第四十話 オーボック伯爵⑨
オーボック伯爵は、隠し通路を走っていた。
日頃から鍛えるのが仕事の私兵達には劣るが、オーボック伯爵とて、万が一に備えて多少の鍛錬は積んでいる。
オーボック伯爵は太ってはいたが、他の貴族に比べれば遥かに鍛えられている。
汗水を垂らしてはいるが、ペースを落とさず、前へ前へと進み続けていた。
「オ、オーボック様……逃げなくとも、よかったのでは? オーボック邸は、訓練から戻した兵と……何よりも、教官のローグボトムがおります。たったの二人で、彼らを突破できるはずが……!」
側近護衛騎士二人の内の片割れが、オーボックへと声を掛ける。
オーボック伯爵は赤くなった顔を護衛騎士へと向け、唾を飛ばしながら喚く。
「馬鹿が! そのできるはずがないが、既に一度起きているのだ!」
「し、しかし! いくらなんでも、ありえません!」
「敗者は気づかぬ。自分がどれだけババを引かされようとも、まだ大丈夫だ、まだ大丈夫だと、自分を慰める。そうして、手遅れになり、惨めな様を晒す……。吾輩は、そんな愚劣共とは違う! 例え百分の一の危険だとしても、それが百度あれば吾輩の首に届くということなのだ! 吾輩の命は、その様に安いものではない! 例えこれが不要な逃走であったとしても、吾輩の命を神の気まぐれに投じ、座して待つなどできるものか!」
オーボック伯爵と二人の護衛騎士に加え、長髪の無精髭の男が同行していた。
オーボック伯爵に拾われた剣士、ヘクトルである。
普段は猫背のヘクトルが真っ直ぐに背筋を伸ばし、何かを確信しているかのように目をギラギラと光らせていた。
怒鳴って呼吸を乱したオーボック伯爵が、苦し気に呻く。
「オ、オーボック様……そう大声を出しては、走る体力が……」
オーボック伯爵は、誰のせいだと言いたげに護衛騎士を睨む。
「いや、どうやら心配しなくてよさそうですぜ、伯爵サマ」
「ヘクトル! それはどう言う……」
オーボック伯爵が言い切るより先に、通路に大型の魔物が駆ける様な派手な音が響いた。
一同はあまりのことに、足を止めて振り返った。
大鎧を纏った大男が、巨大な剣を構えてこちらへと駆けてくるところであった。
金属塊を身に着けているというのに、その速さは一行よりも遥かに速い。まさしく化け物であった。
オーボック伯爵の後方を走っていた護衛騎士の二人は、思わず剣を抜いた。
だが、迫りくる化け物を前に、自身の武器は酷く頼りないものに思えた。
どこを斬ればいいのか、それがまずさっぱりわからない。
全身をくまなく覆いつくす鎧には、微塵の隙も見当たらない。
顔を正面から合わせ、おまけに多対一であるというのに、それでもなお、真っ当な戦いになるという気が全くしなかった。
ただただランベールに圧倒され、立ち竦んでいるだけだった。
「振るってみよ」
ランベールがそう言ったとき、前方の男の手から、剣が床へと落ちた。
駆けながら、続け様に二度剣を振るう。
護衛騎士の二人の身体が真っ二つに裂かれ、上体が左右の壁へと打ち付けられた。
オーボック伯爵の、顔の肉に圧迫された細目が大きく見開かれ、ランベールを見据えた。
「貴様がオーボックだな」
「う……ぐ、ぐ……」
オーボック伯爵は恐怖に身を震わせながら後退り、身を翻して逃げようとした。
それを止めたのは、ヘクトルであった。
ヘクトルはランベールを真っ直ぐに睨みながら、抜いた剣を後ろに伸ばし、オーボック伯爵の首へと掛けた。
「な、何のつもりだヘクトル!」
「考えてみろ、伯爵様。向こうさんの目的は、アンタだぜ。俺が足止めしてやってもいいが、アンタが姿を晦まそうとしたら、恐らく俺を無視して強行突破するだろう。そうなったら、まずアンタ、殺されっぞ」
