第三十一話 亜界の薔薇⑦
一面に出鱈目な色の花々が続く。
異常な花畑の中を、シモンはただただ立ち尽くしていた。
「なんだこれは……? なんだこれは!」
叫んでから、あたふたと辺りを駆け、止まり、慌ただしく周囲を確認する。
シモンからやや距離を置いたところに、『亜界の薔薇』が佇んでいた。
目を瞑り、琴を奏でている。
その旋律が妙に頭に残る。
まるで天の派手な色の空に反響しているかのようだった。
「こ、この私が、幻影に掛けられたとでもいうのか? あり得ない! こんなことは、あり得ない……!」
そっと『亜界の薔薇』が目を開き、シモンへと、まるで哀れむ様な表情を向ける。
死にゆく者に向けられる同情の顔であった。
シモンは『亜界の薔薇』は既に戦いが終わったと考えているのだと、そう理解させられた。
「お連れしたのですよ、最高位精霊の許へ。エウテルベ部族には亜界の主より、その御前で琴を奏でる栄誉を賜っているのです。貴方にはそれに、同伴していただきました」
「さ、最高位精霊だと!?」
最高位精霊とは、異界の王を意味する。
精霊のいる異界は全部で十三まで確認されており、それぞれには異界の王がいる。
最高位精霊の召喚は、これまでウォーリミア大陸において三度しか記録が残されていない。
一つは千年以上前の神話に近い記述であり、獣界の王だったこと以外に正確なところはわかっていない。
そして内の二つは、八国統一戦争の混沌の中で行使され、どちらも戦争に大きな影響を与えた。
「あ、あり得ない! 最悪の錬金術師ガイロフでさえ、三万人の犠牲を払い、ほんの僅かな時間呼び出すのが限界であったと聞く! それをお前達は、音楽だけで招くというのか!?」
「ですから、招いたのではなく、招かれたのですよ。貴方の理解は求めてはいませんが」
「そんな馬鹿なことがあり得るものか! これは、ただのまやかしだ! そうだ、そうに違いない!」
喚くシモンの前に、花畑が大きく盛り上がる。
その巨体の影に『亜界の薔薇』の姿が消えた。
大きな彩豊かな花畑の山に、目と口、そして身体の輪郭ができていく。
見た瞬間に理解させられた。
これが最高位精霊、亜界の支配者オーベロンであると。
「こんなものが、あり得るかっ!」
シモンは叫びながらオーベロンへと跳びかかる。
だが、何かに阻まれた様に弾かれ、花畑へと叩きつけられた。
何が起きたのか、全く理解できない。
ただ、鼻先に押し付けた花より、ぷうんと、心地のいい甘い香りが漂ってくる。
「こんな、こんな……!」
シモンは呆然とオーベロンを見上げた。
その巨体は、百ヘイン(約百メートル)近くにも及んでいる。
人間のどうこうできる次元を超越していた。
オーベロンはその巨体を翻し、シモンへと背を向けた。
それだけで辺り一帯が大きく揺れる。
まるでオーベロンは、シモンへと、興味を抱いていないようであった。
「あ……」
それもそのはずである。
オーベロンはあくまで、『亜界の薔薇』の琴を聞きに、彼女を招いたに過ぎないのだ。
オーベロンからすれば、たまたまくっ付いて来ただけのシモンになど関心はない。
精霊は人間と完全な意思の疎通はできない。
思考から世界の在り方まで、その全てが違うのだ。
だからこそ精霊は、契約で縛られたことしか行わないし、行おうともしない。
恐らくオーベロンは、シモンについて何かをすることはしないはずだ。
助かったと、シモンはそう思った。
だが、本当に無傷で帰られるのならば、『亜界の薔薇』もシモンを招く様なことはしなかっただろう。
シモンが花畑に蹲っていると、彼は全身に強い違和感を覚えた。
いつからかはわからない。
だが、身体の感覚が、ほとんどないのだ。
花の香りが、酷く鼻についた。
シモンは何も考えず、匂いから逃れるために起き上がろうとした。
だが、動かない。動かせない。
身体中から、小さな芽が伸びていた。
「…………あ」
驚愕の声も出ない。既に、喉も芽に覆われているようであった。
芽はどんどんと大きくなっていき、やがてはつぼみを作っていく。
その間に、明らかにシモンのマナをどんどんと吸い上げていた。
「…………ァ」
こんなことが、起こるわけがない。
シモンは必死にそう念じる。
だが、現実として彼の身体は動かず、思考もどんどん損なわれていくのを感じる。
シモンの身体中に、色彩豊かな花が咲いた。
次に、彼の感覚が損なわれていく。
薄れゆく意識の中で、花に口ができ、けたたましく笑い始めているのがわかった。
狂気の悪夢であった。
(駄目だ、消える、私が消える……!)
シモンの思考に霞が掛かっていく。
(消える、消えるるるるる)
自我が、花に喰われていく。
(まだ私には、使命がある。まだ私には、使命がある。使命がある。私は、私は……)
――――その思考を最後に、シモンの意識は泡沫へと消えて行った。
地下通路にて、『亜界の薔薇』は一人、琴を手に立っていた。
すでに亜界の主の御前ではなく、最初に呼び出したアルラウネの姿も見えなくなっていた。
目の前には、全身が赤黒く変色したシモンの亡骸があった。
その外見はまるで、人間の死体というよりは、樹液の塊か何かのようであった。
元々痩せこけていたシモンだったが、更に一回り身体が縮んでいる。
辛うじて人型は保っているものの、離れていてはまず人間とは分からないだろう。
「……使わずに済むのならそれに越したことはなかったのですが、仕方ありませんね」
琴を床に丁寧に置いてから、頭を手で押さえ、地下通路の壁を背にその場に座った。
多量のマナを消耗するため、彼女にとってもあまり気軽に使える技ではない。
喉に手を当て、まだ覚束ない足取りで立ち上がる。
「ここであの男に逃げられては、これまでの全てが無意味になる。彼らが上手く足止めできていればいいのですが……」
それからゆっくりと、歩き始めた。




