魔法使いのプライド
教官棟一階の一角、まだ朝霧の残る時間。
ナツメはまだ誰もいない教室で、箒を静かに動かしていた。
一般の生徒が突然教室の扉を開けたとしても、ただの空き教室にしか見えないだろう。
ここには隠ぺい魔術が施されている。
部外者の意識を逸らし、その存在を覆い隠す魔術の帳。
わざわざ隠ぺいまでしなくても、と思うかもしれない。
だが、ここに出入りする人間の事情を考えれば、そうもいかないのだ。
一階の掃除を終えたナツメは、奥の壁際にある、地面から天井まで突き抜けた木製の柱――移動棒に手を触れた。
その瞬間、視界が揺らぎ、彼は重力を無視して二階の教室へと転移する。
二階は、一階よりも明らかに広い。
生徒に教える講義スペース、魔術を試す実験場、さらにはちょっとした訓練ができる運動スペースまである。
窓から差し込む朝日に埃が舞う中、ナツメは掃除のために自身のローブの裏に刻まれた魔法陣を起動させた。
一階はあえて魔術に頼らず、人の手で整えた空間作りを意識する。
二階は存分に魔術を使う。それはナツメのちょっとしたこだわり。
一通りの掃除を終え、再び移動棒で一階へ降りてしばらくした頃。
静寂を切り裂くような荒々しい足音と共に、教室の重い扉が蹴破るようにして開かれた。
◇◇◇
「いい加減にしろ! この発動条件を外せと言っているんだ」
老魔法使いリンモルトの怒声が響いた。
向かい合うのは、魔術教室の主、ナツメ。
彼はリンモルトの加齢による魔力減退を補うため、補助用の魔術具を貸し出していた。
それには、術者の命を守るため、魔力が一定値以下なら発動させないという安全装置が組み込まれている。
「それはできません。外せば、あなたの命に関わります」
ナツメは淡々と、拒絶の色を隠さずに告げた。
にらみつけるリンモルトの拳が、怒りで小刻みに震えている。
「魔法の威力を小さくするなら、発動条件を外せます」
「それはならん!」
リンモルトは即答した。高位の魔法使いとしての誇りが、威力を下げることを許さない。
そのとき、廊下でかすかな足音が止まったような気がしたが、ナツメは気に留めなかった。
そして、ナツメは引き出しから黒い石を取り出し、机にそっと置いた。
「では、こちらを購入されますか?」
見ただけで空気が重くなるような、濃密な魔力を放つ触媒「魔石」だ。
手に取るだけで力がみなぎる。だが、リンモルトはその価値も知っていた。
(これを使えば魔力は補える。だが……それでは採算が取れん)
名門の体面を保つためのコスト。リンモルトは葛藤する――
その間、ナツメは描きかけの魔法陣をぼんやり眺めていた。
「わかった」と、リンモルトが顔を上げた。
「購入されるのですか?」
「命の覚悟を決めることにする!」
リンモルトは魔石をナツメに叩き返し、力強く言い放った。
ナツメは言葉を失った。淡々と接してきた彼もさすがに絶句するしかなかった。
一瞬固まってしまったが、机の上の書類棚から一枚の紙を抜き取る。
「……承知しました。では、この書類にあなたと奥様のサインをして持ってきてください。ご希望通りの設定にします」
ナツメが出したのは、リンモルトが魔法を使って死んだとしても魔術具の製作者として責任を問われない免責同意書。
リンモルトは書面を見て一瞬固まった。
しかし、すぐさまそれを奪い取るように受け取ると、無言で教室を出ていった。
◇◇◇
魔術教室の扉がスッと開いた。
ナツメはリンモルトが戻ってきたのかと身構えたが、そこにいたのは見覚えのない女子生徒だった。
一方、女子生徒は呆然と立ち尽くしている。
彼女の目には、ナツメの姿も、散らばった魔術具も見えていない。
そこにはただ、外の世界から切り離されたような何もない教室があるだけだった。
隠ぺい魔術が、部外者の目からその教室の存在を消し去っていた――




