桜の森に、雨降れば
そこでは何もかもがただ、息を潜めている。
満開の桜の森に、花曇りの雨が降ると、時間が鎮まる。まるで海流のように揺れて動いていくこの世界の時間が密かに示し合わせて、一旦足取りをとめてみた。そんな風に。
全ては時季に感じて咲く、この花が産む純白の静寂のせいだ。
手に載せたらそのまま溶けていきそうな、桜の花叢の淡い気配。
この庵を満たす香気は確かに在るのに、在ることを悟られぬよう、そっと静まり返っている。
砂利くさい、雨の香りすらそこに溶かしてしまう。
例年通り、僕はそこで、黙って木彫に刃を入れていた。
人の来ない八幡の廃社の裏手にあった公園だった。
桜見頃の雨の日は、よほどひどくない限り僕は、この棄てられたみたいな四阿に来る。
工具入れの手提げバッグに、スーパーで買ったお惣菜とおにぎり。それに小瓶の日本酒。一日中いる。学校を辞めてからは、遠慮も会釈もなくなった。
僕はそこで、亡くなった祖父の工房から持ち出した木材を削っては、制作を続けていた。手の中の小ぶりな鳥は、置いておけば冷たく硬い木塊に過ぎない。
しかし人肌で温もれば、羽根の毛羽立ちが不思議な命の温かみを帯びてくる。
その日も、冷えた手を温めながら、僕は木彫をいじっていた。まだこれは粗い。辛うじてそれが鳥の羽毛と分かるくらいだった。
そんなときに、彼女が現れた。
梢を渡る鳥は、騒がなかった。
まるで桜の花叢を思わせるように、それはこの世界に純白の空白を作るような、風貌の持ち主だった。
長い黒髪の光沢艶やかな彼女は淡い花柄のスカートに、白いスプリングコートを羽織っていた。なのに、僕には彼女が黒と白のコントラストばかりで構成されているように見えたのだ。
ほんのり血の気を帯びたばかりの肌は、桜の花びらの危うい淡さだ。僕はむしろぎょっとした。思わず息を飲んだほどだ。
「清浦一水さんですね?」
彼女は僕の名前を呼んだ。発声の仕方も声音もほとんど、想像した通りだった。
「わたし、九王沢慧里亜と申します。亡くなった緑谷織絵さんのお友達ですね?」
僕は黙って頷いた。
何者なのだ、とはあまり思わなかった。
ただ僕は、彼女が四阿に入りそこに腰かけるのを見ていた。すると九王沢慧里亜は四阿に入った途端、なぜか薄く目を閉じたのだ。
「真桜ですね。入った途端、とてもいい香りがしました」
僕は密かに驚いた。
やはりだ。今、彼女は香りを聞いたのだ。満開の桜が群れるこの四阿で、削られた桜の生木の肌の匂いを。
「趣味なんです。亡くなった祖父が木彫やってて、余った木材が工房に」
僕は放りかけの工具を一瞥すると、手の中に隠していた木彫りの鳥を見せた。
今、彼女が言ったが、桜材は本当の桜と樺をはじめとしたカバノキ科の木のものに分かれる。前者を真桜と言う。削りかすの匂いばかりでそれと分かったのは、彼女が初めてだ。
「御祖父は…人間国宝の清浦劉吾さんですね?」
僕は黙って頷いた。
僕の名前を知っているのだ。木彫の造詣といい、当然分かってて、ここへ来たに決まっている。
「じゃあ、あなたがその後を?」
「あくまで趣味です。祖父みたいな人間になるな、と言うのがうちの家訓ですから」
僕はにべもなく首を振った。
その世界では偉かったかも知れないが、結局は家族の厄介者だった祖父みたいになるつもりは毛頭ない。
「それより一体、何の御用ですか?要は、さっき言ってた緑谷さんのことで?」
僕が尋ねると、九王沢慧里亜は小さく頷いた。
「亡くなられました」
「どこで?」
突きつけるように問うと、彼女は質問を返してきた。
「緑谷さんの失踪は、ご存知だったのですね?」
「ええ、まあ」
僕はそっけなく、頷いた。
今のはいつ、ではなく、どこで、と答えたので、事情を知っている、と察知されても、仕方がないことだ。
僕はぶっきらぼうに答えた。
「大分苦しんでいたみたいだった。家庭を持った人間から、暴力を振るわれ続けていたから。だからもしかしたら、最後に会ったのは僕だったかも知れないな」
「逃げるんだ。なるべく遠くまで長く、出来るだけ見つからず」
