第二十八話 地下迷宮の主⑭
ランベールがドーミリオネの声を追って飛び出した先は、大きな一本の通路となっていた。
壁は先ほどまでの古い宮殿のような造りからは一転、ピンクを主体としたカラフルな模様が描かれた、可愛らしいものへと変化していた。
この通路に入るまではあった、古さや厳めしさといったものは一切ない。
足元に薄く張られた水は相変わらずではあったが、それも濁った水から透き通った透明なものへと変わっていた。
水面は綺麗に通路の内装を反射させており、まるで鏡のようである。
通路の両脇にはぽつぽつと綺麗な檻が並んでおり、その中には猫のぬいぐるみが入れられていた。
ぬいぐるみの猫は普通の猫よりも二回り以上は大きく、ちょうど人と同じくらいの大きさであった。
まるで意思を持っているかのように身体を動かしている。
特に檻を狭いとは感じていないのか、呑気に寝転がって前足で頭を掻いている。
またあるところには壁に棚が取り付けられており、そこには色取り取りのワイングラスが置かれている。
時折壁には看板が掛けられており、『ようこそお客様』『飲食はご自由に』といった文面が、ランベールの時代の字体の傾向に合わせて綴られ、端にはドーミリオネの愛用していた紋章である、卵の割れ目から翼が覗いているマークが描かれていた。
通路内にも例の、噎せ返るような甘ったるい悪臭が立ち込めていた。
当然といえば当然のことではあるが、ランベールはこれまでとは打って変わったこの長閑な内装を不気味に思い、むしろ警戒心を高めていた。
道中、檻に入っていないぬいぐるみ猫が通路のまん中を陣取っていた。
ぬいぐるみはフラフラとした足取りでランベールへと近づいては、真っ黒な目で何かを言いたげに首を上げる。
ランベールは立ち止まり、気を高めてマナを放つ。
たちまちのうちに綺麗でカラフルであった壁が、血に濡れた質素なものへと変わる。
来客を歓迎する看板は消え、悪趣味な絵画へと変わる。
棚には怪しげな薬品や動物の頭がずらりと並び、足元の水は淀んだ緑へと濁った。
先ほどまでのカラフルで明るい内装は、すべてドーミリオネがマナで幻影を掛けたものであったのだ。
フレッシュ・ゴーレムの姿を隠していた魔術とほぼ同等のものである。
当然それは、ぬいぐるみにも掛けられていた。
「ろして……ろして……殺して……」
通路の真ん中からぬいぐるみの姿は消え、代わりに三人の人間の上半身を出鱈目に継いだような、奇怪な化け物が陣取っていた。
六つの目が、懇願するようにランベールを見る。
「――――」
ランベールは、無言で大剣を振り上げた。
降ろされた金属塊は、一撃で哀れな化け物を葬った。
ランベールは大剣を構えたまま一度は通り過ぎたが、途中で立ち止まり、先ほどの化け物を振り返った。
それから前へと向き直って駆け出し、吠えながら道中の檻や薬品を叩き壊した。
アインザス地下迷宮の最奥部の大広間で、ドーミリオネは大きな椅子に腰かけてランベールを待っていた。
ドーミリオネは外傷が癒えているばかりか、服の破損や汚れまでもすっかりと綺麗になっている。
そもそもこの階層は足元を水で浸されているはずだというのに、靴が濡れている様子さえない。
ドーミリオネの座っている椅子は白い小さな部品をパズルのようにいくつも組み合わせて作ったもののようだったが、よく見ればその部品が一部を加工された人骨であることがすぐにわかった。
椅子の周辺の水は色が違い、青い水溜まりとなっている。
「ようこそ、ランベール君。せっかく気を遣って内装を変えてあげたのに、お気に召さなかったのかな?」
ドーミリオネは手にした杯で正体不明の液体を飲み干してからヒュウと小さく口笛を吹き、杯を足元へと落とした。
ランベールにはこれ以上ドーミリオネと言葉を交わす意思がなかったため、ただ無言で剣を構えた。
それからランベールは部屋内を見回し、怪しいマナの動きがないかを感知しようとした。
ドーミリオネがわざわざ一度、ここまで撤退したのである。
ランベールは道中に何か罠があるかと考えていたが、結局この最奥地にまで足止めらしいものはなかった。
ならば、ここで何かを仕掛けてくると勘繰るのが道理である。
(あの足元の、色の違う水……かなりの高濃度のマナが詰まっている)
感覚を張り巡らせた結果、ランベールはドーミリオネの足元の色違いの水に何らかの仕掛けがあるのではないかと結論付けた。
ただし、何が来るかわからない以上、安易に近づくことはできない。
色違いの水は範囲がそれなりに広い。水自体が武器だとすれば、恐ろしい間合いとなるだろう。
ランベールは大剣を構えたまま、即座に跳べるよう足に力を込めた。
