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横浜編第一話「やり直し」

長いホイッスルと同時に目が開く。


ぼんやりと見慣れない天井を見つめ、ようやくホイッスルが夢の中の音だとわかった。


そうだ、ここは横浜のビジネスホテル。

全国大会に出場した俺たち本河津高校サッカー部は、このみなとみらい駅から数駅離れたホテルを本拠地にして、他県の代表と戦ったんだ。


首を横に向けて、隣のベッドを見る。クジで決まった同室の伊崎がベッドからずり落ちそうな寝相で熟睡している。なぜこれで起きない。


だいたい今何時だ?


枕元のデジタル時計を見ると、まだ五時半。

俺は大きく息をついて起き上がり、伊崎の体をベッドの中央に戻してやる。体全体が重いし、関節もところどころ痛む。他のみんなも同じだろう。

ついでに落ちかけている羽毛布団もかけてやる。風邪ひいてうつされたらかなわん。


……早朝から何やってんだ、俺。


洗面所で顔を洗い、とりあえずジャージに着替える。

全室空調が効いているとは言え、一月の早朝はさすがに寒い。日の出までまだ一時間以上ある。外は真っ暗だ。


そういやホテルの近くにコンビニがあったっけ。何か温かいものでも買ってくるか。


ダウンジャケットを羽織り、財布とスマホとカードキーをポケットに突っ込み、入口に向かう。


「ん?」


LINEの着信音。

画面を見て、多分俺はしまりのない顔になっていたと思う。


夏希からだった。


『目が覚めちゃった。起きてる?というか起きろ』


何という理不尽。


元々俺をからかって遊ぶようなところはあったけど、ここ最近はさらにひどくなった。ただし少し傾向が変わってきて、大人っぽい意地悪から、妙に子供っぽいわがままをぶつけてくるようになったのだ。

これも付き合ってみなければ分からなかった広瀬夏希の一面であり、信頼の証なのだろうとは頭ではわかる。

しかし経験不足ゆえ、同い年の彼女をどうやって甘やかせばいいのかどうにもピンと来ない。子ども扱いし過ぎるのもあれだし。


とりあえず返信を送る。


『俺もちょうど目が覚めた。コンビニ行ってくる』


すぐに夏希から返信。


『私も行く!すぐ行くからフロントで待ってて』


俺は『わかった。待ってる』とだけ返信し、部屋を出てエレベーターへ向かった。自分の顔を手でなでる。あまりニヤニヤしないように気を付けよう。



「おはよ」

フロントに着いてから数分後、愛しい彼女がエレベーターから降りてきた。

女子は身支度に時間がかかり、男子は待たされるものだと聞いていたが、幸い夏希は「すぐ行く」と言ったら本当にすぐ来てくれるタイプだ。実に頼もしい。


全国大会直前に少しだけ短くした髪は、多分初めて出会った頃と同じ長さだ。夏希は覚えていないだろうけど。

俺としては長い髪の方が好みなのだが、髪を短くして「どう?」と聞かれたら「似合う」としか言えないではないか。それくらいの学習能力はあるのだ。


上にはいつか見た茶色いコートを羽織っていて、下は制服のスカートなのかはわからないが、脚には黒のタイツをはいている。口には出さないが、心の中で「グッジョブ!」と親指を立てる。

「おす。寒くないか?ジャージはいてこりゃ良かったのに」

俺が言うと、夏希は両手を広げた。

「ジャージじゃこのコートと合わないでしょ」

「いや、わからん。そういうもんなのか」

「そういうもんなの。それに」

「それに?」

夏希は得意げに笑い、右足で俺の足を軽く蹴ってきた。

「黒タイツ、好きでしょ?」

「べっ……別にそこまで好きってわけじゃ」

「はいはい、顔が好きって言ってるよ」

言って、さっさとホテルの出口に歩いていく。頼もしいを通り越して、ただのせっかちだ。


それにしても、と俺は考える。口では彼氏をからかいながら、着る服は好みに合わせてくれるって、一体どっちが本当なんだろう。女は難しい。


朝六時前の横浜の街は、とても静かだった。

先週ホテルに着いたときは、何て車の多いゴミゴミした街だと顔をしかめたけど、慣れればなんてことはない。コンビニからドラッグストアからスーパー銭湯までホテルの近くに揃っていて、とても使い勝手のいい街だ。引率の江波先生は初日から毎晩スーパー銭湯に通っているし。