僕は自分が最後に言った台詞を思い出していた。ちょうど、去年の今頃だ。
花冷えのひどい曇天で、雷がどよめいていた。
午すぎ、どっと降った。それでも彼女は来た。織絵はいた。何か訴えても届きそうにない楚々としすぎた唇が切れて出血し、額に紫色の痣があった。
「毎日言われた。逃げられないし、絶対に逃がさない。逃げれば、巻き込む人間を増やしていく。こっちは痛くも痒くもないんだ、って」
「言わせておけばいい」
と、僕は答えた。
「でも、これだけは言える。逃げ切ればあんたの勝ちだ。信じるも信じないも自由。後は、自分で決めればいいよ」
こうして僕は袱紗に包んだ『それ』を、彼女に手渡したのだ。
「どうぞ」
九王沢慧里亜は、そう言うと何か包みをこっちにすすめてきた。
どこか神妙な表情だった。開けてみると、手作りらしい桜餅が四つ、綺麗に入っている。なんだ、何の変哲もない。
「緑谷さんがあなたが中退した学校の教師だったことを、あなたは知っていましたか?」
「いや」
僕は乞われるままに端から一つ、その桜餅をつまみあげると、首を振った。
僕たちがここで逢っている間に、僕がそれを知っていたか、と言えば答えはノーだ。僕自身、別に何の思い出もなかった高校を辞めて、すでに何年も経っている。
「あの人は画家だって聞いた。画家にも色々あるから、深くは聞かなかったけど」
「緑谷さんは美大を出た後、公募展でいくつもの賞を受賞しましたが、高校教諭の資格を取り、市内で教鞭を採っていました。清浦さんの県立高校には非常勤の講師として、赴任されたようですよ」
「非正規なんだ」
桜の花弁の浮いた吟醸酒の入ったぐい飲みを、彼女はとても大切そうに手のひらで愛撫していた。
「だからこんなところでお酒を飲んでたら、仕事クビになっちゃう」
彼女から、冗談とも自己韜晦ともつかないそんな台詞を何度か、聞いた。
教員にも非正規があるとは、知らなかった。だが最近では、教員採用が厳しくなり、臨時の補充要員として講師と言う形で教員免許資格者を雇うことが、珍しくはないと言う。
「詰まらないかも知れないけど、ちゃんと、普通の勉強もしといた方がいいよ」
織絵はお節介だった。彼女も美術系の高校に進学したかったところを、両親に説得されて、行きたくもない普通科に三年通ったらしいから。
大検を取ったらと、かなり具体的な提案をされたこともある。勤務先の元生徒だ、お節介も当然か。自分が辞めた高校の名前を言った時、彼女は確かにはっとしていた。
「どうぞ、お返しに」
九王沢慧里亜も、杯は拒まなかった。祖父が愛用していた皮鯨のぐい飲みに、僕は桜餅のお返しをなみなみと注いであげた。
「美味しかったですよ、桜餅」
そのとき世辞ではなく、きちんと言ってあげると、美しい顔が一瞬、綻んだ。さっき、変な顔をしていたのはそのせいだろう。察してあげたのは正解だった。
「わたし、生まれて初めて作りました」
彼女はイングランドから来たばかりで、英国人のクォーターらしい。確かに目の形や乳白色の肌の質感は、日本人離れしたものを感じた。
「それにしてもあの人が先生だって、知らなかったな」
僕は九王沢慧里亜に、若竹煮をすすめながら、吟醸酒を口に含んだ。
「先生だって分かってたら、お酒なんか勧めなかった」
僕たちが初めて会ったのは、春先、雨の降る土曜日だった。しかし、花冷えの曇天が続くうち、彼女は平日もそこに来るようになった。最初は新しい職場に馴染まない、と言う話だったと思う。配偶者からの暴力について、相談を受けたのはその後だ。
「緑谷さんは明らかに、配偶者から理不尽な暴力を受けていました。彼には別の女性と、一度、離婚歴がありました。その際に、医師からカウンセリングと治療を受けていました」
境界性人格障害。
「その男はそう診断されていたわけだ」
九王沢慧里亜は、小さく頷いた。
確かに織絵から聞く、その男の話は異様だった。男は織絵が自分の人生に必要だと涙ながらに掻き口説きながら、反面突然暴力的になり、まるで物でも扱うように彼女を殴った。
