黄花の君
夫婦になり初めてむかえる夜、夫は私の傍にいなかった。
彼の正妃に私が選出されたと聞いたとき、我が耳を疑った。
私の故国は小国だか大陸の貿易の要として有産階級の者が多く豊かな国であった。
それゆえ度々他国からの侵略の脅威にさらされたが地理的な問題と国民性によって回避してきており、
永く中立国として周辺諸国の盛衰を黙視してきた。
乳母をはじめ周りの者は
王の血を唯一受け継ぐ者として、将来は女王として即位し配下から夫を取るのだと私に繰り返し言い聞かせていた。
私の行く末は目の前に真っ直ぐ示されていたのだ。
周りの導くまま。それでいいと思っていた。
ただ母が、何かしたいことはないの、と聞いてくるときはひどく居心地が悪い。
それは乳母に言われるままの稽古事をしてる時。
それは教師に言われるまま本を読んでいる時。
漠然としか予想できない私の未来はより不確かになり心細くなる。
なんともいえない、そういう心の内につかえているものを誰かに打ち明けることはなかった。
母に何度か打ち明けようとはしたが、ただでさえ不安定な立場の母に心配を掛けるようなことは出来なくて結局何も言わずただ大丈夫と伝えるだけだった。
私の道は即位すること以外は無い。それ以外で私の価値は見出だせない。
それが帝国の正妃。
つまりは我が国が帝国の帰属と化すことを意味した。
国内は賛成派と反対派に割れ、両者の間に摩擦はあったが父である王は私を帝国に嫁がせる事こそ国益につながると主張し押し通した。
夫となる彼と言葉を交わしたのは式の直前だった。
「私が望むものは妻ではなく妃だ」
感情的なものは感じなかった。ただ義務を果たすまでだと。
私はこの意味をよく理解していなかった。
広い寝台に一人で横たわりながら思う。
華燭の典を挙げた二人の間には政治的な繋がりしかないのだろうか。
夫婦の間柄は現世だけでなく来世までの二世にまたがるほど深いものだと嫁ぐ私に母は言った。
親子の縁より深いものだと。
新婚初夜に優しい言葉の一つもない彼と私の縁は不透明で先が見えないものだった。
夜が明け、侍女が私の世話をしに部屋に入ってくる。彼が居ない事が当然というように私の支度しか用意されていなかった。
「…陛下は?」
「陛下はまだお休みでございます。
…ご無礼を承知で申し上げますが陛下と御寝所が別なのは姫様の為ですわ。
姫様はまだ幼くあられますから、陛下のお気遣いがお分りになられないかもしれませんが」
そう言って微笑んだ。
妃となった私の事を姫様と呼ぶ侍女の微笑みは歪んで見えた。
私はまだ子供なのだろうか。成人の儀はもう終え、結婚もしたのに私は幼く見えるのだろうか。
故国では常に分別のある大人であることを求められていたのに。
それから程なく侍女が数人やってくると、はじめの侍女は何も喋らなくなった。侍女はすべて帝国の者だった。
国から連れてきた侍女はいない。乳母や乳姉妹は嫁ぐ私を心配してはくれたが一緒に来てはくれなかった。
私の周りの人たち、少なくとも乳母は帝国に対する侮蔑を隠そうとはしなかった。
今でこそ大陸にその名を轟かす大国だが、もとは遊牧民族の寄せ集めが侵略を繰り返しできた歴史の浅い国だと。自国と比べれば浅いかもしれないが近隣諸国の中では古い部類に入る。
私はこの国に来てから思うことがあった。故国は閉鎖的で、他国、他者の介入を決して歓迎してはいなかったのだと。
夫となった陛下とは公務で顔を合わせる程度で、寝所は別々のままだった。
たまに会う彼とは事務的な会話が多かったが彼と意見を交わすのは刺激になった。
先例に鑑みるだけでなく、故国では聞かないような奔放な意見ものもあったが、根本には国、民を思っての事だと感じたので嫌悪感はなかった。
そして私は与えられた領地の管理やこちらの流行を陛下の妹君や公爵夫人に教わり、
時間が空いたときは図書室で過ごしていた。
彼に女がいるということは知っていた。
侍女の話からひどく大切にしているということは伝わってくる。
女は公爵家の養子の娘で美しい容姿だという。養父である公爵は門閥貴族の筆頭であり陛下の覚えもめでたいようだった。
「側室を迎える」
珍しく陛下が寝所で私を待っていて一言そう言った。陛下が側室を迎えていけない決まりはない。陛下のご意思のままに。
私はそう伝えた。
この時彼は持て余すような、困惑したような表情をした。一瞬ではあったが彼のそんな人間らしい表情は初めて見たのだった。
その後、嫁いで一年が過ぎようとした頃彼女の妊娠が発覚した。
その知らせを聞いたとき、彼が妻ではなく妃を望む、と言った意味が真に理解できた。
私は彼にとって女ではない。再度突き付けられたその事実は思いの外苦しかった。
歳が十一違うのだから、彼にとって私はまだ幼いのだろう。あと、一、二年経てば夫婦として子を為すこともできるだろと。
それ迄は妃としての務めを立派に果たし、彼の隣に恥ずかしくないように立ちたいと思っていた。
