横浜編第二話「心当たり」
間空きすぎましたが、何とか書きました。
一時間ほど二度寝した後、紗良ちゃんと私はホテル内にあるイタリア料理店へ向かった。
大会二日目からずっと、私たちはここで毎朝バイキング形式の朝食を取っている。スクランブルエッグ、ソーセージ、サラダ、フルーツといった定番のメニューはもちろん、焼き立てのクロワッサンや茶粥、ミニラーメンまで並んでいる。
お店側も毎日同じメニューにならないように気をつかってくれていて、それがとても嬉しい。
「夏希ちゃん、今日は少ないね」
ジャージを着た紗良ちゃんが私の皿を見て言った。クロワッサンが一つと、サラダにヨーグルト。あとはコーンスープのみ。やっぱり不自然かな。
「う、うん。ちょっとね」
「体調悪いの?」
言って、心配そうに私の顔をのぞき込んでくる。
ちょっとした罪悪感に胸をチクチク痛めつつ、
「今朝早起きしておしるこ二缶買いに行って、一気に飲んだら胸やけしちゃって」
と、ごまかしておいた。
ごめんね、紗良ちゃん。
何気なく未散を目で追う。彼の皿にはほぼ全種類のおかずがちょびっとずつ乗っている。一体どういう性格なんだか。
席に座る前に店内を見渡すと、先に来ていた部員たちの顔がいつもとは違っていた。
みんな目の下にクマができている。
過密日程の中、フィールドを走り回った疲労なのか、それとも負けたのが悔しくて眠れなかったのか。
私は……試合終了直後は一人でわんわん泣いてしまい、紗良ちゃんまでもらい泣きさせてしまった。
相手は優勝候補筆頭の千葉県代表。初出場で準決勝まで勝ち進み、強豪相手に1-2での惜敗は誉められていいのかもしれない。
だけどいつの間にか、県大会からずっと勝つのが当たり前になっていて。
私が泣いてしまった理由は、もちろん悔しいのもあるけれど。
冬の全国大会が終わった時点で、私のマネージャーとしての活動も終わってしまうのだ。
全員がほぼ食べ終わったのを見計らって、キャプテンの未散がみんなの前に立った
「ちょっとみんな聞いてくれ」
部員たちが話をやめ、視線が未散に集まる。
キャプテンになりたての頃は、注目されると下を向いて声が小さくなっていたけど、今は別人のように堂々としている。ずいぶん変わったもんだ。
その変化を一番近くで見てきた自負が私にはある。誇らしいような、寂しいような。
「本来ならこの後、新横浜に行ってすぐに帰りの新幹線に乗るところなんだけど」
みんなが黙って続きを待つ。
「全員分の指定席券が買えるのは、今日の夕方の列車しかないことがわかった」
部員同士が顔を見合わせ、にわかにざわつきだす。
「じゃあ、それまで帰れねえのかよ」
髪が短くなった菊地君が、もっともな疑問を口にする。
未散は得意げな顔で菊地君を見た。
「菊地、夕方まで帰れないんじゃない。夕方まで、時間が空くんだ」
「何だよ、それ……え、おいまさか」
みんなも薄々感づいてきたみたいで、ざわつきがどんどん大きくなる。
私と同じテーブルにいた江波先生が、組んでいた長い脚をほどいて立ち上がった。そして未散をどかして両腰に手を当て仁王立ちする。
「先に釘を刺しておくけどね、プライベートで遊びにきたわけじゃないから。あくまで学校の部活動の一環として、私たちはここにいるんだよ。それを踏まえて、軽率な行動や法に触れるおバカな真似をせず、新幹線の時間に遅れず戻ってくるとみんなが約束するなら……夕方まで自由行動を認める」
「マジですか!?」
「うわ、どうしよ、どうしよ。服持ってきてねえよ!」
「イヤッホウッ!ヨコハマ!」
みんな口々に騒ぎ出す。店内にいた宿泊客が何事かと振り返る。恥ずかしい。
江波先生が手をパンパンと叩いた。