「境界性人格障害は、一説には愛着形成の不全から起こると言われています。過度に干渉する親や、逆に必要な愛情を与えずまったくの教育放棄を行う親に育てられた場合、正常な人間関係の形成が出来ないまま、大人になってしまうと言うケースがあります。
その場合、見捨てられたくない、と言う不安から、恋人や友人に過剰な依存を行い、暴力を振るうようにまでなったりする傾向があるそうです。
この種の人格障害は、本人が被害を訴えることはまずありません。配偶者の、うつ病を始めとした症状から、最後には暴力被害の訴えに到るのが、一般的だそうです。緑谷さんのケースもそれに当たるものと言えます」
「逃げられない」
肩を小刻みに震わせ、それからの織絵はいつまでも泣き続けることが多くなった。
桜の森の静寂は消え去り、嵐と雷鳴の轟きばかりが、彼女の荒れ果てた心と自己否定の乱脈に、寄り添うばかりだった。
「答えて」
僕のシャツを掴みながら、ときに織絵は訴えた。
「わたしが悪いの!?わたしが悪いからこうなったの!?」
「境界性人格障害の配偶者を持つと、非常に必要とされ評価される反面、暴力に走ったときに、それは全否定されます。大好きと大嫌いが、脈絡なく繰り返されるのです。そうしていくうちに本人の強い見捨てられ不安が、配偶者に伝染っていくのです。
結果、人格障害の配偶者を持った健常な人が『この人には自分しかいない』と想うようになり、理不尽な暴力を甘んじて受ける共依存の状態に陥るのです」
「僕は彼女に逃げろ、と言った」
僕は、大振りの筍を箸でつまみながら言った。
「専門の人から見てそれが正しい措置なのかどうか、よく分からなかったけど」
「あなたの助言は、緑谷さんにとって間違ったものではなかったと思います。事実、共依存の状態に陥ってしまうと、自分の本当の価値判断を取り戻すのが難しくなります。冷静に相手と自分との感覚の違いを見極めるためには、その人から一定期間隔離することが必要になります」
九王沢慧里亜は言うと、持っていた手提げからまた何かを取り出した。
「しかし、あなたが彼女にしてあげたことはそれだけじゃなかったはずです」
手に取ってみるとそれは、一冊の古い和綴じの草紙だった。
「これは?」
「ここを見て下さい」
九王沢慧里亜は本を開くと、とある一か所を挿した。
「これはあなたのご先祖のお話でしたね?」
それは江戸時代の珍事奇譚を集めた覚書である、と言う。
よく出来た木彫の動物がいなないて吉兆を告げたとか、廊下が池になって鯉がはねたとか言う話はいわば江戸の流行りで、読み物や座談として楽しまれたと言うが、これもその類いだろう。
だが僕は九王沢慧里亜が指し示す項をみて驚いた。
「火急鼠ノ事」
と言う話だ。題そのものよりも、僕が驚いたのは、話の語り手のことだ。『清浦酔夢斎』とある。
「これが僕のご先祖?」
九王沢慧里亜は、しっかりと頷いた。
ときは天保、幕末の話だった。
さる東海道の雄藩の家士だった清浦本家で、仇討騒動があった。渡り中間をしていた素性の悪い男が一家の当主と夫人を寝所で斬殺し、逃走したのだ。
「必ず仇を討ってやる」
遺された息子は、江戸の千葉道場で目録を得たほどの腕利きだった。
動乱の京都に逃げ、志士崩れになったと言う間男を追いかけると故郷を出るその息子の不退転の決意に、すでに名人と謳われていた酔夢斎は、自作した木彫りの鼠と短刀を身の守りとして託したと言う。
「御家の名を毀したくなくば、必ず仇を遂げるがいい」
その息子は家屋敷を売り払い、二度と帰ってこないつもりで仇を探した。しかし時に幕末動乱の京都、目指す仇には何年も巡り会えない。
何度も挫折しかけ、故郷を思ったが、酔夢斎がその鼠とともに託した言葉を胸に、仇討の旅に戻った、と言う。
「かの鼠は見ての通り、火勢に逐われる窮鼠よ」
その鼠の木彫りを託すとき、酔夢斎は言った。
「鼠は命運に聡い、と言う。即ち、貴殿が命運尽きん志を諦むるとき、鼠は貴殿の懐から抜けだし、貴殿の退路を断つであろう」
事実、維新の折、その息は諦めて在所に帰ろうとしたらしい。