……いや、そんなことはともかく、寒い。というより世界全体が冷たい。ほほが冷気でピリピリする。鼻に入ってくる空気が肺まで伝わり、体の芯から冷えそうだ。


隣を歩く夏希をちらりと見る。


白い肌、涼しげながらパッチリ開いた大きめの瞳。そして長いまつげ。スッと通った鼻筋の下には、薄いピンク色の唇が白い息を吐いている。


付き合い始めてから間もなく、夏希は毎週日曜に桜律女子サッカー部の練習に参加させてもらうようになっていた。俺としては、日に焼けて白い肌が真っ黒になったり、妙に筋肉質になったらイヤだなとひそかに心配していたのだが、今のところそこまでの変化はない。本人にその心配をぶつけてみた時は、「ちょっとは焼けるかもしれないけど、ムキムキにはならないって。一条さんも有璃栖もそこまで筋肉質じゃないでしょ?」と軽く否定された。とりあえず一安心だ。


ふと思い出す。


全国大会へ行く一週間前。俺の誕生日である十二月二十四日。全国の強豪たちと互角に戦うためには大人の男にならねば、というやや強引かつ身勝手な理由でお願いしたこと。

夏希は「いいよ」と言ってくれた。


そして彼女は約束を守った。


もう一度隣の夏希を盗み見る。

コートの下に隠れている凹凸のはっきりとしたスタイル。今は白い息を吐く唇から、普段の素っ気ないほどの口ぶりからは想像もできない甘い声が漏れたことも、同時に思い出す。


やばい、顔が熱くなってきた。あと他のところも。


「ねえ」

「ん、ん?」


突然声をかけられて、心臓が止まりそうになる。大丈夫か?今俺、ニヤニヤしてなかったか?

しかし夏希は気にしたふうもなく、

「ここでしょ?コンビニ。入らないの?」

と親指でさした。

そこには、丸と星とハートのマークを掲げた青い看板のコンビニがあった。神奈川県ではメジャーなコンビニチェーンだ。

「そ、そういやここだったな。地元に無い店だから、つい見逃した」

「早く入ろうよ。寒い」

夏希が肩を縮めて抗議する。

「おお、すまん」

足を踏み出し、自動ドアが開く寸前、夏希がツツツと近づいてきて、俺の耳元でささやいた。

「何考えてたの?スケベ」

「へっ?」

横を向いた俺は、開きかけの自動ドアに思いっきり顔をぶつけた。夏希の笑い声が聞こえる。

この女は本当に俺が好きなのだろうか。痛む顔を撫でながら、つい真面目に考えてしまった。


入ってすぐの新聞の束から、昨日買い損ねたTスポーツを手に取る。日本で一番有名な夕刊だ。真ん中あたりのいかがわしいページは後で芦尾にやろう。あ、でも裏一面の四コママンガは見たいな。

また忍者かヒゲのおじさんが出てるんだろうけど、そのマンネリがいいんだ。


夏希と並んで雑誌コーナーから一通り見て歩く。


気のせいか?