「ボクの感覚はちょっと一般からズレてるみたいだからね。それがどういったものなのかちょっと気になって、前々からボクの価値観と一般の価値観をなるべく擦り合わせて、これが近いものなんじゃないかなと幻影を掛けて、あれこれと試していたんだよ。それ自体に大した意味はなかったんだけど……せっかくキミを招くんだからとここまで大掛かりな幻影を掛けたのに、その反応はちょっとショックだったかな。せっかくボクが、キミのために用意してあげたって……」
「そろそろ、貴様自身に掛かっている幻影も解いたらどうだ?」
「……ふぅん、気づいてたんだ。まったく、想い人の前では、少しでも長い間、綺麗な可愛い姿でいたいっていうボクの乙女心が、わからないかな? そんなだから、オーレリアにも選ばれなかったんだよ。おっと……」
ドーミリオネがわざとらしく口を押さえてちらりとランベールを見て、挑発する。
ランベールから大した反応が得られなかったことがわかるとつまらなそうに首を傾ける。
その途端、ぐにゃりとドーミリオネの姿が歪んだ。身体と服の色が黒く変色していき、ドーミリオネ自身の輪郭が曖昧になっていく。
ドーミリオネの身体が足元の青い水と混ざって溶け出し、頭部だけが残される。
頭部も体表が剝がれて青い水に混ざり、黒い髑髏へと姿を変えた。
(あの水は、粘体……スライムの一種か)
ドーミリオネはスライムの身体に黒い髑髏が浮かぶ、異形の化け物へと姿を変えた。
天井を突き破り、二つの大きな手を模した金属塊がドーミリオネの両脇へと落ちてきた。
「……スライムの研究をしていたのは、本体を守る鎧にするためか」
「キミの言った通り、弱点はここさ。そんな探るような真似をしなくたって、すぐに教えてあげたのに。ボクって、意外と優しいだろう? ほら、ようく狙ってくれたまえ」
ドーミリオネが金属塊の手を開き、指でスライムの中に浮かぶ黒い髑髏を示す。
「もっともボクは、キミのマナの大半が集中している頭を潰すつもりはないけどね。まずは足を、次に腕を、腹部を、胸部を、首を、ゆっくりと磨り潰して、残った頭を、もらっていくよ」
ドーミリオネは巨体には見合わぬ速度でランベールへと接近し、金属塊の手を広げてランベールへと伸ばした。
ランベールはその手を蹴とばして自身を弾き出して回避し、そのままドーミリオネの側部へと回り込む。
大剣を振るい、スライム体ごと奥の頭蓋を叩き斬ろうとした。
が、大剣はスライム体に差し掛かると、急速に速度を落とした。
(なんという粘度……!)
それでもランベールは振り切り、黒い頭蓋を大剣で叩いた。
だが頭蓋は大剣に押し出されるようにスライム体の中をぐりんと泳ぎ、まったく衝撃が伝わらない。
この粘度では頭蓋の位置もかなりの力で固定されているはずだが、どうやら物理ダメージを抑えるための仕掛けを施しているようであった。
「ちっ!」
ランベールは大剣を引き抜こうとするが、スライム体に覆われた大剣は容易には抜けない。
その間に飛んできた金属塊の手の水平打ちを身体に受け、大剣ごと後方へ弾き飛ばされた。
「さすがに純魔金は硬いなぁ。生身なら、今ので全身バラバラになるはずなのに」
黒い髑髏自身にかなりの強度があることは先ほどに確認済みである。
スライム体による守りがなくても、頭部へランベールの一撃を叩き込まれてケロっとしている余裕があったのだから、それは間違いがない。
それに加わり、スライム体の鎧による衝撃殺し、そして超重量の二つの手による攻撃と守りも重なる。
「どうだい? これがボクが二百年掛けて造り出した、ボクの不死身の身体さ! キミは昔言ったね、一流の剣士と魔術師が一対一で戦えば、剣士が勝つってね。言葉通り、確かにキミはボクを斬り伏せたさ。でも、果たして今でも同じことが言えるかな?」
ドーミリオネは興奮気味に言いながらランベールへと迫り、二つの金属塊の手で握り拳を作った。
その後、目にも止まらなぬ速さでランベールの身体を連続で殴りつけた。
「それそれ、それ! ハハハ、アハハハハハ! いつまで避けられるかな?」
瞬時に大量の水飛沫が上がり、床が割れる。
トロルでさえ挽き肉になりかねない恐ろしい連続攻撃であった。
ランベールは金属塊の拳を躱しながら機会を窺い、右の手を大剣で受け流して地面へと落とした。
連携の崩れた左の手の単体攻撃を悠々と躱し、手の甲に大剣の一撃をお見舞いしながら距離を取り、連続攻撃から逃れた。
「こんなガラクタを造るために二百年の歳月を費やしたばかりか、多くの人命を奪ってきたのか」
ランベールは瘴気を流しながらドーミリオネの髑髏を睨んだ。
ドーミリオネはやや面食らったように黙ったが、すぐに髑髏の口許を歪ませて笑った。
「ボクにそんな大口を叩けるのは、ウォーリミア大陸全土を見渡してもキミだけだろうね。だから本当言うと惜しいんだよ、キミを完全にボクの言いなりになるように弄っちゃうっていうのはさぁ!」
金属塊の両の手ががっちりと指を絡ませ、ランベール目掛けて振り下ろされる。
ランベールはすぐさま後方に跳んで避けるが、再び金属塊の手は上に浮かび、ランベール目掛けて跳んでくる。