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言葉は時に呪いとなる

作者: 茶太郎


「あれ、さやかじゃないか?」

「…寺坂君?」


 とある都内の某コーヒーショップの窓際の席に座っていた、長い黒髪の女性に話しかけたのは、茶髪の明るそうな男性だった。

 共に二十代前半頃の男女は、お互いに顔見知りだったのか、男性はすぐに女性の向かいに腰を下ろす。

「久しぶりだな。

 仕事の休憩中?」

「ああ、まあね。

 寺坂君は?」

「俺は休日。

 仕事が忙しいもんでね、たまの休みにはリフレッシュしないと」

「そう」

 会話だけ聞けば、普通の友人同士に見えただろう。

 しかし女性――さやかと、男性――寺坂は過去に恋人同士の関係にあった。

 それも寺坂がほかの女性と浮気し、一方的にさやかを捨てた立場だったのだ。

 だがそれも過去の話だと思っているのだろう。

 さやかはなんでもない顔をして寺坂を見ている。

「そういえば、寺坂君は弁護士を目指していたわよね?

 その様子だとうまくいってるのかしら?」

「そ、そりゃあもちろん。

 弁護士としてうまくやってるよ。

 まあ仕事内容は守秘義務があるからなんにも話せないけどな」

 寺坂の目が一瞬泳いだが、本人自身は気づいていないかもしれない。

「それよりさやかこそ、この店にはよく来るのか?」

「このショップのカフェラテが好きなのよね」

「ああ、そうだったよな」

 そういえば彼女は以前から、このコーヒーショップのカフェラテを好んでいたか、と今まで忘れていたことを思い出した。

 さやかの服装はスーツ姿だ。対して、寺坂はラフなシャツにジーンズにスニーカー。

 おそらくさやかの職場はこの近辺なのだろう、と寺坂は推測した。

 しかし、大学時代はぱっとしない地味な女に見えたが、数年会ってない間にずいぶん垢抜けて美人になったな、と思う。交際していたときは控えめでおとなしやかな女だと思っていたが、社会人になって変わったのだろう。

 久しぶりに会った彼女は見違えたように、明るい顔ではきはきと話すようになっていた。

「いやー、でもおまえもいい女になったよな。

 こんないい女になるって知ってたら、フラなかったのに」

 日々のストレスと、鬱屈した感情を抱えていた寺坂は、ふと思いついたのだ。

 こんな風に気さくに話してくれるなら、ちょっと押せば以前の関係に戻れるのではないか。いや、べつに以前のように恋人になりたいわけではない。

 さやかと付き合っていたときに浮気した読者モデルの女に逆に捨てられ、欲求不満になっていた。べつに相手は誰でもよかった。

 ただ久々に会った元カノが思った以上のイイ女になっていたから、一回寝るくらいならいいじゃないかと思ってしまったのだ。

 その寺坂の発言をどう思ったのだろう。

 さやかはふっと真顔になると、「嘘は良くないわよ」と言った。

 にこやかな笑顔から一転して、怖いくらいの真顔になった彼女に、寺坂の心臓がどくりと跳ねる。

 そのくらい、表情や声音に落差があって妙に不気味に感じられたのだ。

 店内はどこかで聞き覚えのある音楽と、賑やかな客たちの笑い声、客を迎える店員の声が混じり合っている。

「わたしみたいな『地味な女は自分にふさわしくない。死んで出直して来い』。

 そう言ったのはあなたじゃない。

 嘘は良くないわ」

「…そんなこと、言ったっけ?」

「ええ。

 弁護士の割に記憶力が悪いのね?」

 バカにするようにとってつけられた言葉に苛ついたが、続けられた内容に息を呑んだ。

「まあでも、本物の弁護士じゃないんだから仕方ないのかしら?

 …ほんとうは司法試験に合格出来なくて、いつもこの店で勉強してるんでしょう?

 嘘は良くないわ」

「…え」

「そう、この窓際の席で、毎日勉強してるのよね?

 今、住んでるのもこの近所でしょ?