入店してからずっと、レジから若い男性店員の視線を感じる。昨日の準決勝、テレビで試合を見ていたのだろうか。自分ではまだ放送を見ていないので、どれだけアップで映ったかはわからない。

覚えられるほど映ったのかな。


夏希がホットドリンクのコーナーにいつのまにか移動して、すでに何かを手に取っている。何かはだいたい想像つくけど。


「決まったか?」


俺の声に、夏希が振り返った。右手と左手、両方におしるこドリンクが握られている。

「迷ってる」

「両方同じに見えますけど」

「一本買うか二本買うかで迷ってるの」

「ホットドリンクはすぐ飲まないと冷めちゃうから、ストックで買うのはオススメしないぞ」

「誰がストックって言った?」

「二本いっぺんに飲む気かよ!」

「だから迷ってるって言ったでしょ?」

夏希がシレッと言い放つ。ダメだ、ついていけない。


俺は「二本でいいと思うよ」と棒読みで答え、新聞とホットカフェオレを持ってレジに行った。ついでに肉まんも買おう。伊崎の分も買って行ってやるかな。

夏希が俺の後ろに並ぶ。多分おしるこ二本買いだろう。見なくてもわかる。


「肉まんも二つください」

「は、はい」


若い茶髪の店員さんがやはりチラチラと俺の顔を見ている気がする。どうしよう。「高校サッカー選手権に出てた選手ですよね?」なんて聞かれたら、どう答えようか。一応、心の準備だけはしておかなくては。サインや写真を求められたらどうするかな。断ったら感じ悪いかな。

肉まん二つを紙に包み終え、レジ袋に入れる段になって店員が意を決したように口を開いた。

「あ、あのー」

「は、はい」

やばい、ドキドキしてきた。

しかし店員さんは、

「いや、君じゃなくて」

と言って、俺の後ろに視線を向けた。

「私ですか?」

夏希が聞き返す。

「そう、君。君さ、この子だよね?」

言って、店員が俺が買ったTスポの裏一面を開いて見せた。

「あっ」

「わっ」

二人同時に声を上げる。


タイトルは『全国高校サッカー選手権で見つけた、勝利の女神たち』。


掲載されている四人の女の子たちの中で、ひときわ大きな写真で夏希が映っていた。

「うわ……あれだ、やっぱり。変だと思ったんだー」

顔をしかめた夏希がブツブツ言っている。

そういえば一回戦が終わった後、何人かの記者に夏希が囲まれていたことがあった。あの時は、大会後に大手新聞社から発売される『高校サッカー特集号』か『週刊サッカージャーナル』の取材だと思っていたが、どうやらゲスな新聞社が一社混じっていたようだ。

