210.5 記録Ⅰ
私の……私の記録する『私』の記憶。
始まりはいつからか、あまり昔のことは思い出せない。
色々と私に、『私』に関する複雑な思いはあるけど、それでもあまり昔のことは思い出せない。
それは私の問題だろう。『私』が記録を残せるようになったその日はその昔よりも後だったから。
だけど、私の『私』の記録、その中でも、『私』が記録を残せるようになった日よりも前の記憶で、とても鮮明で、とても眩しく、とても大きな、とても輝かしい記録が私の中にはある。
だからだろう。私がそれよりも昔のことを思い出すことができないのは。
『私』にとってそれよりも昔のことはその記憶に塗りつぶされ、記憶の彼方へとなった。
だから記録にあまり残っていない。
それでもいい。私にとってその記録はとても重要なことだから。
むしろそれだけがあれば十分だろう。
私が『私』から生まれるきっかけ、その記憶、その記録の始まり。
それは海岸でのスライムとの出会い。それが始まりだ。
その当時の私は親からあまり構ってもらえなかった。
別に親と仲が悪いとか、私が虐待されていたとかそういう理由は全くない。
扱いが悪かった、といえば悪かったのかもしれないけど、どちらかというとそれが普通の扱いだったのだと今は思う。
私は女の子として生まれたから。私はお姉ちゃんだから。
だから、だろう。私が我慢するのが普通だという扱いだったのは。
別に親としてはそれが悪いことではなかったのだろう。
他の親だって同じようなものだと思う。
ただ、それを今なら理解できても、子供心に理解しろなんて言うのは無理だった。
特に私の場合、私の扱いはかなり悪かったし。
まあ、それも家の事情が大きく関係していたみたいだけど。
私の生まれた家は旅商人だった。
どこかの街、村、都市に定住せず、様々な都市を巡る旅商人。
はっきり言ってそれは結構過酷で大変な仕事だ。でも必要なことでもある。
旅商人と言っても、基本的にその仕事の大半は輸送。
様々な場所で必要な物を運ぶのが仕事。
旅で移動するルートは基本的に同じで、同じ時期に同じ場所に移動する。
必要なものは毎回同じで大きな変動はない。
それゆえに、ある程度一定量を運べばそれなりに安定する。まあ、信用はいるみたいだけど。
それに単純に毎回同じ分だけ持っていくというわけにもいかない。
その年の状況によっては増やしたり減らしたりも必要。
お金に関しても、毎回同じ額じゃない。年によって値段も違う。
まあ、そんなこと私は知らないし、別に知る必要もなかった。
そんなふうに旅をしながらお金を稼ぐ、大変な仕事が私の家族の仕事だった。
ある程度安定していたけど、いつ何が起きて大きく状況が変化するかもわからない。
私はその家に生まれた上の子。
少し大きくなるまで育ったけど、そこで私の下に子供が生まれた。
それは弟だった。妹だったなら、まだそこまでではなかったかもしれないけど……弟、男だったから大きく変わってしまった。
別に商人の家系に関わらないけど、家を継ぐのは男の子、長子の男というのはどこでも風同じ習だった。
だから、私の親は私よりも弟を優先した。
別に変なことじゃない。家を継ぐ子を優先的に扱うのは普通だと思う。
それに、弟は生まれたばかりの幼い子供。それを優先しない理由がない。
元気で成長して病気とかの心配もすぐにはない私よりも、弟の方を構うのは普通。
もし弟が死んでしまえばそれこそ大変だから当然だと思う。
でも、私はそれを理解できなかった……ううん、理解はできてかも?
ただ、それを素直に受け入れられるほど、私は大人じゃなかった。
確か、私の年齢は五歳くらいだったかな?
そんな子供に大人の事情を理解しろと言われても困る。
だから私はその当時、とても無口で……不愛想というか、不満そうなそんな感じだったと思う。
親はそんな私のことを……気にしていなかった。気にする余裕もなかったんだと思う。
弟の世話で手一杯、弟のことで頭がいっぱい。将来のことだって大変だろうし。
私はその当時はいつも不貞腐れるように、一人で遊んでいた。
もっとも、旅商人の仕事で遊べるような機会なんてほとんどない。
街でもあまり滞在することはない。たまにゆっくりできるけど、それくらい。
友達なんていない。作る余裕もないし、ちょっとの間だけ友達でどうするの。
だから一人で遊んでいた。
その日は海岸沿いを進んでいて、海岸でゆっくりしていた。
あまり離れるなとは言われたけど、それくらい。
言われた通りあまり離れることはしなかったけど。
海は危険、なのはわからなかった。
ただ、あまり近づく機会もなかったし、何か怖くて近寄ることはしなかった。
今は別に近くならそこまで危険じゃないのはわかってる。まあ、無理に近づかないけど。
近くに岩場があったからそのそばに寄ってみた。特に別に何か目的があったわけじゃない。
退屈しのぎ、どうせ何も起きない、何もない、何も意味はない、そんな生活だったから。
でも、その時私は運命に出会った。
私の今までのすべてを塗りつぶし、すべてを塗り替えたその存在に。
それはスライムだった。私の知る限り、唯一無二の、特別なスライム。
今では他のスライムのことを知っているけど、それだけは例外的な存在だった。
今でもよくわからないままだけど、あれは本当にスライムだったのか疑問なくらい。
そこにいた、それを、私は見つめた。特に動く様子はなくて、なんだろう、と私は興味を持った。
なんで動かなかったのかは理解できない。
でも、もしかしたら私程度どうとでもなったからかもしれない。
それに私は手を伸ばす。
手を伸ばし、触る。ぷにっとして、弾力があって、柔らかく、掴みがいのあるぷるぷる。
他のスライムでは同じようなことはできない。本来スライムはとても弱い生き物だから。
そもそも、強くてもあれくらいにぎゅっと掴んで力を入れて大丈夫なスライムはいない。
基本的にスライムのぷるぷるとした液体っぽい部分ってあそこまでぎゅっと掴めるようなものじゃない。
あの大きさのスライムなら、まずあの柔らかさはありえない。そういう意味でも唯一無二!
ちょっとなんか元気出た。えっと、そのスライムをぎゅっと私は抱きしめた。
なんでだろう? たぶん、なんか、柔らかくて、癒されるからかな?
ちょっとこの時の私は今もあまり理解できないかな。
まあ、そのスライムを抱きしめて、抱きしめて、抱きしめて……いいなあ、と私は思った。
だってとても柔らかくてとても癒されて……それはその時確かに私の物だと思えた物だったから。
当時の私に財産はない。子供だし。
持ち物もほとんどない。旅商人だからあまり持ち物を持てない。
弟がいて、唯一私が持っていた者だった親を奪われた。
私にとって、私だけの唯一の物はない。
もともと親だって別に私の所有物ってわけじゃないから変な話だけど、その時のは私には何もなかった。
だから私はそれを欲しがったんだと思う。
持って帰って、見せびらかして、私の物だって言いたかった。
それが私のそのスライムの……今の私を作り上げる、『私』にとって一番の出会い。
それが『私』が今の私を生み出した。
とても大きな、とても重要な、とても大切な、想いの始まり。
そんな、昔々の私の記録。『私』の記憶。




