雨の始まり
雨の音が、壁の向こうでゆっくりと形を変えていた。
湊はカップに残ったぬるいコーヒーを見つめていた。飲む気にはなれず、ただ湯気の消えていく様子を眺めていた。
古いアパートの天井から、かすかに水のしみる音がする。もう何年も、この部屋には同じ雨が降っている気がした。
扉を叩く音がした。
二度、間をおいて三度。
誰も訪ねてくるはずのない時間だった。時計の針は23時を過ぎている。こんな時間に訪ねてくるであろう友人など、湊には存在しない。
音はもう一度、今度は少し強く叩かれた。
湊が恐る恐る玄関を開けると、目の前には高校生くらいであろう少女が立っていた。
彼女の黒い長い髪は顔に貼りつき、制服の袖口からは水が滴っていた。
少女は何かを言いかけて、唇を閉じた。
代わりに、小さな声で言った。
「……入れてください」
声は震えていなかった。
けれど、その目はどこか焦点を失っていた。
湊は答えなかった。
ただ導かれるかのように、扉を少しだけ開けて、少女が通れるだけの隙間を作った。
彼女はためらいもなく中へ入った。濡れた靴の音が、床に淡い跡を残していく。
扉を閉めると、部屋の中は雨の音で満たされた。
少女は玄関に立ったまま動かない。湊はとりあえず、浴室からバスタオルを取って彼女に渡した。
やがて少女が口を開いた。
「家出中で、どこにも行くところがないんです」
湊はその言葉を、まるで昔どこかで聞いたように感じた。
心の奥がかすかに疼いた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……今風呂を沸かすから、少し待っていてくれ」
その瞬間、雨の音が少しだけ強くなった気がした。
まるで、誰かが外から世界を閉じるように。
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少女が入浴を終えると、テーブルの上に淹れたばかりのコーヒーが置かれていた。
隣には角砂糖を入れた瓶と、クリームポーションが添えられている。
「こんなものしか用意できないが、良かったら飲んでくれ」
「……ありがとうございます」
少女は何も入れずに、カップにその小さな唇をつけた。
湊はタバコを取り出して口に咥えるが、小さくため息をつきながら尋ねた。
「タバコ、吸っていいか?」
「……はい」
湊は換気扇のスイッチを入れ、年季の入ったであろうライターでタバコに火を付ける。
しばらくの間、お互いに何も喋らず雨の音だけが部屋に響いた。
「じゃあ、俺はもう寝るから」
タバコを吸い終わった湊が寝室に向かおうとすると、少女は「待って」と一声かける。
「どうして、何も聞かないんですか……?」
「……」
湊は沈黙すると、小さくため息をついた。
「事情がありそうだし、興味もないから。
二人分の布団はないから、悪いけど椅子の上で寝てくれ」
湊は寝室にある毛布と座布団を少女に手渡すと、静かに寝室の扉を閉めた。




