第三十六話 オーボック伯爵⑤
オーボック伯爵の館は、都市アインザスの中央側にあった。
戦争が活発であった時代の名残を受け、建物がぐるりと並んで壁を成して外敵の侵入を妨げられる構造になっているため、中央部はいざ戦争が起こった際に、最も安全なところとなるのだ。
これは代々のことであって今代に限ったことではないのだが、オーボック伯爵の保身への執着の象徴の様にもランベールには思えた。
巨大な外壁の向こう側に、白塗りの気品ある建造物の姿が窺えた。
高さこそ二階建てだが横に大きく広がっており、城の様な風格があった。
ランベールはオーボック伯爵邸を眺め、動きを止める。
(さて、どこから攻めるか。アルメルとやらが抜け道でも知っていればいいのだが、正確な情報を聞き出すには少々時間が足りないか。こうしている間にも、ジェルマンがどの様な目に遭わされているのか、わかったものではない)
ランベールの前を歩いていた隠密部隊『闇夜の小刀』の生き残りアルメルは、ランベールの動きが止まったのを見て、今が最後の好機なのではないかと考えていた。
ランベールに脅され、ここまで来てしまったが、たった二人で乗り込んだところで、あっという間に捕まってしまうのは目に見えている。
オーボック伯爵邸には地下室がある。
そこは煌びやかな地上の階層とは少々内装が異なる。
ほとんどはただの倉庫なのだが、一部は拷問部屋となっている。
敵対者に脅しを掛け、裏切り者を成敗するためという建前ではあるのだが、実際にはオーボック伯爵の趣味によるところが大きい。
あそこの部屋に連れ込まれることだけは、アルメルは絶対に避けたかった。
しかし、このままランベールのあまりにも無謀な突入に手を貸していれば、それはまず間違いなく免れられない未来となる。
逃げ出せば、この場でランベールに斬り殺される。
あの早業、身の熟しを目の当たりにしていたアルメルには、まず逃げきれないだろうということははっきりとわかっていた。
かといってついていれば、オーボック伯爵の部下に連れられて拷問部屋行きとなる。
(……ここで、やるしかない)
ランベールさえ殺すことができれば、オーボック伯爵にも顔が立つ。
むしろ手柄である。
今のランベールは、アルメルに対して油断しきっている様に見えた。
アルメルはランベールの死角に立って懐に手を入れ、隠し持っている銀の針を握った。
(一発で仕留めるしかない)
アルメルは息を止め、ランベールのどこに打ち込むかを考える。
しかし、見れば見るほど、魔金鎧には隙がない。
せいぜい膝の関節部に投げ込み、足を奪って逃げるのが限界である。
そして何より、この男に本当に銀の針が通じるのかと、アルメルは疑問に感じ始めていた。
『闇夜の小刀』の隊長であるハイルザートが完全に死角から放った銀の針でさえ、ランベールはあっさりと払い除けたのである。
アルメルの針を用いた対人戦闘術は、ハイルザートから叩き込まれたものであった。
果たして師匠のハイルザートがあっさりと往なされた手を、自分が成功させられるものだろうか。
アルメルの手に汗が浮かぶ。
ごくりと息を呑んだとき、ランベールがアルメルの方を振り返った。
アルメルはびくりと肩を震わせ、目を背けた。
「な、なにも……」
アルメルが弁解しようとしたとき、ランベールが口を開いた。
「だろうな、殺気を感じなかった」
アルメルはそれを聞き、身体中の力が抜けるのを感じた。
自分は、針を握る前から目の前の男を殺すことを諦めていたのだと、そう実感させられたのだ。
「地下に、拷問室があると貴様は言ったな。オーボック伯爵はどこだ?」
「今の時間だったら……拷問室か、そうでなければ執務室よ」