 …わたし、知ってるわ」

 ひそめられた声は、まるで死霊のささやきのように幽かな響きだったのに、賑やかな店内で不思議とはっきり聞こえた。

 にこやかに笑っている顔が、さきほどとは別人のように薄ら寒く見える。

「な、んでそんなこと」

 知ってるんだ、というかすれた声は続かない。

「ねえ、鬼神母神って知ってる?」

「…え」

「わたし、この前そのお寺に行って、お祈りをしてきたのよ。

 大事なお願い」

「…………なに、を?」

 やけに喉が渇く。なんだか、背筋が寒い気がした。

 彼女は得体の知れないもののような笑みを浮かべて、


「内緒。

 …大事なお願いは、ひとに言ったら叶わないでしょう?」


 そう、低く幽かな声で告げるとそのまま立ち上がった。

「じゃあ、久しぶりに“話せて”楽しかったわ。

 やっぱり、ただ見ているのと話すのじゃ、気分が違うものね?」

「え、お、おい、さやか…!?」

 恐怖でうわずった声が出たが、彼女はそのまま颯爽とした足取りで店を出て行く。

 追いかけようにも、そんな気が起きなかった。

 心臓がどくどくと速く脈打っている。

 いや、あれはただの悪趣味な冗談だ。自分にフラれたことを恨んで、ちょっとした仕返しをしてやろうと思ったのだろう。そうに違いない。

 寺坂は必死でそう思い込もうとした。

 それより自分はやらなければならないことがあるのだ。そうだ。もう今年は失敗出来ない。次に試験に落ちたら、親に実家に帰って家業を継げと言われている。あんな古くさい呉服屋を継ぐなんて冗談じゃない。

 自分は選ばれた人間だ。弁護士になって、素晴らしい人生を歩むんだ。

 だから今年こそは失敗出来ない。

 そう思うのに、どうしてもあのさやかの薄気味悪い笑みが脳裏に張りついて消えなかった。




 なんだか、最近うまくいかない。

 さやかと再会したあの日から半月経ったころ、寺坂はそう思っていた。

 コンビニに行けば自分の欲しいものだけが売り切れている。電車に乗ろうとしたら思わぬ足止めを喰らって乗り遅れる。外出しようと思えば、予報も出てないのに雨が降った。傘が盗まれた。普段、人が通っても吠えない近所の家の犬が自分を見て吠えた。自転車が盗まれた。財布を落とした。今日も両親からの電話がうるさい。どうせ無理なんだからあきらめて帰ってこいと、繰り返し言ってくる。深夜まで勉強しても、なかなか頭に入ってこない。半月前にアパートの隣に引っ越して来た男が深夜まで友達を呼んでうるさく騒いでいる。文句を言おうとしたが、明らかにやばそうな外見のやつらだったので出来なかった。大家に苦情を言ったら「苦情を言う前に滞納している家賃を払ったらどうなんだい」と逆に文句を返された。

 だってバイトをしている時間すら惜しい。そもそも半月ほど前に、バイト先でいきなり解雇を通告されたのだ。俺はちゃんと働いていたのに理不尽だ。

 思い返せばどれもこれも、さやかに再会したあの日からだ。

 そもそもなんであの女は、俺があの店に毎日通っていることを知っていた?

 いや、きっと職場が近くにあって、俺の姿を見かけたことがあったからじゃないか?でも、それなら「毎日」と断定するのはさすがにおかしくはないか?そもそも彼女は、あんな風に笑う女だっただろうか?あんな言葉を言う女だっただろうか?

 そもそもどうして、自分が司法試験に落ち続けていることを知っている?どうしてだ?


『じゃあ、久しぶりに“話せて”楽しかったわ。

 やっぱり、ただ見ているのと話すのじゃ、気分が違うものね?』


 あの言葉はまさか、あの女はまさか、ずっと。


『ねえ、鬼神母神って知ってる?』


 鬼神母神は、確か夜叉じゃなかったか。

 人を喰らう、女の神。


『わたし、この前そのお寺に行って、お祈りをしてきたのよ。

 大事なお願い』


 大事なお願いって、なんだ?

 わざわざ自分に、あのタイミングで言うってことは、俺に関わる願いか?

 まさか、最近ずっと、ついていないのは、なにもかもうまく行かないのは。


「ふざけんな。

 冗談じゃねえ。あんな女に邪魔されてたまるか」


 あの女にもう一度会って、どういうことか問いただしてやる。

 自分は優れた人間なんだ。素晴らしい人生を歩むんだ。その邪魔を、あんな取るに足らない女に邪魔されてたまるか。

 そう思った寺坂は、あの店の周辺を毎日、ひたすら探し続けた。

 けれどいつになっても、さやかは見付からない。姿を見かけることもない。

 そもそも自分は、さやかが大学卒業後にどこの会社に就職したかも知らないし、交際していたときに交換した連絡先は自分で消去してしまった。彼女がかつて住んでいたマンションはもうほかの住人が住んでいたし、実家の場所なんて知らない。

