八月九日の鎮魂歌
俺のじいちゃんは、長崎で被爆した。
高等専門学校卒でエリート技術者だったじいちゃん。軍需産業に携わる者には徴兵免除の特例があったらしい。戦場に送られることはなく、地元長崎の造船所で毎日働いていた。
昭和二十年八月九日 午前十一時二分 爆心地から約三キロ離れた職場。
カメラのフラッシュを何千何百と同時に焚いたような閃光に、じいちゃんは包まれた。
そして超高温の熱線を含んだ突風が、じいちゃんと周りの人々を襲った。
そのあと、彼がどうやって生還したのか、俺はよく知らない。
小さい頃は、よくじいちゃんと一緒に風呂に入ったけど、目立った傷は無かったように記憶している。
じいちゃんはあんまり自分から被爆体験を話したがらなかった。
小学校高学年の夏になると、おじいちゃんおばあちゃんに戦争体験を聞くっていう授業があった。
聞いてきた話を作文にまとめて、クラスのみんなの前で発表するのだ。
ウチは片親で母親はいつも仕事で忙しかった。だからじいちゃんによく遊んでもらってた俺は、早速話を聞いてみた。
原爆の被害にあってから七十年間は草木も生えないと言われた市街地。
今では街路樹が生い茂り、路面電車が石畳の街を行き交う。
暑いさなかでも、観光客は元気いっぱいだ。
若い女性の二人組が教会をバックに、はしゃぎながら記念写真を撮っている。
坂の街、港街、中華街、キリシタンの街、そして……祈りの街。
周りに洋館が立ち並ぶオランダ坂を二人並んで歩く。
時々、じいちゃんは自分の好きな歌を口ずさんでいた。
のどが渇いたと言ったら、自販機で缶ジュースを買ってくれた。
それが、また汗になって、俺のよれよれのTシャツにへばりつく。
そして、じいちゃんはぽつりぽつりと語り始めた。
軍需工場で働いてたから、海軍の将校からおこぼれをもらって飲んだ特級酒が美味かったとか、勤労動員でやってきた女学生に仕事を教えるのが密かな楽しみだったとか、その時にばあちゃんと知り合ったとか、そんなことばっかり話してくれた。
なんか……俺の期待していた話と違った。
戦争中って楽しかったのか?
そんなことはあるまい。学校で習う歴史も、みんなが発表する内容も、悲惨な事柄ばかりだ。
じいちゃんの話をそのまま学校で発表してもウケないだろうなと、俺は子ども心に感じていた。
だから母親から断片的に聞いていたじいちゃんの被爆の時の話や、原爆について自分で調べたことをみんなの前で発表した。
被爆地である長崎。
ちょっと図書館に行けば、調べる方法はいくらでもあった。
内容が、ちょっとリアル過ぎたんだろうか……
みんなから称賛を浴びる予定が、逆にドン引きされてしまった。
直接イジメてくるようなヤツはいなかったが、
みんな腫れ物に触るように俺に接するようになった。
「コイツと遊ぶと原爆の病気がうつる」
みたいなことを陰で言われて、俺はしばらくハミゴ(仲間はずれ)にされた。
言い忘れていたが、俺には体の所々(特に右膝のあたりがヒドイ)に大きいヤツで直径二センチほどの白いシミのようなものがある。小学校低学年くらいから体にでき始め、成長するにつれてそれはだんだん大きくなっていった。
クラスメートもそれを知っているから、原爆=病原菌 みたいなのはますます現実を帯びていった。
ちなみにそのシミは母親にもある。
原爆の放射能の影響だろうか……?