そんな新聞を真っ先に買おうとしていた俺も俺だが。


「いやあ、店入ってきた時から、そうかなーって思ってたんだけどさ。そうだよねー。実物の方がもっと可愛いよー」

そのままナンパしそうな勢いで店員がまくし立てる。


……つまり俺のことは全然気づいてなかったということか。恥ずかしい。さっさとホテルに戻って二度寝したい。


夏希が困ったような愛想笑いを返していると、店員は俺に視線を向けた。

「えっ、じゃあ君は……」

「……何ですか?うちのマネージャーをナンパしないでくださいね」

ぶっきらぼうに言い返す。店員は笑顔でうなずいた。

「わかってるよ。君あれでしょ?女の子一人じゃ危ないからって、ボディーガードでついてきた補欠の選手でしょ」

夏希が顔をそらして、肩を揺らしている。チクショウ、覚えてやがれ。

「ええ、まあ、そんなところです」

「で、どうなの?君のところ……もと……こうつ?」

「もとかわつです」

「へー、そう読むんだ。勝ってるの?」

俺はため息をついて答えた。

「昨日、準決勝で負けました。今日帰る予定です」


コンビニを出てからずっと、夏希は笑いどおしだった。

真っ暗な早朝の街だけど、たまに車が通り過ぎていく。通行人もちらほら見える。今から仕事か、それとも夜勤帰りか。どちらにせよ、都会で暮らすのも大変だ。


「笑いすぎだ。いい加減にしろ」

さすがに気分が悪い。別に地味なルックスの俺が知られていないのは構わない。慣れっこだ。

「……ごめん。怒った?」

夏希が下から俺の顔をのぞき込んでくる。

俺はそっぽを向いて、

「別に」

と答えた。我ながら白々しい。

「どう見ても怒ってる」

「……もし怒ってるとしたら」

昨日の試合。俺が放った最後のシュート。ポストに当たったあのシュートを思い出す。

俺は言った。

「あんなチャラチャラした店員に、わざわざ昨日負けたって言わされたことに対してだ」



それからしばらく、夏希はおしるこドリンクを飲みながら黙って俺の隣を歩いた。俺は俺で、Tスポの裏一面を歩きながら眺めている。


彼氏バカと言われても仕方ないが、やはり夏希が一番可愛いと思う。どうせ「おだてても何も出ないよ」くらいしか返ってこないから言わないけど。


それにただでさえ目立つルックスなのに、こんな風に新聞に大きく載ってしまって、芸能事務所からスカウトが来たらどうするんだ。

夏希にそう言うと、一瞬きょとんとした後、笑いだした。

「彼氏バカにもほどがあるよ、未散は。スカウトなんて来るわけないじゃない」

「何で言い切れるんだよ」

「だってもしスカウトされるんなら、この新聞に載る前に話が来るはずでしょ?」

「む、確かに」

「私のことよりそっちはどうなの?」

「何がさ」

「スカウト。何人か話しに来てたの見たよ」

「お、おう」


こっちのスカウトは、プロチームのスカウト。二回戦を勝ち抜いた後、二チームのスカウトのおじさんが声をかけてきたのだ。

両方ともこれから二部リーグ昇格を目指す新しいチームだった。俺がまだ二年生ということで「進学なのかプロ志望なのか」をそれとなく聞きたかったらしい。

とりあえず曖昧な答えに終始して名刺をもらうだけで済んだけど、あまり具体的に考えてこなかった問題が急に現実味を帯びてきた格好だ。


「ほら、あれだよ。即プロ入りするつもりあるの?とかそんな感じ。世間話の延長だ」

「そりゃ、有名になってからだと手のひら返しになるからね。早めに粉かけなきゃ」

他人のことになると急にシビアになるな。

「俺としてはすぐにでも稼げるようになりたいんだけど……父さんがな」

「進学しろって?」

「ああ」


一応父親にも、それとなくプロを目指そうかな、と言ってみたことがあるのだが、割と強めの口調で「大学へ行け。学費は心配するな」と言われたのが一か月前。

てっきり「好きにしていい」と応援してくれるものと思っていた俺には結構意外な反応であり、それ以来二人でこの話はしていない。


「お父さんはさ、未散が可愛いんだよ」

「何だよ、急に」

「プロスポーツ選手は、いい時はほんの一瞬。ケガ一発で運命が一転する残酷な世界でもあるから。できたら大学を出ておいてほしいっていうのは、親なら普通の発想じゃないの?」