 そもそも自分たちは大学時代に合コンで知り合ったから、通っていた大学すらちがう。共通の友人自体が存在しないのだ。

 だから周辺の会社に片っ端から電話をかけて、さやかの勤め先を突き止めようとした。

 だが該当する会社はない。それどころか悪質なクレーマーだと思われ、「これ以上やるなら警察に通報しますよ」とまで返された。

 そんなときに、あの店で見覚えのある女に出会った。

 短い栗色の髪の、背の低い女は確か名を御園と言った。あのさやかの親友だと、さやかに紹介されたことがある。

「なあ!」

「っえ、な、なに?」

 いきなり手を掴まれて驚いた顔をした御園は、自分を見て眉を寄せた。

 それが、大事な親友をこっぴどく捨てた男に対する不快感から来るものだと気づく余裕は寺坂にはない。

「あの女はどこだ!?」

「は?あの女?」

「さやかだよ!」

「……………………あなたが今更、彼女になんの用事か知らないけど」

 御園は不審げなまなざしを寺坂に向け、深くため息を吐いてこう続けた。


「さやちゃんなら、もうここにはいないわ。

 誰かさんのせいでね」


 その言葉に、呼吸が止まった。

 凍り付いた寺坂の手を振り払って、御園はそのまま店を出て行く。

 いや、いやまさか、そんなはずがない。

 でも、


『死んで出直して来い』


 そう、別れ際に彼女に言ったのは、自分だ。

 そもそも毎日、自分があの店にいることを知っているのはおかしくないか?

 同じ店に毎日足を運んでいたというなら、自分が気づかないはずはない。

この近所に自分が住んでいると、なぜ彼女は知っていた?

 なんだか、やけに身体が重い。怠い。気持ちが悪い。

「あの、だいじょうぶですか?」

「え」

「顔色が悪いですが」

 不意に自分に声をかけてきたのは、店員だった。

 自分は常連客だから、顔を覚えていたのだろう。

「…なあ、半月くらい前に、俺と一緒に店にいた女って、知ってるか?」

 わらにもすがる思いで尋ねた言葉は、店員の無情な声に打ち砕かれる。


「あなた、いつもお一人でいらっしゃってますよね?」


 その言葉に、奈落の底に突き落とされるような感覚を味わった。

 ああ、やっぱりそうなのか。あの女は、もうこの世にいない。

 自分を恨んで、自分の言葉通りにこの世を去って、そしてずっと、自分のそばに。

 なら、なにをやってもうまくいくわけがない。

 きっと、自分の幸福は彼女によって奪われる。邪魔される。

 きっと彼女は、自分を恨んで鬼になった。


(俺の不幸を、今もそばで呪っているのだ)




「あっ、さやちゃん!

 久しぶり!

 連絡くれたときはびっくりしたよ!いつ東京戻って来たの!?」

「そのちゃん!

 久しぶり!」

 それから一ヶ月ほど後のこと。

 ある喫茶店でうれしそうに抱擁を交わす二人の女性の姿があった。

 さやかと御園だ。

 先に待ち合わせ場所である喫茶店を訪れていた御園は、店内に入ってきたさやかを見て喜色満面になり、彼女に抱きついたのだ。

「もー、びっくりしたよ!

 いきなり『東京なう。会える?』なんてライン送ってくるんだから!」

「ごめんねー。

 実は半年くらい前からこっちで就職活動しててさ、受かったから正式に報告しようと思って」

「ほんと!?

 おめでとう!」

「ありがとう!」

 久しぶりの親友との再会を喜び合った二人は、そのまま端の席に座って注文を済ませ、お互いの近況を話し始めた。

「あ、そういえば、お姉さんと姪っ子ちゃん元気?」

「元気も元気。

 最近イヤイヤ期突入したから大変よ、もう。

 でも姪っ子のおかげで気分も晴れて吹っ切れたしね」

「ああ、あの最低男でしょ」

 御園はあからさまに不快げな顔になると、「この前、偶然会ったのよ」と嫌そうに言う。

「しかもさやちゃんを探してたみたいでさー。

 今更さやちゃんになんの用事よ!ってムカついちゃって!

 あんたにフラれて就職失敗したから実家に帰ったとか、言いたくないから適当にごまかした」

「やだ。

 そのちゃんにまで迷惑かけてたの?」

「そうそう。

 あのひとが知ってるさやちゃんの知り合いなんてわたししかいないしねー。

 あ、でもあの男、試験にまた落ちて、実家に戻って引きこもってるんだって。

 今の職場の同僚に同じ大学出身のひとがいて聞いたのよ」

「へえ、よっぽど失敗したのがショックだったのね」

「いい気味じゃない。

 それに、さやちゃんが吹っ切れたみたいでよかった」

「まあ、姪っ子ちゃんの育児の手伝いしてたら嫌でも吹っ切れるわよ。

 お姉ちゃんも義兄さんも迷惑がらずに『子供を見てもらえて助かる』って言ってくれてマジ神様だし姪っ子ちゃんは天使だし!

