横浜編第六話「彼女の欲目」
一か月半はかかりすぎですね。
昨日、私が声を張り上げて応援していたベンチ。
チームのみんなが必死に走りまわっていた緑の芝生。
お客さんのいない広い観客席に大きな屋根。昨日より何倍も広く感じる。
首を目一杯伸ばして見回したら、立ち眩みを起こしてしまいそう。
ここはNスタジアムの中。
今日は見学ツアーはやってないし、普通なら入れないはずなんだけど。
私は今、芝の上に立っている。
ゴールほぼ正面約二十メートル。目の前にはボールがセットしてある。
そしてゴールには、藤谷未散がキーパーとして立ちはだかっている。
「いつでもいいぞー。決めれるもんなら決めてみー」
「その言葉、後悔するよー?」
なぜ私がフリーキックを蹴る位置にいて、未散がキーパーをやっているのか。
話はほんの少しだけさかのぼる。
「ねえ、君たち」
二人でスタジアムの周りを歩いていた時、いくつかあるゲートの一つで男性の職員さんに声をかけられた。
相手が職員さんということで何か注意されるのかと少々構えていると、彼は意外なことを言った。
「君、昨日ここで試合してた本河津の10番でしょ?」
「えっ?あ、はい、そうです」
虚を突かれた形になって、未散は素直に答えた。
すると職員さんはパッと笑顔になり、
「やっぱり!昨日は休みだったんだけど、家で試合見てたよー!最後すごいボレーだった!本当に惜しかったねえ!」
と嬉しそうにまくしたてた。そして未散の手を両手で握って上下にブンブン振りだす。
職員さんは、年は四十くらい。背が高くて色黒で、肩幅ガッチリ。短髪で彫りの深い顔をしている。
未散は硬直してされるがまま。相変わらず大人の男性が苦手みたいだ。
「一つの大会でフリーキック三発なんて、そんな高校生見たことないよ!まだ二年なんでしょ?プロのスカウト来た?」
職員さんの勢いが止まらない。
「えっ、えっと、どうも、あの、俺」
しどろもどろになった未散は要領を得ない言葉しか返せない。そろそろ私が何とかしないと、と思った時。離れたところから別の声がかかった。女性の声だ。
「有賀さん!その子困ってるじゃないですか」
「え?お、おお、ごめん。ついテンション上がっちゃって」
有賀さんは我に返った様子で未散の手を離し、バツが悪そうに頭をかいた。どうやら悪い人じゃなさそうだ。
駆け寄ってきた女性職員さんはとても可愛らしい小柄な人で、見たところ二十代……前半にしとこう。その方が無難な気がする。機嫌損ねたらめんどくさいし。
でもこんなことばっかり言ってると、また紗良ちゃんに「最近藤谷君みたいな言い方するね」って言われちゃう。気を付けよう。
ともかく、女性職員さんは「ごめんなさい、今日は見学ツアーやってないの」と頭を下げ、串山と名乗った。
「いえ、全然。私たち、昨日ここで負けちゃったんですけど、彼が帰る前にもう一度このスタジアムを外から見たいて言って」
「昨日……?」
串山さんは私と未散の顔を交互に見て、しばし考えた。そして目を大きく開いて指をさした。
「あーっ!本河津の10番と、Tスポ美人マネージャー1位の子!?ウソ、マジ!?」
今度は私が手を握られ、上下にブンブン振り回される。あの新聞、結構見られてるんだ。スポーツ新聞はおじさんしか読まないと思ってたのに。
「串山さん、君もやってる」
有賀さんに冷静に指摘されて一瞬固まった串山さんは、何事もなかったように両手を離した。
「ごめんなさい、つい」
「いえ、大丈夫です」
「うー、写真で見るよりずっと可愛いー。連れて帰りたーい」
不穏な目で私を見つめる串山さんを後ろに引っ張り、有賀さんが改まった様子で私たちに言った。
「びっくりさせてごめんね。いやでも、本当に本河津はいいチームだったよ」
「あ、ありがとうございます」
「それにいい選手は一杯出てたけど、ボール持っただけでワクワクさせてくれるって点では藤谷君が一番だったよ」
「あー、えーと、ど、どうも」
私の彼氏は正面切って誉められるのも苦手だ。しきりに照れている。こういところ、以前はよくからかっていたけど、今は可愛いと思うようになっている。
「男に可愛いは禁句だ」って怒るから言わないけどね。
有賀さんは周りをキョロキョロ見回し、私たちを手招きした。そして急に声をひそめる。
「今、ちょっと時間ある?」
問われて腕時計を見る。
「はい。新幹線の時間まではまだ二時間ほどありますけど」
未散が答えると、有賀さんは初対面でもそうとわかる悪い顔をして言った。
「もし僕の頼みを聞いてくれれば、中に入れてあげられるけど、どうする?」
私と未散は顔を見合わせ、ほぼ同時にうなずいた。
言ってみればズルの誘いだけど、悪い人には見えない。未散はさっきまでの気おくれした態度など無かったかのように、有賀さんにはっきりとした口調で答えた。