しかし酔夢斎の言った通り、仇討を諦めかけた清浦本家には不運が相次いで起こり、火急鼠の祟りであると言われたらしい。
その息は考え直して、新たな世にも仇を求め、敵討ちが法令で禁止される明治六年の直前についに本懐を遂げた、と言う。
「そんなことがあったんですね」
僕は九王沢慧里亜に内容を解説してもらいながら、読みにくい草書の文字を追った。
なるほど、そう言えば祖父の話していた通りだ。そう思っていると、九王沢慧里亜は僕の顔をのぞきこんで、静かな声音で断じた。
「あなたはこの火急鼠を、緑谷さんに渡しましたね」
「どうせ、あの馬鹿どもには分からん。だからお前にくれてやる」
晩年の祖父は言った。
祖父は死ぬ前の二年ほど、中風を患い、工房に入れなくなっていた。枕元に隠していた木彫りの鼠は、若い頃に彫ったのだと言う。酔夢斎が作った現物を、空襲で喪われる前、幼い祖父は、飽かずに眺めたらしい。
「これはおれが作った。お前がどうしても成さんとせんことがあるとき、こいつの口におのれの血を塗れ」
怖ろしい話だった。祖父の言う通りにする気はなかったが、思えば僕は、それからその木彫りの鼠それ自体に惚れこんだ。
「火急鼠にあなたは、緑谷さんの血を塗った」
九王沢慧里亜の声に、僕は、はっとして現在に戻される。
「逃げてみる」
嵐の中で、僕は彼女の決意を聞いた。そして彼女の傷から、鼠の口に、僕はその血を塗りつけて託した。
「でも彼女は、死んだんでしょう?」
忸怩たる想いを噛みつつ、僕は言った。
そしてあいつが生き残った。まだ生きていたのだ。
「先日、横浜で緑谷織絵さんの遺作展が催されました」
九王沢慧里亜は、歯噛みをした僕の心根を見透かすかのように、話を続けた。
「あなたは緑谷修平に、そこで出会った」
「ひどい目に遭ったぞ」
緑谷修平は酒を飲んでいた。着ていたものにまで、アルコールまじりの反吐が沁みついているようだった。
「その鼠の呪いだと、馬鹿馬鹿しい」
織絵の失踪後、僕は彼女の身の上を調べた。
緑谷修平の父親は元、学校長の県議会議員、母親は教育委員会の重鎮だった。本人も教員だ。織絵が、この男から離れられない理由がもう一つあった。修平を怒らせれば、彼女は教員としての生活の糧を喪う。
今思えば、火急鼠を持たせたのは正解だった。
「何が火急鼠だ」
自分を睨みつけるその男が、すべてを喪ったのを僕は知っていた。
いや、皆が知っている。織絵が火急鼠をもって逃げ続けたこの一年で修平の父親は不正献金疑惑で失脚、母親も直属の部下の長年の使い込みが告発され、引責辞任に追い込まれたと言う。
新聞種になるほどのこの二つのスキャンダルでこの男自身のキャリアも終わった。火急鼠は十分に効果を発揮したのだ。
「あんた、どこまでもあの人を追いかけてやると息巻いたそうだな。望み通りに出来て良かったじゃないか。あれがある限り、あんたは『追いかけ続けなくてはならない』。織絵を追いかけるのを止めたとき、あんたは大切なものを喪っていく。あれは、そう言うものなんだ」
「ふざけるな」
出鱈目を、と言いかけた男の唇は、震えていた。
よく、分かっているのだ。この一年で自分が何によって破滅に追い込まれたのかを。
「だからどうしたんだ。死んだんだ、あの女は」
僕は男を嘲笑った。そこで、止めの一撃を放った。
「らしいね。でもその火急鼠、今は僕が持っている」
もちろん嘘だ。でも思い知ったろう。
「あんたの呪いは死なない」
噛んで含めるように僕は言った。
「これからもあんたは、ただただ、喪い続ける。なすすべもなく、な。最後にその命が喪われるまで」
愕然として言葉もない修平に僕は言った。
「百万で売ろう。みじめな死に方をしたくなかったら。織絵が通ってた桜の森で、正午に」
「緑谷修平は来ません」
だから自分が来たのだ、と言わんばかりに九王沢慧里亜が言った。
「亡くなりました。今朝、交通事故で」
「そう」
もう運の尽きだったみたいだ。乾いた笑いが出た。
「だから、あなたが復讐を遂げる必要もありません。織絵さんの代わりに、殺人の罪を犯してまで」