「はいはい静かにしなさい!ここが公共の場だということを忘れないように。あ、それと、十二時と三時の二回、グループの代表者は私に電話連絡すること。その時いる場所と、誰がいるか。わかった?」
先生の話はみんなの耳にはもう聞こえてないようで、さっきまでのお通夜状態がにわかに活気づいてしまった。
「広瀬さん、この子たちを街に放して本当に大丈夫?」
江波先生が私をジロリとにらんだ。
「あはははは……だ、大丈夫ですよきっと。多分」
さりげなく目をそらす。
「大丈夫ですよ。みんないい子ですから」
まだ眠そうな目の毛利先生がフォローしてくれる。日本一頼りないフォローだ。
「ま、私は正式な顧問じゃないからさ。何かあったらあんたが責任取ってよね」
江波先生の鋭い視線に毛利先生が青くなる。
この二人はいつもこんな感じだ。こういうのも仲の良さの一つなのかな。
「ん?」
私は一人の部員に目を止めた。
意外なことに、伊崎君がはしゃいでいない。両肘をテーブルの上について、組んだ手で口元を隠している。どっかで見たポーズだ。
いつもならこんな時は、真っ先に大喜びして真っ先に私が怒るのがパターンなのに。
照井君も伊崎君の様子に気がついた。
「伊崎、どうした。嬉しくねえのか?」
伊崎君は、
「嬉しくないことはない」
と答え、私と未散を交互に見つめた。
「だったら何だよ」
未散が警戒したように聞いた。
「自由行動ってことは、必然的に付き合っている男女は二人でデート、ということになりますよね?」
「う……そ、それは、多分そうなるな」
さっきまでの堂々とした態度はどこへやら。急にうろたえだしてるし。助け舟出すのはもうちょっと待とう。
伊崎君が勢いよくイスから立ち上がる。
「じゃあ、じゃあ、せっかくの横浜自由行動なのに、俺たち広瀬先輩と遊べないじゃないですか!キャプテンだけずるいですよ!」
「お前は何を言っているんだ」
未散が急にしらけたような反応を返す。
「お前にも有璃栖という可愛い彼女ができたじゃないか。ぜいたく言うな」
「岸野さんは女子の大会で、今神戸なんです!会えないんですよ!」
「電話でもすればいいだろ」
「集中したいから、電話もLINEも送るなって言われてるんです!」
「知るか!そんなのそっちで解決しろ!」
「キャプテンは冷たい!広瀬先輩と付き合いだしてから、俺たちへの愛が薄れてます!」
「気色悪いこと言うな!」
未散と伊崎君がやりあっていると、他の一年の子たちも何か言いたげな顔をしていることに気がついた。
「あの、藤谷先輩」
いつも控えめで、一番未散のことを慕っている黒須君がおずおずと口を開いた。
伊崎君と未散のバトルがひとまず中断する。
「ん?」
「あの、僕も……ちょっとでいいので、広瀬先輩と回る時間が欲しいです」
「黒須君……」
珍しい。彼がこんな主張するなんて。未散も伊崎君相手と違って、何て言っていいか困っている。
「未散」
ここで、そばで黙って見ていた茂谷君が口を開いた。
「何だよ、お前もか」
未散が露骨に不機嫌になる。
「いや、僕はアテがあるからいいよ。それより、肝心の広瀬さんの意見はどうなんだ?」
アテがあるってどういう意味だろう。地元からすでに女子を呼んでいるとか?まさかね。
茂谷君の視線が私に向けられる。
私は彼の視線をそらさないように努力する。
県大会決勝戦の翌日。未散を傷つけ、見失ってしまった私に居場所のヒントを与えてくれた。
その時、私は茂谷君に抱きしめられた。それはつまり、そういうことで。
あれから今日まで、何事もなかったようにお互い振るまっている。彼がソツなく立ち回る器用なタイプでよかった。
でもあのことを未散にずっと黙っているのは、好きな人にウソをついていることになるのかな?