「頼みって何ですか?」
有賀さんの頼みというのは、「藤谷君のフリーキックと対決したい」というものだった。未散が蹴って、有賀さんがキーパー。何でも高校時代はサッカー部でキーパーをやっていたらしい。
梶野君も五月の体験入部の時未散にフリーキックを蹴ってもらってたけど、フリーキックを止めてみたいっていうのはキーパー特有の心理なのかな。
ジャージに着替えた有賀さんがグローブをはめてゴールへ向かっていく。元キーパーと聞いたからかもしれないけど、両腕をストレッチしながら歩く後姿は同じポジションである島君や梶野君に共通するものを感じる。
先に準備していた未散が芝のグラウンドに立って、足元の感触を確かめている。白いワイシャツに制服のズボン、靴は黒いトレーニングシューズ。
スパイクのトゲが無いから滑るかもしれないけど、「軽くでいいから」というリクエストなので多分大丈夫だな。距離は二十メートルちょっとだし。
それにしても、と私は未散の足元を見て考える。
彼女としては、サッカーの時以外は彼氏にそれなりにおしゃれな靴をはいてほしい気持ちもある。
一度本人にそう言ったら、
「女の靴は色も種類も多いけど、男は気取った革靴もどきか妙に白っぽいスニーカーくらいしか選択肢が無い。欲しいのが無いんだ」
と抗議されてしまった。それは買いに行く店がサッカーショップかスポーツショップに偏っているからだと思うけど。
未散がボールをセットして、数歩後ろへ下がる。有賀さんが手を大きく広げて構えに入る。
「藤谷くーん!いつでもいいよー!」
陸上コース上で未散のダウンとブレザーを持って立っていると、串山さんが隣にやってきた。
「ねえ、一つ聞いていい?」
「はい、何ですか?」
「二人は付き合ってるの?」
目がキラキラしている。この目の光は逃げ切れなさそうだ。私はチラリと未散を見て、まだ蹴り出さないのを確認した。
「はい。付き合ってます」
「やっぱり!テレビで試合見てた時、あなたたちの話してる雰囲気見てピンときたんだよね。うんうん、やっぱりそうか」
「そんなところ映ってたんですか!?」
中継って全国ネットじゃなかったっけ。やばい。急に恥ずかしくなってきた。
「実は私も元サッカー部マネージャーなのよねー」
「えっ、そうなんですか」
まじまじと串山さんを見つめる。
「それで……もしかして部員の誰かと付き合ってたりとか」
半分冗談で聞いてみたところ、彼女は「のほほほほ」と口をおさえた。
「広瀬さんって鋭いのね」
当たってしまった。
「でも私のは、藤谷君みたいにエースじゃなかったから。そこはちょっとうらやましいかな」
未散がボールに向かって歩みを始めた。
うるさくすると、外した時私のせいにされるから静かに話そう。
私は声をおさえて聞いた。
「その彼とは高校で出会ったんですか?」
「ううん。中学からの腐れ縁でね。どうしてもって頼まれてマネージャーやったの」
どこかで聞いた話だ。
「で、それが今の旦那」
「えーっ!」
思わず大きい声が出てしまった。
直後、未散の右足が一閃する。
芝から放たれたボールが美しい放物線を描いてゴール左隅へ向かう。
県大会の後、未散のフリーキックは少しずつ変化している。体を鍛えてパワーが上がったこともあるし、今のボールは力一杯まともにインステップで蹴ると飛びすぎる作りになっていて、今後もその方向性が進むだろうという予測もしていた。それらを踏まえて、いかに飛びすぎずに効果的に回転を与えるか、というテーマで日々練習に取り組んできたのだ。
ちなみに「無回転は蹴らないの?」って聞いたら「久里浜が蹴ってるからやらない」と謎の対抗心を見せていた。男の意地なのか、子供っぽいこだわりなのかは微妙なところ。
「あっ!」
有賀さんがゴール左隅に向かって横っ飛びした。
ボールはグローブの先をかすめるように曲がっていって、大きな金属音を立てた。
「ちいっ!」
未散のフリーキックはバーとポストの交わる角に当たって弾かれてしまった。芝に倒れこんだ有賀さんが慌てて起き上がり、ボールを追いかける。未散も後から続く。
「外れちゃったけど、すごいね彼。高校生とは思えない」
串山さんの感心したような口ぶりに、私も何となく誇らしい。できれば決めてほしかったけどね。
ボールを取ってきた有賀さんと並んで、未散がこちらにスタスタと歩いてくる。
「……」
あ、眉間にシワが寄ってる。これは怒ってる。
陸上トラックまでやってきて、未散は不機嫌な声で言った。
「あーあ、蹴る直前に誰かが大声出すから狂っちゃった」
……また陰険なマネを。私は一つため息をついて言った。
「ごめん。マナー違反だったのは認めるけど、だからって全部が私のせいじゃないでしょ」
一応抗議する。たとえ自分に非があっても、言われっぱなしはフェアじゃないよね?
