第1話 — 届いた一通の言葉
水月優奈がカラオケを出たとき、空はもう灰色に明るくなり始めていた。
街はまだ眠っていて、遠くから朝の電車の音だけが響く。
足が痛い。十二時間立ちっぱなしだった。
喉がひりひりする。汗が乾いて、ねばつく冷たさが残る。
――十二時間。
十二時間ぶっ通しで歌い続けた。
声は完璧。体全体がステージになったみたいだった。
一人で笑って、歩道の水たまりを跳ねて、朝の風を顔に受けた。
「私、うまい」
「本当にうまい」
家までの道は短い。でもゆっくり歩いた。朝の静けさを味わうように。
24時間営業のコンビニに寄って、おにぎりと冷たいお茶を買った。
歩きながら食べる。冷たいご飯と苦いお茶が空腹の胃を落ち着かせる。
家に着いたのは6時52分。
ドアをそっと開けて、夫を起こさないように。
夫はリビングのソファで寝ていた。スマホを手に持ったまま、遅くまで待っていたらしい。
爪先で歩いて寝室へ。
服を脱がずにベッドに体を投げ出す。シーツは冷たい。
枕を抱きしめ、心臓はまだ速く鳴っていた。目を閉じても頭は止まらない。
まだ歌が体の中で響いている。
娘のことを思った。四歳。前の夫のところにいて、電車で三駅。
何週間も会えていない。
「次は新しいクマのぬいぐるみを持って行こう」
それから自分の体を思った。薬のせいで少し形が変わった。
お腹がふっくら、顔が丸くなった。
腰に手を当て、柔らかい肉を触る。
すぐにその考えを振り払った。
「今はそんなこと考える時じゃない」
スマホをまた手に取る。ぼんやりとフィードを流した。
――そこで止まった。
神谷嶺心。
短いテキスト、囁くような言葉。
「来ないかもしれないものを待ち続けること。
世界が魔法は終わったと言っても信じ続けること。」
優奈は三回読んだ。
胸が締めつけられる。それはカラオケのハイテンションだけじゃなかった。
「彼、分かってる」
少なくとも、そう見えた。
指が勝手に動いた。
長いメッセージ。吐露だった。
彼の言葉が心に触れたこと。文章の中に自分がいたこと。もっと知りたいこと。
考える前に送信した。
スマホをベッドに置いて、横を向き、目を閉じた。
地球の反対側。
神谷嶺心は19時12分に通知を見た。
キッチン。タバコをくわえ、コーヒーカップ半分残っている。
二ヶ月無職。ADHDが暴走して、六つの長編を同時に回し、短編も、AIで画像も作っていた。
起きてから倒れるまで書く。体が限界になって初めて眠る。
習慣でスマホを開いた。
メッセージがまだそこにあった。
もう一度読む。
スパムじゃない。
まるで彼を知っているみたいに話している。
深呼吸。コーヒーと煙の匂い。
もう一本タバコに火をつける。
ゆっくり打った。
「こんにちは。僕は外国人で、日本語は母語じゃないです。時差もあるので、話すのに都合のいい時間ありますか?」
送信。――待つ。
数時間後、優奈は目を覚ました。頭がズキズキ、体は重い。
ベッドの端でスマホを取る。
返事が来ていた。
心臓が跳ねる。
返事が来た。
無視されなかった。
逃げられなかった。
乱れた部屋で一人微笑む。薄暗い光がブラインドから差し込む。
ベッドは昨夜の汗の匂い。シーツが足元に絡まり。
座って、顔を手で撫でる。
「今がいい時間」
素早く打った。
「今がいい時間です。そちらが起きてるなら、もちろん」
送信。
画面を見つめ、心臓が強く鳴る。
嶺心はまた通知を見た。
キッチン、四本目のタバコ、コーヒーは冷めていた。
メッセージを開く。
一人で微笑む。
時差はきつい。こっちは夕方、向こうは深夜。
「明日の方がいい」と言いかけたが、すぐに返した。
「起きてます。どうぞ」
――こうして始まった。
最初はゆっくり。だんだん速くなった。
彼女:一日中歌ってた。声完璧。生きてるって感じた。
彼:止まらず書いてる。ADHD止まらない。限界まで寝ない。
彼女:星の絵文字、笑い。
彼:空のコーヒーカップの写真。「五杯目」
時間が飛ぶように過ぎた。
優奈は水を取りに行き、窓の反射を見ながら飲んだ。
顔は疲れている。でも目は輝いていた。
ベッドに戻り、打ち続ける。
嶺心はリビングに行き、もう一本タバコを吸い、ラップトップを開いた。
小説を続け、スマホを横に置いて、次のメッセージを待った。
そのうち、彼女の言葉に何かを感じた。
静かなお願い。
「本当の私を見て」みたいな。
読みながら、向こう側を想像した。
ベッドに座って、薄暗い光の中でスマホを持って読み返している。
まだ知らなかった――遠くにいる娘、毎日飲む薬、書く夢を応援しない家族、彼女が朝まで話している間ソファで眠っている夫。
でも、その瞬間、感じた。
彼女はそこにいて、逃げない誰かを待っている。
まだ彼女が何を抱えているか分からなかった。
でも、決めた。
物語の続きを見届けたい。
だって最初のメッセージ。
何もない日常に突然落ちてきたあれは――本当に魔法だった。
僕にとって魔法だったなら。
彼女にとっても、そうだったかもしれない。