今の私では、まだ答えは出せない。
「私は……みんなで中華街を回れたりしたら、楽しいかなって思うけど」
伊崎君たちが期待に満ちた視線をキャプテンに向ける。
未散は少しだけ恨めしそうに私を見て、ため息をついた。
「わかった。じゃあ、十一時に中華街のあの有名な門の前に集合で、そこから二時間お前らも合流していい。それでいいか?」
「やったあ!」
「いよっしゃああっ!!」
「イヤッッホウッ!!!」
伊崎君たちがやんやと盛り上がり、結局江波先生に怒られた。
伊崎君も黒須君も、照井君も狩井君も国分君も皆藤君も。
みんな、私がもうすぐマネージャーじゃなくなるのをわかって言ってくれているのかな。
ちょっとだけ、鼻の奥がジンとした。
「ごめんね」
私は小声で未散に謝る。今日の自由行動は二人のために作ったようなものなのに、土壇場で裏切ってしまった感じもする。
意外にも、彼は不機嫌な顔も見せず、
「謝るこたないよ。あいつらの気持ちもわかる」
と言った。
「そう?」
「実質、今日が最後だしな」
「……うん」
何だ、ちゃんと考えてくれてるんじゃない。
忘れた頃にこういう優しいところを見せるのは、ずるいと思う。
もう一度集合時間と集合場所、定時連絡の打ち合わせをして、朝食の時間は終わった。
みんなが立ち上がりかけた時、今まで黙って私たちを見ていた男が勢いよく立ち上がった。
「諸君!」
芦尾だ。
防寒用のインナーシャツの上にホテルの浴衣を羽織っている。そこまでして浴衣が着たかったのか。半年間の付き合いだけど、いまだに謎の多い男。別に知りたくもないけど。
「何だよ。芦尾も一緒に来たいのか?」
未散がめんどくさそうに言った。
「芦尾は却下」
即座に私が言うと、芦尾は「はえーよ!」と抗議しつつ、浴衣の懐に手を入れた。ガサゴソと紙の音がする。
まさか。
イヤな予感は大抵的中する。
芦尾が右手に高々と掲げたのは、今朝未散がコンビニで買っていたTスポーツだったのだ。
「大会こそ準決勝で敗れはしましたが、我が本河津高校サッカー部の広瀬夏希が、見事に美人マネージャー日本一に輝きましたー!」
部員たちが一斉に芦尾の周りに集まる。
「うおお、すげえ。一番でかい写真だ!」
「勝利の女神って書いてある!」
「あ、俺二位の子好き」
私は片手で顔をおおいつつ、未散の背中をつんつんとつついた。
「わひゃう!やめろよ、くすぐったい」
抗議しながら未散が振り向く。
「あの新聞、今朝未散が買ったやつ?」
「ちがう。芦尾も起きてすぐ買いに行ったんだと。何でも俺のせいにするんじゃない」
「……ごめん」
私が素直に謝ったのがそんなに珍しいのか、未散は目を丸くしてうろたえ始めた。失礼なヤツ。
「で、でもさ。新聞は毎日新しいのが出るから、何か言われるのも今日だけだって。気にするな」
「それはそうだけどさ」
「もし街中で声かけられるのがイヤなら、どっかで変装用の伊達メガネ買うか?」
「そこまでしなくていい」
「そっか。お前メガネ似合わなさそうだしな」
楽しそうにケラケラ笑う恋人を、私はジロリとにらみつけた。
笑ったからにらんだんじゃない。
本当は笑いたい気分じゃないくらい負けて悔しいくせに、昨日からそれを見せないのが私は気に入らないのだ。
それぞれが何人かずつのグループに分かれ、自由行動に出発した。と言ってもまだ時間は九時。たいていの観光地は十時からしか開かないので、しばらく部屋で待機の組もいる。
私たちは制服の上にそれぞれダウンジャケットとコートを着て、最初の目的地に向かって歩いている。今朝コンビニに行った時よりは暖かくなったとはいえ、一月の港町は容赦のない風が吹く。
「そういや、冬馬って誰とどこ行ったんだ?」
未散が思い出したように口を開いた。
「私も気になって聞いたら、芦尾と一緒にラーメン博物館行くみたいよ」
「マジでか。あいつらいつのまにそんな仲良くなったんだ」
不愛想で常に一匹狼で、部員と話すことと言ったら「こういうパスをよこせ」だけ。
そんなうちのエースストライカー冬馬は、県大会優勝後、ほんの少し丸くなったような気がする。
憑き物が落ちた、とでも言うのかな。たまには笑うようになったし、芦尾のお腹をたぷたぷしてからかうことまである。私にも、そんなにつっかからなくなった。
理由はよくわからないけど、未散が言うには、
「セレクションで落とされた春瀬に勝って、留飲を下げたってとこじゃないのか?」
ということらしい。本当にそれだけかな。
こちらに来てからの冬馬は、一回戦から昨日の準決勝まで、県大会での調子そのままにゴールを量産した。まだ決勝戦が残っているから確定ではないけど、現時点での得点ランクは五点で冬馬が二位。
そして現在得点ランク一位の選手が今私の隣にいる。