「そりゃわかるけどさ……というか何でお前が親目線なんだよ。同級生だろ」

「間近で実例を見てたから」

「ああ……」


広瀬コーチ、いやもう監督と呼ばなきゃいけない。元プロサッカー選手にして、広瀬夏希の兄。そして俺がひそかに憧れていた選手。


一番の充実期を控えで過ごし、移籍したチームでやっと活躍しだした途端、ヒザの靭帯を断裂。ケガ自体は治っても本調子にはとうとう戻らず、結局若くして引退してしまった。


その結果として、うちのサッカー部の練習を一週間見てくれたりして県大会優勝に力を貸してくれたわけだから、それがよかったかどうかは何とも言えない。


「夏希も……その、俺がすぐにプロに入るのは反対か?」

聞くと、彼女はしばらく「うーん」とうなった。

「未散が決めたことなら、私は何も言わない。応援する。でも」

「でも?」

「大学のサッカー部は、やっぱり上級生との人間関係とか、指導者との相性が重要だと思う。そういうの苦手でしょ?」

「……痛いところを突くなあ」

「それに、もしこのチームは合わないって思っても、大学はすぐ移籍ってわけにはいかないし。中退なんかしたら、それこそお父さんが悲しむよ」

「そこまでは考えすぎだと思うけど……」

「お金で負担かけたくないの?」

「それは、なくはない」

物心つくかどうかくらいで引き取られ、息子として育てられた。今さら本当の親子じゃないなんて引け目や負い目は無いつもりだ。いや、少しはあるかな。

でもそれ以上に最近よく考えるのは、夏希がこれから大学行ったりバイトしたり就職したりしていく中で、やはり行く先々でルックスに寄ってくる男どもがその都度現れるであろうということだ。夏希ははっきり自己主張するタイプだから浮気は無いだろうと信じたいのだが、早めにプロになって稼いで、それくらいでは動じない自信のある大人になりたい。

こんな話はとてもじゃないが夏希には言えないのだ。


特に浮気云々の話は、

「久里浜とお茶したくせに」

有璃栖ありすとイルミネーション見に行ったくせに。私に内緒で」

と不毛な言い合いになったことが何度もある。そして俺の方が圧倒的に分が悪い。


それとなく話をそらそうと、俺は再びTスポを広げた。

「記事もいいこと書いてあるぞ。部員たち、特に後輩の一年生たちに慕われている姉御肌、だってさ」

姉御。ちょっと笑える。

「いちいち読まなくていい!」

夏希の抗議の声とともに、ほっぺたに温かいものが押し付けられる。

「うわっ、何だよ」

「おしるこ、あげる」

俺の目の前でおしるこの缶をぶらぶらさせる。自分の好きなものは相手も喜んで当然だと思っている。こういうムダなところは女っぽいなと思う。

「いいのか?二本いっぺんに飲むんだろ?」

とりあえず受け取り、聞いてみる。温かい缶が冷たい手に染み渡る。

「飲むよ、二本」

言って、夏希は腕にかけているビニール袋を持ち上げた。

袋の中には、缶のシルエット。もう片方の手には飲みかけの缶。

「三本買ったのか!」

「つい」

「ついじゃねえよ。本当に太るぞ」

「動いてるから太らないもん」

「ほー」

目を細めて聞き流し、おしるこのフタを開ける。何だかんだで付き合わされて、実は俺もハマッているクチだ。特に冬はいい。


「ん?」


見ると、夏希が口をとがらせ、なぜか恨めしそうな目つきで俺を見つめている。何か怒らせたか?

「何でしょうか?」

「太ったら、好きじゃなくなっちゃう?」

「は?」

一瞬耳を疑った。

「いや別に、スタイルのみが理由で好きになったわけじゃないから、嫌いになんてならないけど」

この女がこんな可愛いこと言うなんて。

「よかった」

満足げに笑うと、うまそうに缶をあおった。俺は色々と言いたいことをとりあえず収めて、同じく缶をあおる。温かいあんこの甘みが口中に広がっていく。


いつも。

そう、いつもこうだったら。

夏希が今みたいに素直に可愛く甘えてくれれば、俺だって彼氏としてしっかりしようと思えるのに。



ホテルに戻ると、エレベーターの前でベテランの女性職員さんが小さなテーブルに朝刊を積み上げていた。無料でもらえるやつだ。彼女は俺たちに気づき、笑顔で頭を下げた。

「おはようございます」

「あ、ど、どうも。おはようございます」

「おはようございまーす」

つい口ごもった俺とは違い、夏希はこういう時サラッとあいさつを返せる。兄貴のことを『外面魔王』などとしょっちゅう揶揄するけど、妹の夏希もしっかり同じ血を引いていると思う。