「ま、フリーキック蹴れない人には分からない感覚かもね」
「ほー」
いけない。私の悪いクセだ。安い挑発に乗っちゃいけない。
私のほうが彼より大人。
「私だってフリーキックくらい蹴れますけど?」
結局乗っちゃった。
未散は「ほう」となぜか得意げな顔になって、有賀さんに言った。
「有賀さん。もう一戦お願いします。この生意気な小娘をギャフンと言わせてやってくださいよ」
「誰が小娘か!私の方が一か月年上でしょ?」
「年が一緒なら月は関係ない」
ニコニコしながら聞いていた有賀さんは、おもむろにキーパーグローブを外しはじめた。
「有賀さん?」
そして外したグローブを、未散にポンと手渡す。
「あの」
「僕は可愛い女の子とは戦わない主義なんだ。それに広瀬さんも、勝負の相手が藤谷君の方がスッキリするだろう?」
……確かに。
私は言った。
「あの、女性用のジャージのズボンありますか?」
私たちのコートやブレザーを大人二人に持たせて、私は未散と対峙している。
さっき、
「今さらですけど、こんなに好き放題やっちゃっていいんですか?」
と串山さんに聞いてみたところ、
「有賀さん、ああ見えて今日の出勤者で一番偉い人だから大丈夫」
という答えだった。
その偉い人は、
「いやあ、バーに当たったけど、すごい曲がり方だった!スピードもあったし、あれはコースにハマったら高校生のキーパーじゃ取れないよ!」
と、かなりご機嫌で、未散にも将来的にはこういう器の大きな男性になってほしい、と密かに思ってしまった。
スカートの下に借りたジャージのズボンをはいて、芝の上に立つ。小学生時代にも、こんなに綺麗なフィールドでプレーしたことはない。実はかなり嬉しい。
もしかして、と私は思う。
未散は私にも、このスタジアムでボールを蹴らせてやろうと思ってくれたのかなって。
彼女の欲目かな。
「いつでもいいぞー。決めれるもんなら決めてみー」
「その言葉、後悔するよー?」
私はボールへ向かって足を踏み出した。
梶野と島と俺の三人でサッカーショップを出たのが十二時。昼飯に横浜駅前で塩ラーメン食って現在一時。
どうしようか。暇を持て余しちまった。
倫理の授業で「自由は取り扱いが難しい」と先生が言ってたけど、こういうことかな。
多分ちがう気がする。
「金原は、横浜の観光地どこか知らないのか?」
梶野が相変わらず開いてるのかどうかわからん細い目でこちらを見る。
「知らん。あるとしたらみなとみらいの方だけど、どうせその辺りは藤谷か銀次がそれぞれの女とデート中だろ。出くわしたいか?」
梶野と島が黙って首を振る。そりゃそうだ。みんなが知ってる公認カップルとはいえ、野郎三人で行動してる途中で彼女連れの同級生とは死んでも会いたくない。
「ん?」
スマホが鳴った。着信画面に意外な名前が表示されている。
「茂谷からだ」
三人で顔を見合わせ、とりあえず出てみた。
「もしもし、どうした?」
「悪いね、いきなり。今いい?」
相変わらずクールな声だ。会った当初はそこがいけ好かないとも思ったけど、もう慣れた。
それに、見た目ほどクールなヤツじゃないってことも今はわかってる。
「しゃべってるからいいんだよ。お前、運営のお姉さんとデート中じゃないのか?」
「うん、それなんだけど。途中で帰られちゃってね。すること無くなったからそっちに合流していいか?」
何だと。
「珍しいな。お前でもフラれることあるんだ」
「そう嬉しそうに言わないでくれよ」
しまった。声に出てたか。
「悪い悪い。で、茂谷は今どこなんだ?俺らは今横浜駅近くだけど」
「カップヌードルミュージアム出たところだ。十五分くらいで着く」
「おお、じゃ待ってる」
電話を切って、顛末を二人に報告する。
島は相変わらず軍人のように無表情だったけど、梶野は露骨に嬉しそうだ。
「へー、あいつでも女にフラれることあるのか。そうかそうか。来たら色々聞いてやろう」
人のことは言えないけど、こいつも意外とゲスだな。
「それで、合流した後どうする?」
梶野のもっともな問いに、島が珍しく口を開いた。
「このあたりに銭湯があったと思う」
こいつは何を言い出すんだ。普段から無口だけど、たまに口を開くとこれだ。
「何で自由行動で銭湯なんだよ。それに都会のスーパー銭湯って高いんだぞ。入場料二千円くらい取られるし」
「げ、マジで?それは無いわ」
俺たちの抗議に、島は静かに答えた。
「別にスーパー銭湯じゃなくてもいい。町の小さな銭湯でも構わない。デートの途中で相手に帰られた茂谷を、温かい湯で癒したいと思ったんだが。二人が反対なら無理は言わない」
「……」
「……」
急に恥ずかしくなった俺たちが「賛成!」と意見を変えたのは、卑怯だからじゃない。若さゆえの過ちと成長だと思うんだ。
それに、と俺は思った。
茂谷直登には聞きたいことがある。
こっちに来てからの態度、試合でのプレーを見て思ったこと。
茂谷、お前。
サッカー、辞めるつもりじゃないだろうな?って。
つづく
こんなに長くするつもりは無かったんですが、どこで間違ったのか。