一回戦から全試合でゴールを決め、うちフリーキックが三本という驚異的なプレーを見せた男。
「おお、本当に赤い」
未散が妙な感想をこぼす。
私たちの視線の先に、横浜のとても有名な観光地、赤レンガ倉庫が見えてきた。ここが今日の私にとって最も重要な目的地。正確には、その中の一店舗なんだけど。
「そりゃ赤レンガ倉庫っていうくらいだから、赤いでしょ」
「そうだな。しかも横に長い。全部見て歩くか?」
「ううん。行きたい店決まってるから、そこだけでいいよ」
「ふーん。どこだ?」
「まだ内緒」
「何だよ、それ」
不服そうな未散を無視して、私は早足で歩き出した。おいしそうな朝食バイキングを少量で我慢したのは、このためなんだから。
「おしゃれな店だなあ」
未散が店内をキョロキョロと見渡している。
館内見取り図をたどって、私たちは目的のお店である『bills』に入店した。開店前からの行列に一瞬ひるんだけど、運よく一回転目の客として滑り込むことに成功したのだ。幸先がいい。
ここは世界一の朝食を食べられる店。ガイドブックにそう書いてあった。一緒に載っていた写真には、ふわふわのスクランブルエッグとパンケーキ。それだけでのためにここに来てしまった。自分でも結構流されやすいなと思う。
「一気に席が埋まったぞ。すごい人気店だな」
ダウンジャケットをイスにかけながら、未散が周りを見渡す。
「あんまりキョロキョロしないの」
「だって地元にこんなとこないからさ、ちょっとくらいいいだろ」
てっきり「女が行くところだ」とか言って渋るかと思ってたけど、意外にも喜んでいる。良かった。
店員さんが水とメニューを持ってきてくれて、私はメニューを受け取った。
「夏希。ここに来たらこれ食っとけっていう名物は何だ?それにしようぜ」
「うん……」
「……どうかしたか?」
未散がいぶかしげに問いかける。
メニューを開いたポーズのまま、私は固まってしまっていた。
「あ、あのね。ちょっとだけ、思ってたより高いなって」
「見してみ」
メニューを未散に手渡す。
「名物は?」
「リコッタパンケーキと、スクランブルエッグ」
「えーと……見にくいな、このメニュー」
言って、未散も私と同じポーズで固まってしまった。
「夏希」
「ん?」
「この……料理名の最後にサラッと書いてある数字が値段だよな?」
「うん」
「ということは、パンケーキが千五百円で、スクランブルエッグとトーストのセットが千四百二十円?」
「そうみたい」
未散は入り口を振り返った。
「まさかとは思うが、俺たちあの入り口をくぐって異世界に迷い込んでしまったんじゃ……」
「物価だけ微妙に高い異世界なんてあるわけないでしょ」
言って、私はため息をついて未散からメニューを取り返す。
「ごめん、ちゃんと調べてなかった私が悪い。このスコーンなら何とかなるから、これと水でいい」
「ドリンクは?」
「オレンジジュースが八百円の時点であきらめた」
「マジでか。都会の人って、こんな物価でよく生活できるな。もういっぺんメニュー見して」
言って、未散はもう一度私からメニューを受け取った。二度見ても値段は変わらないのに。
「せっかく来たんだし、そのパンケーキとスクランブルエッグ、一つずつ頼もうぜ。ついでにカフェオレも飲みたい」
「えっ!」
「楽しみにしてたんだろ?ホテルのバイキング少なめにしてまで」
気づかれてた!何で今言う!
「でもお金どうするの?私あんまりお金持ってきてないし、ここだけでそんなに使えないよ」
「気にするな。俺が払う」
「……」
「何だよ、その目は」
細い目で見つめる私に、未散は不満げな声を出した。
「お金、お父さんからもらってるの?」
サッと未散が目をそらす。
「やっぱり!お小遣いいくらもらってきたの?」
「別にいくらだっていいだろ」
「いくら?」
私が引かないのを見て、彼はしぶしぶ口を開いた。
「……三万」
「このボンボン!」
「あのなあ」
メニューをテーブルに置いて、未散は言った。
「何」
「父さんは別に、俺に全部使えって意味で甘やかしてくれたんじゃないんだぞ」
「どういう意味?」
「だからさ、その、夏希が俺の彼女になってくれたことを、ずいぶん喜んじゃってさ。娘ができた!とかしょっちゅう言ってるんだよ。子供できなかった人だから」
「そうなんだ……」
未散のお父さん。本当は叔父さんの、お父さん。優しげな顔が思い浮かぶ。
「それで、せっかく東京の方に行くなら、もし二人でどこかへ行ける時間があったら夏希ちゃんのために使えって渡されたんだよ」
「……うん」
何だろう。胸の辺りがほんのり温かい。
「不満か?」
「ううん」
私は首を振って答え、頭をぺこりと下げた。