 もうかわいくてしょうがなくて!

 だからこっちに戻って来たときに鬼神母神のお寺に行ってね、『元気に育ちますように』ってお願いしてきた」

「ああ、それはいいじゃん。

 鬼神母神って子育ての神様だもんね」

 そう、鬼神母神は安産と子供の守り神だ。元々は人食いの夜叉として恐れられた面もあったが、子供を守るれっきとした女神である。

 鬼神母神に願うことと言ったら、子供のことに決まっている。

 さやかの姉は結婚してもう何年も経つ。寺坂と交際していたころにはもう結婚していたし、そのことは寺坂にも話してあった。

 だが、あの男が果たして鬼神母神がなんの神なのか、詳しい由来まで知っているかは謎だ。子供は嫌い、とかはっきりのたまうような男だったし。

 名前だけ聞けば恐ろしい神のように思えるから、詳しい由来を知らなければ誤解することもあるかもしれない。そもそもさやかの姉のことなんてもう記憶にないかも。

 そう、あの再会はただの偶然だった。

 就職活動中に、たまたまあの店の周辺を通りかかることが何度かあって、あの店の窓際で寺坂が年中司法試験の赤本を手に必死な顔で勉強しているのを見たのだ。

 あの男は出会った当初から「自分は優れた人間だ」と言い張る自己愛とプライドのひどく高い、そのくせ器のちいさな馬鹿な男だった。

 それでもさやかにとってははじめての彼氏で、あのころは本気で好きだった。だからショックだったのだ。読者モデルをしている女と浮気したあげく、ひどい台詞を吐いて自分を捨てたことが。

 そのショックを引きずって就職活動に失敗し、関西にある実家に戻った自分を両親も姉夫婦も邪険にせず迎えてくれて、寺坂の所業に我が事のように怒ってくれた。

 だからそれで自分は充分癒やされたのだ。

 言葉は毒にも呪いにもなるが、癒やしにも薬にもなる。

 実家で過ごした時間は、さやかの傷ついた心をちゃんと癒やしてくれた。

 両親の自分を案じるやさしい言葉が、姉や義兄のあたたかな思いやりが、姪っ子の無邪気な好意が、自分の傷をしっかりと治してくれた。

 だからもう一度がんばってみよう、と東京に戻ってきて就職活動を始めて、そのころにあの男に再会した。

 べつに、そのころには復讐しようなんて思いは欠片もなくなっていた。あんなちっぽけな男のために自分の貴重な時間を割くなんてもったいないとすら思っていた。

 けれど、寺坂がまるで自分の所業など完全に忘れ去ったかのような顔で話しかけて来たから。あわよくば一回くらい、なんて下衆な考えを覗かせたりしたから、ちょっとした仕返しをしてやろうという気持ちになってしまったのだ。

 あのときあの男が自分に気づいても、知らないふりをして立ち去っていれば。少しでも後ろめたさを覗かせていれば。一言でも謝ってくれたならば。

 自分は仕返しなど考えず、なにもかも忘れてしまうつもりでいたのに。

 とはいえ、自分は大したことはしていない。

 あの店の常連客ならば、たぶん近所に住んでいると考えるのが妥当だ。ましてあのときのあの男の服装はいかにも気を抜いた格好で、おまけにスニーカーははきつぶして汚れたものだった。

 以前から自己愛の強い、格好付けの男だった。だから、電車に乗る必要があるならあんな格好をしてはいない。

 徒歩で来れる距離に住んでいると考えたのだ。

 それにあの男は注文を済ませてから自分に気づいたからわからなかったのだろうが、自分は先に店内にいたから寺坂が来たことにすぐ気づいた。

 店員とのやりとりを聞けば、毎日訪れているのだとも推測出来る。

 その上でそしらぬふりをした。向こうから話しかけて来なければ、そのまま店を出て行くつもりだった。なのに彼が話しかけてきたから、さもずっと彼を見ていたかのように、気味の悪い笑みを浮かべて言ってやったのだ。