「昨日は残念でした」

上品な物腰で、本当に残念そうに彼女は言った。思わず夏希と顔を見合わせる。

「試合、見てくれたんですか?」

「ええ、もちろん」

彼女は声をひそめて、俺たちに顔を寄せた。

「内緒ですよ?昨日は仕事中も、カウンターの下のスペースにスマホ置いてテレビ映像流して、ずっと試合をチラチラ見てたんです」

「そうだったんですか。すみません、ご期待にそえなくて」

夏希が笑って答える。

昨日の試合後、他の誰よりも悔し泣きしてたくせに。


職員さんはあまりサッカーに興味がありそうには見えないが、やっぱり宿泊しているチームはひいきして見てしまうものなのだろう。勝ち進めばそれだけ大口の客が延泊するから、とは言うまい。

そこまでひねくれたことを言ったら夏希に本気で怒られそうだ。


「こんなことお願いしていいのかわかりませんけど」

今度は視線が俺に向けられた。

「は、何でしょう」

「藤谷さんのサインをいただきたいんですけど、よろしいでしょうか?」

「サインですと!?」

サイン。有名人なら皆持っているボールペンの試し書きのような、ウニョウニョした謎の図形。

「ええ。だってあなたは、絶対にプロ選手になる人でしょう?素人の私にも、一番うまいってわかりましたよ」

「そ、それはどうも」

不意打ちに顔が赤くなる。夏希をチラリと見ると、意外にも冷やかす様子はなく、なぜか自慢げな顔になっていた。意味がわからん。


パタパタとフロントに戻って、なぜか用意してあった色紙を差し出される。

俺は『本河津高校サッカー部 10 藤谷未散 2020 1.7』とほぼ普段通りの字で書いた。だって他に書きようが無いし。

職員さんは嬉しそうな顔で、

「ありがとうございます!」

と少女のように喜んでくれた。どうしよう。何だか胸の辺りがむずがゆい。


彼女は言った。

「ところで、明日はすぐに帰ってしまうんですか?」

何となく再び夏希と顔を見合わせる。

「ええ、新幹線の時間次第ですけど、そのつもりです」

「そうですかー。私、地元出身なんですよ。だからできれば、横浜の楽しいところも観光していってほしかったんですけどねえ」

観光。確かに楽しそうだ。でも一応部活の一環として学校のお金で来ているわけだから、丸一日遊ぶというのは難しいだろう。


……ん、待てよ?そうでもないかも。


職員さんと別れて、二人でエレベーターに乗り込む。俺たちは六階。女子は五階だ。

「何か考えてる?」

エレベーターが動き出してすぐ、夏希が言った。

「相変わらず鋭いな」

「未散が分かりやすいの。で、何?」

「今の職員さんが言った、横浜観光の話。新幹線の時間夕方にすれば、日中ちょっとは遊ぶ時間作れないかなって。みんなの慰労も兼ねてさ」

夏希は目を大きく見開き、やがて笑顔になった。

「うん、いいと思う。みんなも喜ぶよ」

「江波先生、許可するかな?」

「大丈夫。あの人は酒と温泉があれば何でもいいんだから」


エレベーターが五階に近づく。俺はバレないように深呼吸して、口を開いた。


「あとさ、これはみんなに内緒なんだけど」

「うん」

「えっと、五月の修学旅行の時、さ。まだ全然お前と仲良くなかったし、もちろん二人で自由行動なんてありえなかったわけで」

「あー、修学旅行ね。あの時も東京と横浜だったけど、あんまり印象にないなあ」

「俺もだ。だからさ、修学旅行のやり直しっていうのは変だけど、今日二人で横浜観光できたらいいなって、ちょっと思ったんだけど」

やばい、汗出てきた。夏希の顔がまともに見られない。今さら照れる間柄でもないというのに。

エレベーターが五階に着いた。扉が左右に開いていく。


「未散」

「ん?」


顔を向けると、視界が夏希の顔で一杯になり、柔らかな体が押し付けられる。そして唇に柔らかいものが触れた。