アルメルは既に、ランベールに嘘を吐くことを諦めていた。
(ジェルマンや他の『精霊の黄昏』の面子が捕まっている可能性が高いのは拷問室だが……そちらよりも、オーボック伯爵を優先するべきか。伯爵さえどうにかしてしまえば、後はどうとでもなる。逆に言えば、ここで奴らを救出しようとも、オーボック伯爵さえ逃してしまえば、時間を先延ばしにしたに過ぎん)
「……伯爵様を暗殺しようなんて、無理な話よ。確かに裏口や非常用の逃走ルートもあるけど、その全てに監視の兵が付いているわ。どこから入ろうと、すぐに伯爵様の部下に囲まれることになる」
「そんなところだろうとは思っていた。どこから入っても一緒ならば、正面から入ろうとも変わらんな」
「そうそ……えっ?」
言うなりランベールは、アルメルに背を向け、壁の正門へと歩き出した。
「どうした早く付いて来い。館内の案内も、貴様に任せるつもりだ。中で迷っているわけにはいかんからな」
「い、いや……さすがにそんなところから入ったら……あっという間に取り囲まれて……」
「どこでも変わらんと言ったのは貴様だろうが。どうせ見つかるのならば、こそこそ隠れるよりも正面から入って、逃げられる前に捕まえた方がよかろう。地の利では圧倒的に劣るのだからな」
ランベールは宣言通り、嫌がるアルメルを無理に引っ掴んで正門から突入した。
すぐに門番の男が気が付き、ランベールへと近づいて来る。
手にしていた槍を持ち替え、刃の部分をランベールへと向けた。
「なんだ貴様は! ここが伯爵様の館だと知っての狼藉か!」
ランベールは腕を引いて、門番の男へと大剣の鞘ごと突きを放った。
鞘の先端は門番の男の胸部を貫き、彼の身体を後方へと弾き飛ばした。
「がふぁっ!」
男は背を壁に打ち付け、喀血した。
ランベールからしてみれば軽く押したくらいのつもりだったのだが、男にとってはそうではなかった。
金属塊を胸部にめり込ませられたばかりか、胸骨もへし折られていた。
「無論だ。その伯爵様に用があって来たのでな」
あっさりとランベールは言い放つ。
あっという間に大騒ぎになり、あちらこちらからオーボック伯爵の私兵が姿を現し、ランベールの許へと走って来た。
三十近い数の私兵が現れ、あちらこちらからランベールとアルメルを囲んだ。
「だからっ! だからあれほど無謀だって言ったのに!」
アルメルはそんな立場ではないと認識しつつも、不平を叫ばずにはいられなかった。
「これはこれは、報告にあった鎧の大男と……そっちにいるのは、隠密部隊のアルメルではないかね。なんだ、『魔金の竜』は仕損じたのか。仲良く一緒にいるということは、裏切ったということでいいのかな?」
そうランベール達に声を掛けたのは、私兵達の最後列にいる、背の高い、オールバックの黒髪の男である。
ハンサムな顔立ちではあったが、瞳の奥からは冷酷さが滲み出ていた。
「マ……マルキドッ!? よ、よりによって……」
アルメルが目を見開き、その男を睨む。
マルキドと呼ばれた男は既にアルメル個人に関心はないのか、指でアルメルとランベールを数えて顎に手を添え、退屈そうに溜め息を吐いた。
「ふぅむ……たったの二人か。すぐに終わってしまうな」
品定めでもするかのようにランベールを観察した後、大きく手を叩いて他の兵の関心を引いた。
「おい皆、ゲームをしようじゃないか。内容は……そうだな。あの馬鹿な侵入者と裏切り者から、身体の一部を切り取るっていうのはどうだ? 腕でも、足でも、指でもいい。細かく刻むのは歓迎だが、死体から切り取るのは反則としよう。いいか、必ず生身から切り離すんだ。パーツに応じて、私から賞金を出してやろう」
アルメルからマルキドと呼ばれた男は、へらへらと笑いながらそう口にした。
