第三十話 亜界の薔薇⑥
「お得意の、洗脳で強化した兵はおらんでよかったのか? お前なのだろう、ハインス教徒を自分の兵へと作り変えたのは。尖兵もなしに単身で来るとは、私も随分と舐められたものだ」
「充分ですよ。彼らを動かした狙いは、貴方の疲弊ではなく、貴方が一人で動く様に仕向けることですから。後は、ゼベダイさえ逃がさなければいい」
シモンの問いに、『亜界の薔薇』が、抑揚のない喋り方で応じる。
シモンが鼻で笑った。
「つまり……この私に、一対一でならば勝てると思っているわけか。卑しい魔術を使う割には、随分と自信があるらしい。お前のそれは、エウテルベ部族の魔術であろう?」
その言葉を聞いて、『亜界の薔薇』は不快そうに口を歪める。
「やはり、か。枢機卿には黙っていたが……そんなところだと、思っておった」
エウテルベ部族は、かつて八国統一戦争時代に存在した、アウンズ王国の部族である。
音の振動にマナを乗せて他者の感情の一部分の増幅や減衰を操り、相手がそれと気づかない内に意思を歪めることができたという。
元々はエウテルベ族は遊牧民であり、琴を奏でて自由に旅をすることを好んでいた。
ただ、八国統一戦争の初期に、彼らの魔術に関心を示した権力者が、戦士や民の意思の一極化に利用しようとして抱え込んだのだ。
そして歴史の中ではアウンズ王国が戦争に敗れた際に、王家に巣食い、洗脳によって国を傾けた魔術集団として、一人残らず処刑されたことになっている。
「本物の末裔か、単に技術を継いだ者かは知らぬが、エウテルベ部族には私も少々見識がある。一度、異端審問会で生き残りを捕らえたこともあるのでな」
音による意思の改竄は、振動を通じて身体のマナに作用するため、耳を塞いでも止められない。
だが、事前にそれと知っていれば、自己に言い聞かせて感情の波を律することができる。
それにシモンは、エウテルベ部族の洗脳については結局朧げな知識しか得られてはいなかったものの、どうやら完全に思考を歪めるにはそれなりの期間が必要であるらしい、ということを知っていた。
そもそもシモンはハインス教会の中で長く精神修行を積んでいるため、この手の精神に干渉する魔術に対しては高い耐性を持っているといえる。
「そんなまやかしの魔術では、私は止められぬぞ」
「……無論、戦いにそちらを使うつもりはありません。エウテルベ部族は、音による感情操作だけが取り柄ではありませんので」
そう言うと『亜界の薔薇』は、手にしていた琴の弦に指を掛ける。
落ち着いた単純なメロディだったが、美しく、まるで甘美な夢のようでさえあった。
思わずシモンでさえ、状況を忘れて手が止まってしまった。
それほどまでに心地よさを感じさせる音色だったのだ。
だが、さすがにすぐに我を取り戻し、掌を前に突き出し、腰を落として構えを取る。
「……道楽はとうに捨てた私だが、それでもこの旋律の価値は分かる。惜しいことよ。ただの芸術家として、静かに暮らしていればよかったものを」
「我が声に応え、亜界より来たれ、蔓の牢獄アルラウネよ」
言い終えるとともに、床に大きな魔法陣が浮かび上がった。
地下通路一帯の壁や床が、蔓に覆われ尽していく。
『亜界の薔薇』の足許の蔓が伸びて膨らみ、緑の肌を持つ女の姿を模した。
一様に精霊といっても、異界によって法則は大きく異なり、人間世界との接し方もまた変わってくる。
亜界の精霊は、基本的に人間を嫌っている。
例え高位の魔術師が交信に成功したとしても、まず召喚魔術に応じることはない。
だが、亜界の精霊はエウテルベ部族の琴の音だけは好んでおり、その音の届く範囲においては呼び出すことが可能となるのだ。
「……なるほど、大した規模である。亜界の精霊と心が通じ合うのであれば、本物のエウテルベ部族か。我々が滅ぼしたものだと思っていたが、まさか、まだ残っておったとはな」
シモンが感知する限り、通路二十ヘイン(約二十メートル)に及んで蔓が張り巡らされている。
蔓は各々に伸び、シモンの身体を絡めとろうとする。
彼は床を蹴り、続いて伸びる蔓を蹴り、天井と床、そして壁の間を跳び回って、捕らえられないようにと立ち回る。
(規模があり、動きも速い。これだけの精霊を、音色だけを頼りに手懐けるとはの。だが……わざわざ、私から部下が離れたところを狙っていた時点で、弱点は透けて見えておる)
シモンは動きにフェイントを混ぜ、動きを蔓に先読みさせたところで、意表を突いて蔓の合間を抜けた。
そのまま大回りし、『亜界の薔薇』の背後を取って拳を突き出す。
寸前のところで彼女の隣に佇むアルラウネの本体が、拳を両手で弾き、シモンを空中へと浮かす。
浮いたシモンを四方から伸びた蔓が狙うが、シモンは初撃の蔓を身体を捻って回避し、それを蹴って自身の軌道を変えて真下に降りて着地し、他の蔓の攻撃より逃れる。
「お前の召喚魔術は確かに強力だが、この私を捕らえられるほどではなかったようだな。おまけに……精霊を留めるために常に召喚主が近くにおらねばならない上に、琴を弾き続ける必要がある。その召喚魔術は、あまりに隙が大き過ぎる。相手が一人ならどうにかなると思ったのかもしれぬが、私が蔓を凌ぎ切れる以上、お前に勝ち目はない。諦めよ」
「いえ……これで、お終いですよ。準備は整いました」
女はそう言い、琴の曲調を一変させる。
琴の穏やかな音色はそのままであるというのに、厳かさがあった。
意図的に混ぜられたらしい不協和音が、聞くものの不安を誘う。
シモンは蔓を蹴って通路内を高速で飛び回りながら、また彼女へと接近する隙を探る。
蔓の速さでは、シモンの動きには対応できていない。
シモンにとって注意すべきは、召喚主の守りに徹しているアルラウネ本体くらいであった。
それも、次の攻撃では動きを見切り、『亜界の薔薇』の頭部へと掌底を叩き込む自信があった。
「我が声に応え、我らを誘え。亜界の支配者オーベロンよ」
その声と共に、シモンの周囲の世界が一変した。
暗い地下通路は消え、広い草原の真ん中にいた。
シモンは慌てて身体を回し、花畑の上に着地する。
「なんだ、ここは……?」
空は桃色に輝き、遠くには色彩豊かに輝く山々が見える。
周囲一面は、出鱈目な色の花々に囲まれていた。
大きな口のある花や、全体が瞳だらけの蔓もあった。
とにかくそこは、異様な世界であった。