笑いが止まらなかった。いいだろう、僕は工具入れのバッグを引っ繰り返してみせた。そこに清浦酔夢斎が、火急鼠とともに託した仇討の短刀が忍ばせてあったのだ。
「どうして分かった?」
僕は尋ねた。
自分の存在のことだ。
社会的に見て、緑谷織絵と僕はなんの接点もない関係だった。
あの男も、織絵が火急鼠の呪いの話をしなかったら、僕を認識することすら出来なかっただろう。だからこそ僕は、最後には自分の手で彼女の仇を討ってやろうと思ったのだ。
「織絵さんはスケッチを残してました。ここで描いたものだと思います」
九王沢慧里亜はそうして、スケッチブックを取り出した。
そこに描いてあるのは、僕の手の中で育まれていたのと、同じ種類の鳥の姿だ。
「これは、僕がいなくても描ける。そもそも織絵は自分でこの場所を見つけたんだ。彼女がこの絵を一人で描いていたとは?」
「いえ、この絵は彼女が自分のために描いたものではありません。誰かのために、描いたものです」
九王沢慧里亜は言うと、スケッチブックをめくった。
僕は思わず息を呑んだ。この手彫りの鳥と同じように、この桜の梢を渡る姿、尾羽を震わせた後姿、あらゆる角度からあらゆる表情でそれが細密に描かれていたからだ。
「これはデッサンではありません。造形の下書きです」
僕は、言葉もなかった。完全にその通りだ。木彫に限らず、彫刻は削り出す前に下絵としてスケッチを起こすのだ。
「彼女が、これを、僕に…?」
信じられない思いでこれを受け取りながら、僕は尋ねた。
九王沢慧里亜は日向のような微笑みとともに、大きく頷いて見せた。
「はい。だからわたしは彼女がここで、一人でデッサンをしていたのではない、と言うことに気づいたんです。そして恐らくその人物は、同じ美術でも造形を志している、と」
震える手で、僕はページをめくった。
いつの間に。こんなに詳細に、頼んでもいなかったのに。涙をこらえていると、九王沢慧里亜は驚くべきことを口にした。
「彼女は今も毎日、これを描いています。そしてわたしにも話していました。まだ思い出せないけど、果たさなきゃいけない約束がある、と」
毎日。僕は、息を詰まらせた。
「彼女は…?」
「生きていますよ。緑谷織絵の記憶の回復はまだ不十分ですが、その下絵は描いています」
思い出した。
満開のうららかな晴れの日、僕たちは珍しく出逢ったのだ。
「あ、あれウグイス」
たわわに咲いた桜の梢を渡って、雀ほどの小さな鳥が花を求めて歩いていた。
ふっくらと円みを帯びた身体に、綺麗な明るい緑色の羽毛。いつかあれを作って欲しい、と彼女にせがまれたのだ。
「よしっ、わたしが下絵描くから」
待ってて。
織絵は一生懸命、花に隠れては出てくるその鳥を追ったが、スケッチは完成しなかった。
「ご馳走様でした」
ぐい飲みを置くと、九王沢慧里亜は僕にメモを手渡した。
「緑谷織絵さんは、この病院でリハビリをしています。もし良かったら、顔を観にきてあげてください。必ず、あなたのことを思い出すと思います」
織絵が生きている。
僕は震える手ももどかしく、そのメモを受け取った。
ぱらつく雨はそのときなくなり、雲が白く光を帯びて来ている。雨露が光る桜の花の群れから、そのときあの小鳥が一羽飛び出した。
「これが、ウグイスですか…」
「違いますよ」
僕は即座に、言った。
「あれはメジロです」
九王沢慧里亜は、目を丸くしていた。彼女もまた、勘違いをしていたのだ。
「ウグイス色が緑色だと言うので誤解されますが、桜の花の蜜を吸うのはメジロだけなんです」
そう言えば勘違いを指摘すると、織絵も目を丸くしていた。今の彼女はまた、思い出してくれるだろうか。満開の桜の森で下でした話、二人で愛したささやかな静寂を。
「このメジロが出来たら、行ってみます」
九王沢慧里亜は、美しい笑みを浮かべて頷いた。
彼女が去って一人、僕は制作を終わらせることだけに没頭した。
(行こう)
桜が散る前に。僕たちの出逢った季節が、また巡ってしまわないうちに。
そのとき、静寂に息を潜めていた僕たちの時間がまた動き出すのだろう。
やがて空も晴れてきた。