「だ、だが、ここにいようがそれは変わるまい!」
ヘクトルはオーボック伯爵を無視し、ランベールへと叫ぶ。
「おい、オメェ。俺と取り引きしねぇか? 伯爵様を逃がさねぇ代わりに、俺との決着を着ける前に、伯爵様には手を出すな。オメェだって、無為に走り回ったり、つまらねぇ隙を突かれたりすんのはゴメンだろ?」
「ふむ、そこまでして決闘を申し込まれては、断る理由もあるまい。我が陛下に誓って、貴様を殺すまでは、伯爵には手出しをしない」
ヘクトルはランベールの返事を聞き、オーボック伯爵の肩を手で押すと同時に、太い首に掛けていた剣を器用に外し、ランベールへと向け、姿勢を低くする。
オーボック伯爵はその場に尻もちを突いた。
「ヘクトル。ただの、ヘクトルだ。俺には苗字もなくてな。オーボック伯爵に仕える騎士を名乗ろうかとも考えたが、やめだ。ただ一人の剣士として、立ち合わせてもらうぜ」
ヘクトルがオーボック伯爵を引き留めたのは、オーボック伯爵の身を案じてというよりも、ランベールと正面から正々堂々と斬り合いたかった、という理由が一番であった。
そのため、ヘクトルはただの一人の剣士として、ランベールと斬り合うことを望んだ。
ジェルマンと向かい合ったときには『雑魚に名乗る名はない』と一蹴したヘクトルであったが、ランベールが自身が望み続けてきた強者であることは、剣を交える前から理解していた。
それはオーボック邸をたった一人で制圧したからでも、護衛騎士の二人を両断したからでもない。
八国統一戦争において勝利し続けてきたランベールからにじみ出る、圧倒的なオーラ。それを感じ取り、敬意を示したのであった。
「……あまり気は進まぬが、名乗られては、名乗り返す他にないな」
ヘクトルは腰を落としたまま、じっと耳を澄ました。
ランベール程の強者ならば、無名であるはずがない。
それが貴族界に影響力を持つオーボック伯爵が知らず、自身もまた、この様な剣士の存在は耳にしたことがなかったからだ。
またその様な剣士がいたとして、オーボック邸へと乗り込むだけの十分な動機にも心当たりがなかった。
「ランベール・ドラクロワ」
ランベールが名乗ると、ヘクトルの瞼がピクリと震える。
「……ランベール、ドラクロワだぁ?」
「レギオス王国、四魔将の一角、ランベール・ドラクロワだ。かつて主君を裏切り、故に斬られ、妄執のままに地獄の底から蘇った。国の平穏と義憤、そして受けた恩義を返すため、貴様を斬らせてもらう」
ランベールが、アンデッドの瘴気を垂れ流しながら叫ぶ。
瘴気に充てられたオーボックは、極度の恐怖によって呼吸もままならなくなり、顔を真っ青にしてその場に座り込むばかりだった。
だが、ヘクトルは違った。
しばしの沈黙の後、大声を上げて笑い出した。
「こりゃいい! 傑作だな! ハハハ! 戦争時代の大罪人が、地の淵から蘇ったか! 俺ァよお、いつも思ってたんだ。産まれる時代を間違えたってな!」
ひとしきり笑ってから、先ほどの笑いが嘘であったかのように険しい顔をし、ランベールを睨んだ。
「……なるほどな。俺程度に、名乗る名はないって言いてぇのか」
「…………」
別にランベールにヘクトルを侮辱する意図はなかった。
ランベールは戦場であれど、誇りの高い相手には、相応の敬意を以て接してきた。
しかしヘクトルがランベールの名乗りを信じなかった以上、仕方のないことであった。
適当な名を名乗って誤魔化すことは、むしろ侮辱であると、そう考えていたのだ。