「ありがたくおごってもらいます」
「おう、感謝したまえ」
「お父さんにね」
「俺はスコーンと水でも構わんぞ」
聞こえないふりをして、私は水を一口飲んだ。
未散のお父さんには、何かお土産を買っていこう。
「そういえばさ、茂谷君のアテって何だったの?」
店員さんに注文してから、ふと思い出して私は聞いた。
未散はなぜか難しい顔になり、言った。
「昨日の試合会場にいた運営のお姉さん、覚えてるか?」
「運営?」
記憶をたどる。新横浜駅の近くにある日産スタジアムが昨日の準決勝の会場。
「ああ、あのスタッフジャンパー着てた綺麗な人?」
「そう、そのお姉さん」
選手たちの注目を一身に集めていた運営スタッフのお姉さん。名前はわからないけど、長い茶髪を後ろで束ねていて、とても愛想のいい可愛い人だった覚えがある。
「まさか」
「うん。あいつ昨日の試合の後、そのお姉さんナンパしたらしい」
「信じられない!負けた直後に?」
「ああ。ほんで今日、朝すぐに呼び出して渋谷の方に足伸ばしてデートするってさ。あのお姉さん、地元の大学通ってる人で、昨日だけたまたま日産スタジアムに配属されたバイトさんだって」
「モテるとは知ってたけど、すごい人だね、君の幼なじみは」
「いや、そうなんだけどさ」
未散はため息をついてあごに手を当てた。
「あいつプライド高いから、どちらかと言うと寄ってくる女子とだけ付き合って、フラれるリスクのある自分からの誘いはあんまりしない方だったんだけどなあ。県大会終わったくらいから手当たり次第に誘うようになったんだよ。お前が桜女に練習に言ってる時、修羅場になりかけた時もあったんだぞ。何か心当たりないか?」
「ない」
「そりゃそうか」
茂谷君だって人間だ。たまたま心境の変化があったって可能性もある。たぶん私のせいじゃない。
だったら何で、こんなに胸がチクチク痛むんだろう。
「小林ー、寒くねえか?」
銀次君が振り向いて言った。元陸上部の銀次君と運動神経ゼロでチビの私が一緒に歩くと、段々距離が離れていく。大体三分に一回くらい、私が小走りになって追いついている計算だ。
彼はそのことに気づいているのかな。
こんなこと考えちゃいけないってわかってるけど。
藤谷君なら、私に合わせて歩いてくれるかな?
「大丈夫。完全装備」
私は右手を挙げて応える。
寒がりの私は何枚も重ね着して、その上にベンチコートを羽織ってマフラーを巻いている。理論上はこれで90%冷気を防げるはずなんだけど、人間は呼吸しなければ生きられない。外に出れば必然的に冷たい空気を肺に入れることになり、結局体の芯から冷えている。筋は通っているのに理不尽に感じるのはなぜだろう。
銀次君の背中に声をかける。
「ねえ銀次君。今からどこに行くの?」
私の彼氏は寒さに強い。コートでもダウンジャケットでもなく、ちょっと厚めのパーカーを制服の上に羽織っているだけ。陸上の選手は冬でもランニングに短パンだから、寒さには慣れてる、と彼は言った。
そして重ね着で膨れ上がった私を見て、
「着すぎだろ。倍になってんぞ」
と笑った。
失礼な。計算では約1.5倍です!
銀次君はなぜか立ち止まり、鼻をポリポリかいて答える。
「あー、その、山下公園ってのが何でも眺めがよくて定番の観光地らしいからよ。とりあえず行ってみようかと思って」
「そ、そう」
「いやか?」
銀次君が心配そうな顔になる。
「ううん、いやじゃないよ。私も興味はある」
「そうか。ならよかった」
露骨に安心した顔になる。
朝食時、自由行動の話が出てすぐに、スマホでそれとなく横浜の観光地を調べてみた。
その中でも山下公園は、恋人たちの定番スポットだと書いてあった。写真には海を眺められる場所にベンチが並んでいて、多分そこに座らせる動線が引いてあるみたい。
花がたくさん植えられていたり、赤い靴はいてた女の子の銅像もあるみたいだけど、ちょっと興味を引かれたのはインド水塔。素晴らしい造形だ。
それはともかく、私たちが付き合いだして二か月。それなりにデートらしきものはあったけど、スパイクをサッカーショップに買いに行くとか、今思えば何だかんだでわざわざ口実を作っていたような気もする。
私はすべてが初めてで、銀次君も硬派というか、極端な照れ屋で私たちはまだ手もつないだことがない。
なのに今日は、恋人たちが行く定番の場所へ何の口実もなく向かっている。
そして銀次君が普段より無口で、妙にそわそわしている。
オクテで鈍い方の私にも、どうやら女の直感というものがあるみたい。
銀次君は今日、キスをしようとしてるんじゃないかって。
どうか考えすぎでありますように。
つづく
当初は主役二人のイチャイチャデート回を一回分書く予定だったんですが、どうしてこうなった。