 自分たちの共通の友人はいない。ただ唯一、あの男が知っているとしたら御園くらいだ。

 だが彼女は自分があの男に理不尽に捨てられたことを知っている。

 友人思いのやさしい彼女が、あの男に問い詰められたとして素直に話すわけもない。

 曖昧に「遠くに行った」とか「ここにはいない」とか言うだろう。

 あの男への恨みから「あんたのせいで」とかいう言葉も付け足すかもしれない。

 自分はなにも特別なことは言っていない。ただ、あの男に吐かれた言葉を、そのまま返してあげただけ。

 言葉は呪いにもなる。そんな簡単なことを忘れていた、あの男へのささやかな報復として。

 呪いだとか、そんな非現実なものが実際にこの世にあるかはわからない。

 ただ、“人が呪いをかけること”は不可能ではないのだ。

 たとえば自分のように男にひどく傷つけられた女がその男に向けて「あんたなんて不幸になっちまえ!」と叫んだとしよう。

 男はその場はまったく気にせず、女を嗤うだろう。

 しかし、その後予期せぬ不幸や失敗に見舞われたとき、女の言葉をふと思い出したら、どうだろうか?

 もちろん女の言葉にはなんの効力もない。ただの悔し紛れの捨て台詞に過ぎない。

 その不幸も失敗も、起こったのはただの偶然だろう。

 しかし、女に恨まれるだけのことをした覚えがある男は、そうは思わないかもしれない。

 後ろめたいことがないならば、気にしないだろう。後ろめたいことがあるものほど、そういったことに敏感になるのだ。

 普段なら特に気にしない、些細な失敗や不運すら、いちいちその女の言葉に関連づけて考えるようになるかもしれない。そのうちに、なにをやってもうまくいかないと思うようになるかもしれない。そう思えば、余計になにもかもうまくいかなくなるに決まっている。

 実際はただの本人の思い込み。罪の意識が起こさせた錯覚であっても、だ。

 忘れたはずの言葉が“呪い”に変わるのは、その瞬間だ。

 なんの力もない女の言葉を“呪い”にしてしまうのは、男本人の思い込みなのだ。

 もしもその女が死んでいたならば余計に、男は「自分はあの女に呪われたから不幸になるのだ」と信じ込む。

 男が気にも留めなければ、その言葉は呪いになどならなかっただろう。

 寺坂も同じだ。

 自分に恨まれるようなことをした覚えがあったから、呪われたと思い込んだ。

 ただでさえ試験が間近に迫っている人間というのは非常にデリケートだ。しかももう失敗出来ないとなれば、余計に重圧を感じるだろう。ノイローゼ気味になっていたかもしれない。

 そういうときは、普段なら気にしないような些細な言葉にすら敏感になる。受験生が「滑る」という言葉を縁起が悪いと避けるのと一緒だ。

 御園を問い詰めたときの様子からして、きっとさやかが想定した通りの展開になったのだろう。

 悪夢を見て夜中に眠れず、寝不足になったかもしれない。

 自分を探すことに必死になって、勉強がおろそかになればそれは失敗して当然だ。

 自分の実家も知らない男が、自分の生死を確かめる方法はない。

 それは探偵などを雇えば不可能ではないかもしれないが、そんな金銭的な余裕が果たしてあの男にあるだろうか。

 寺坂の家のことは聞いて知っているし、家を継げと言う両親の反対を押し切って東京に来た息子に余分な仕送りなんてしないだろう。そのくらいの予想は付く。

 いくらあの店に通っても無駄だ。自分はあの店に行くのはあのときがはじめてで、そしてあれ以降は訪れていない。

 たまたま就職活動中に立ち寄っただけで、結局千葉のほうで就職が決まったため、あの店の周辺を探したところで自分を見つけられるはずもない。

 自分は確かに「この店のカフェラテが好き」とは言ったが、あの店は全国にチェーン店のある有名なコーヒーショップで、カフェラテくらいならコンビニでも売っている。

 さやかはなにもしていない。ただあの、自分を傷つけたことを悪いとも思っていない男に、ささやかな報復として意味ありげなことをささやいただけ。

 あの男がさやかにひどい行いをしていなければ気にすることもなかっただろうに、思い当たる節があったからこそ些細な不運や自分の行いの結果起こった失敗すら、さやかの呪いのせいだと思い込んだのだ。

「言葉って怖いなあ」

「え?

 なにが?

 さやちゃん」

「ん?

 ううん。

 使い方次第で、毒にも呪いにもなるし、薬にも癒やしにもなるでしょう?」

「ああ、そうだよねえ」

 御園はなにも知らない顔で笑っている。さやかももう、あの男のことを思い出すことはないだろう。

 そう、言葉は薬にも癒やしにもなる。あたたかな言葉は人の救いとなり、傷を癒やす励ましともなるだろう。

 しかし、使い方を誤ればそれはひどい毒にもなる。


(そう、言葉は時に呪いとなる)


 呪いを解く魔法はない。

 その呪いは、彼自身が自分にかけた呪いなのだから。


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