周りの者達はその言葉に反応し、下卑た歓声を上げる。
――マルキド・マーベラン。
彼は現在、オーボック伯爵の私兵団において、警備隊の長を務めている。
嗜虐趣味の傾向があり、戦闘や拷問をゲームの対象とする悪癖があった。
オーボック伯爵とは親戚筋であって何かと優遇されており、金銭面においてもかなりの余裕があった。
「俺がやる!」
「てめぇは引っ込んでろや!」
早速五人の兵がマルキドの言葉を受け、我先にとランベールとアルメルへ飛び掛かって来た。
「お、終わった……」
アルメルは小さく呟き、懐に仕舞っていた銀の針を取り出し、自身の首元へと向けた。
ランベールが大剣を鞘から引き抜き、軽く縦に振り回した。
単純な動きではあったが、あまりの速さに、ランベールが大剣を抜き、すぐに仕舞ったようにしか、居合わせた常人達にはわからなかった。
ランベールとアルメルに接近していた五人の兵が、ぴたりと動きを止める。
その異様な光景に近くから見ていたものは、ランベールの動きを見切ることができなかったながらに嫌なものを感じ取り、顔を青くして黙りこくっていた。
一瞬の間の後に、ランベールに斬り掛かった五人の首が、ごとりとその場に落ちた。
鮮血が噴き出し、身体が一つ、また一つと倒れていく。
「……む?」
後列にいたマルキドには何が起こったのかまったくわからず、腕を組んだまま間の抜けた声を上げた。
「たったの三十人か……」
怯える兵達を前に、ランベールが辺りを見回して数を数える。
それからゆっくりと再び大剣を抜いて構えた。
「すぐに終わるな」
ランベールの言葉に、マルキドは絶句した。
ランベールが二振り目、三振り目を放ちながら、大きく前進する。
袈裟切りにされた兵士の血肉が飛び交う。
「な、何をしている! 誰かっ! 早く、奴を斬れぇっ! 金なら、いくらだって出してやる! 殺せ! 早く殺せぇっ!」
マルキドの言葉も虚しく、ランベールに近づいた兵は尽く肉塊へと姿を変えていく。
「早く……奴を、早く……! こっちは何人いると思っている! 囲んで死角から蹴飛ばしてやれば、あんな馬鹿でかい重そうな鎧では起き上がれるはずが……」
マルキドはそこまで言って、口を閉ざした。
その馬鹿でかい重そうな鎧で、ランベールは俊敏に動き回ってマルキドの部下を叩き斬って回っていた。
マルキドが呆然としている間に、マルキドの両脇にいる部下がランベールに斬られ、その場に伏した。
マルキドの顔から、さぁーっと血の気が引いていく。
「う……う……うおおおおおおおっ!」
マルキドが吠えながら剣を振るう。
ランベールはそれを悠々と横に躱す。
マルキドはランベールを追撃するため剣を握る手に力を込めようとすると、剣とバラバラになった指が地面へと落ちて行った。
遅れてやってきた強烈な熱の様な痛みがマルキドを蝕んだ。
「あああああっ! 熱っ! あ、あああああっ! わ、私の……私の指! ああ、あああっ!」
マルキドは地面に這いつくばり、無事だった左の手で右手の指を掬う。
「細かく切り取れば報酬は弾むのだったか?」
半狂乱になって息を荒げるマルキドへと、ランベールが問いかける。
「かっ、金ならいくらでも出すから、こ、これ、これ繋げ……」
マルキドが言い切る前に、ランベールの大剣が彼の身体を縦に両断した。
ランベールは返り血を浴びながら、淡々と大剣を仕舞う。
「さて、俺が侵入したことがオーボック伯爵の耳に入るまで、時間の問題だな。おいアルメル、とっとと案内しろ」
いとも容易く行われた虐殺を前に、アルメルはその場に座り込んだまま震えあがっていた。
自害用に持ち出していた銀の針も、とっくに震える指の隙間から抜け落ちていた。