そんなのも、俺の心を歪めた原因になった。
別にじいちゃんが悪いわけじゃないのにな。
俺は仲が良かったはずのじいちゃんに、だんだんつらく当たるようになった。
元々、じいちゃんには懐いてたんだけどな。
俺の名前も、じいちゃんが考えたものだし。
大きな志を持ち歴史に名を刻むみたいな、そんな大層な想いが込められてるんだけど。
学校の授業に対する反発心からか、ネットや書物に影響され、右翼的な発言もした。
なんで日本は弱腰なんだ。アメリカの言いなりになってばっかりだ。日本だって一人前の国として武装すべきだ。
そんな、ネットの書き込みをもろにうけたような意見をじいちゃんにぶつけたりもした。
その時のじいちゃんは、すごく悲しそうな顔をしていた。
普段の優しい鳶色の瞳を釣り上げて、
口の端をきりっと結んで、じっと黙って俺の方を見つめていた。
本当は色々、言いたいことがあったんじゃないかな。
俺が中学の時に、じいちゃんはガンで死んだ。
八月の暑いさなかのことであった。
カーテン越しに夏の日差しが照りつける、簡素な病室。
古びた白い壁にはシミのようなものが幾つも浮かんでいる。
閉め切った窓の外から、セミの声がかすかに聞こえる。
痩せ細って、それでも必死に声にならない何かを語りかけようとするじいちゃんの真剣な表情を今でも思い出す。
入院生活は半年くらいで、今から思うとあっという間だった。
今まで元気だったじいちゃんがある日突然倒れて、精密検査の結果、ガンは全身に転移していた。
孫はいるけど、平均寿命から比べるとかなり早すぎる死。
放射能が、じいちゃんの体を蝕んでいたのだろうか。
原爆のせいか、ガンが全身に回っていたせいか、火葬のあとの骨もあまり残らなかった。
葬式の時は、さすがにグレてた俺も、泣いた。
あれから、十五年以上経った。
なんとか道を踏み外さずにここまでやってこれたのは、じいちゃんがどこかで見守ってくれていたからだろう。
じいちゃんは成績優秀で、おまけにスマートで若い頃は女性にモテたらしいけど、ちっとも遺伝しなかったよ。
そんな俺にも子どもができて、じいちゃんの半分以上の歳を重ねるようになった。
子ども、男の子だよ。じいちゃんにとってはひ孫か……
ひと目でいいから、見せたかったな。
小さい頃の俺に似て、可愛いぜ。
そうそう、少し前に明智光秀の子孫の人が書いた『本能寺の変の真実』みたいな本が出たんだ。俺はなんかすっげえトンデモ説みたいな気がするんだけど、ぜひ歴史好きのじいちゃんの意見を聞いてみたいもんだ。
経験を重ねた今だからこそ、報告したいこと、話し合いたいことが山のようにある。
何より、もっとじいちゃんから話を聞いておけばよかった。
そんな気持ちを乗せながら、今年もあの曲を贈るよ。
じいちゃんは、長崎を舞台にした雨と失恋を歌った古いフォークソングがお気に入りで、よく口ずさんでいた。俺が子どもの頃は歌詞の意味がよくわからなかった。成長してからはあんな古臭い歌のどこがいいんだ。と当時拗ねてた俺は思ったもんだが、今なら、その曲の良さがわかる。
長崎を濡らす雨が、石畳に染み入る様。
ぼんやりと灯る、洋館の明かり。
靄の中にけぶる、稲佐山の緑。
そして薄霞の向こうに、白と赤の大きなクレーンが淡いブルーの港湾に浮かんでいる。
どこまでも広がる、長崎の緑と海。点在する島々。
じいちゃんが働いていた造船所は、あの辺かな。
目を閉じれば、小さいころ手を引いてもらいながら眺めた、そんな光景が浮かんでくるようだ。
俺は、毎年夏になると、ギターを抱えて自宅の縁側へ出る。
恒例の、贈り物を届けるために。
座っているだけで、汗が出てTシャツにじっとりとへばりつくような暑さ。
増築を繰り返した田舎のボロ家の庭は、深緑の苔に覆われて、周りの庭木に止まっているセミがやかましく鳴いている。
南風が、草いきれのむっとした匂いを運んでくる。
真っ黄色の太陽が放つ熱は、忌々しいくらいに暑い。
だがその光はどこか優しさを帯びて感じられる。
ゆっくりと、所々に傷が入った、十年来の相棒を調弦する。
そして何も考えずに、目を閉じる。
セミの合唱がどこかでピタリとやむ瞬間があるんだ。
頃合いを見て、俺はギターの弦を奏でながら、しっとりと、その歌を口ずさむ。
長崎の雨……
水……
水を捧げることが、被爆者への慰めとなると、聞いたことがある。
じいちゃんと、そして名も無き犠牲者の方々へ。
お供え物なんて、ちょっと照れくさいけど、どこからか聞いてくれてるかな。
そんなことを思う。
自分が歴史に名を刻むなんて、大したことは出来そうにないけど、
それでも俺は、日々を、なんとか生きていく。
庭に広がる、ギターの調べを手の腹でミュートして、演奏が終わった。
セミの声が、ふたたび古庭に響き渡る。
ふと気配を感じて、庭の隅の植木に目をやる。
じいちゃんの一番のお気に入りだった、五葉松が元気に枝葉を伸ばしている。
夏の光が緑をゆらゆらと照らす。
その中に、シワの寄った笑顔で、俺の方を見つめる、
じいちゃんの優しい眼差しを、確かに感じたような気がした……
今年も季節が、過ぎ去って行く。
そして思い出はいつまでも変わらぬまま。
大切な人に捧げる、この歌を。
八月九日の爽風にのせて……