「なっ……」

「嬉しい。そういうこと、ちゃんと考えてくれて」

言って、夏希はエレベーターからジャンプして降りて行った。こちらに向き直り、少し照れたような表情を見せる。

「楽しみにしてる。二度寝しすぎて寝坊しちゃダメだよ」

「ああ……わかってる」

「それじゃ、後で」

「お、おう」

手をひらひらと振って、俺は愛しい恋人としばしの別れを告げた。何となく唇に手が行ってしまう。

……破壊的に可愛いぜ、チクショウ。


俺はニヤける顔もそのままに、エレベーターを六階で降りて自分の部屋に向かう。


「はうあっ!」


わざわざ言い訳する必要もないが、俺は心霊現象のたぐいは信じないタチだ。なぜ女幽霊はみなロングヘアで白いワンピースなのか。ショートカットでズボンをはいていた時に未練の残る死に方をした女の人がいたかもしれないじゃないか、といつも思う。誰に言っても苦笑いされるだけだから言わないけど。


そんな俺でも、自分の部屋の真ん前に白い人影がうずくまっているのを見てしまうと、やはり声が出てしまうのは当然だと思う。

その白い影は、俺を見るなり、おもむろに立ち上がった。そしてふらふらとこちらに近づいてくる。


「……キャープテーン、どこ行ってたんですかー」

「……伊崎か?」


何のことはない。ホテル備え付けの白い部屋着を着た伊崎が廊下にうずくまっていたのだ。おどかしやがって。

「お前何やってんだよ。風邪引くぞ」

歩み寄って言うと、伊崎は泣きそうな顔で自分の両腕をさすった。

「だってさっき起きたら、隣のベッドからキャプテンが消えてたから、慌てて外に出ちゃって」

……なるほど。

「オートロックに締め出されたのか」

「はい」

「で、部屋に入れなくなって寒さをこらえながら俺の帰りを待っていたと?お前は本当にしょーもない期待に応えるヤツだな」

「だってえ……ぐすっ」

「こんなことぐらいで涙ぐむな!だいたいあそこの受話器でフロントに連絡すれば開けてもらえるだろうが」

「そんなことしたら、いかにも地方の田舎者が不慣れなオートロックに締め出されたみたいでカッコ悪いじゃないですか!」

「実際その通りだろうが!何でこんな時だけ見栄張るんだよ」

カードキーでドアを開けながら、俺は思った。

こんな頼りない一年たちを大都会で自由行動させて、本当に大丈夫なのだろうか。



寝ている紗良ちゃんを起こさないように、私はゆっくりと部屋に入り、静かにベッドに入った。頭から布団をかぶり、両手で顔を押さえる。


……我ながら、大胆すぎたかな。未散の部屋ならともかく、誰もいなかったとはいえ公共の場で自分からキスしてしまった。どうかしてる。

でも「二人で修学旅行のやり直ししよう」っていう提案はすごく嬉しかった。誰にも言わなかったけど、実は心残りの一つだったのだ。何でうちの学校は修学旅行の日程があんなに早かったのか。文化祭は遅いくせに。


寝返りを打って、ふかふかの白い枕に顔をうずめる。


……未散と付き合う前は、自分がこんなにベタベタイチャイチャしたがる人間だとは思わなかった。絶対未散の方がくっついてくると思ったのに。あいつ意外と冷めてるし。

絶対やせ我慢してると思う。いつか問い詰めてやる。向こうも同じ気持ちのはずだ、絶対。


しばらくベッドでゴロゴロして、私は二度寝をあきらめた。

ベッドから降りて、テレビの横にある『みなとみらい観光マップ』と書かれた小冊子を手に取る。

再び布団にもぐり込み、スマホの明かりで冊子に目を通す。

そして私は、一時間後に紗良ちゃんに起こされたことで寝落ちしていたことを知ったのだった。


横浜デート編へつづく

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