を歩く未散はまだ、
「納得いかない」
とぼやいている。いい加減しつこいヤツだ。
「いいじゃない、もう。ただの遊びなんだから」
「そりゃそうだけど」
言って、未散は私を見た。
「そういやさ」
「ん?」
「お前、左足全力で踏ん張ってもコケなかったな」
「……」
私は未散の顔をマジマジと見つめた。
「気づいてたの?」
「だってあれだけ強いキック手で止めたんだぞ、わかるさ。まだビリビリしてる」
「見せて」
「何を」
「手」
「え?」
差し出された左手に、私は自分の右手を指と指が交差するようにからませた。
いわゆる恋人つなぎというやつだ。普段は未散が恥ずかしがるから、あまりやったことはないんだけど。
「お、おい。駅が近いんだぞ。みんな来るかもしれないぞ」
「だから?」
「いや……その……た、たまにはいいか」
「耳赤いよ」
「うるさいな」
大いに照れながら、ワガママ娘の気まぐれを受け入れてくれた恋人に。
私はそっと身を寄せて歩いていった。
もうちょっとつづく