そう、私は彼に恋していたのだとこの時初めて気付いた。
いつからか怜悧で冷たい眼差しで国を治めている彼の事を考える時間のほうが故国に心を砕く時より多くなっていたのだ。
妊娠中の彼女とは滅多に会えなかった。
彼女の侍女らは私が彼女や腹の子に害をなすと警戒していた様で手紙や差し入れもやんわり拒絶されてた。
私の周りの侍女は、ある者は同情的にある者は蔑みを含みある者は無感情に仕えていた。皮肉なことに、そんな中で心を許せるような侍女に巡り合い私の気も少しは休まるようになった。
「生まれた子は男だ。私の世継とする。そのつもりでいてくれ」
将来帝位を継ぐ子供。
私は肯定の意を込めて頭を下げた。
これは故国への裏切り。
はっきりと口にはしないが彼らの望みは私が彼の世継ぎを産み、内から帝国を奪い取ること。
故国においての私の価値は無くなったのだ。
頭を上げると陛下と目が合った。
「産んだのは側室だが生まれた子は正妃の子でもある。宮廷の流儀は君の方が詳しいはずだ。…助けになってやってくれ」
誰のとは言わなかった。
生まれ子か、側室の彼女のか、それとも両方か。
私にとっては誰でもかまわなかった。
「勿論でございます」
「異存はないのか?皇太子になるのはお前の血を継がぬ純然たる帝国人だぞ」
「太子様はお生れになったばかり。純でありそれ以外の何者でもございません。」
そこで言葉を区切り、異存は無いと言おうとしたのに口から出たのは別の事だった。
「私が陛下の子を宿す未来はあるのでしょうか」
聞きたくて仕方なかったことだった。
陛下はじっと私を見つめている。
しかしその問いの答えは返ってこなかった。
私が嫁いで三年経とうとした時、母が死の淵をさまよっているという便りが届いた。
一目私に会いたい。故国から帰郷を促す便りも届くようになったが、私には死に際とはいえ母が私の帰郷を望んでいるとは思えなかった。
乳母達とは違い嫁ぐからには帝国の女であれと、何かあったときは故国のことは忘れなさいと。そんな母だった。
結局母の死に目に会えなかったがせめて墓前だけでもと願い出たがなかなか実現しなかった。
陛下の世継が内々とはいえ私の血を引いていない帝国の女の子供ということがひどく故国の心情を逆撫でしていた。
とはいっても父である王は別段異を唱えてはいなかったが、有産階級の一部が反発したようだった。
そのような中での私の帰郷を危険視する声もあったが、最終的には滞在期間の短縮で話は落ち着いた。
母の墓前には野ばらが咲き乱れていた。生前母が好んでいた花だった。
母は父を知らずに育ち最期まで身分は妾のままだった。
母の娘である私も当初は疎んじられていたが、王家に連なる者が風邪を拗らせ次々と死に、王の血を継ぐ者は私しか残らなかった。
王が新たに子を作る事が絶望的だった為、私は世継となったのだった。
今、私の周りに誰もいない。帰国すると私に取り次ぐ者は沢山いたが、私は沈黙し、すぐ帝国に戻る事を伝えた。
帝国人となった私には実行でいないような過激な要求もあった。
母の墓には私以外に訪れた者の形跡は見当たらなかった。
この墓は王が指示したものなんだろうか。
母は父の子を産んで幸せだったのか、私にはわからなかった。
帝国に向かう馬車の中で思うことはいつかの母の言葉だった。私のやりたいこと。
妻になることへの抵抗は少なかった。
多分、望まれているということが私の存在理由であったから。
でも今は……
突然馬車がとまり、馬の鳴き声と共に周囲が慌ただしくなる。
「お逃げ下さい!!」
逃げる?何処へ?
血の匂いも漂いはじめた。馬車を襲ったのは盗賊の類ではない様だった。なんとなくだか故国からの刺客だと感じた。そして私は無意識の内に侍従の側を離れ、あてもなく走りだした。
山間をを二日程歩き、私は旅の一座に出会い彼らに身を寄せた。
森の中で持っていた懐剣を使い腰まであった髪を肩辺りまで切り落としていた。それに彷徨い歩いたせいで汗だくだった。
とてもじゃないが一国の妃には見えないだろう。
彼らの好意に甘え私は彼らと行動を共にした。
二月ほど経った頃、彼が目の前に現れた。帝国を統べる私の夫だった。
「戻らないのか?」
彼はそう一言告げるだけ。
私が意図的に戻らなかった事を問いただそうとはしなかった。
ただじっと、いつかのように私を見据えている。
もし私が戻らないと言えば彼は何も言わず立ち去り、彼の人生から私は消えるのだろう。
彼には望んだ妻と子供がいる。戻っても苦しいだけ。
このまま、すべての責務を放棄し国を忘れ彼を忘れ生きていける好機。もう二度と訪れることはないだろう。
そう思い彼の顔に視線を移す。
彼の額には薄ら汗も見える。
今、彼の目は私を映している。
私は目を閉じる。そしてまた開く。
真っ直ぐ見据える彼の目の奥に、嫁いで間もない頃の自分が見えた気がした。
そう思った瞬間、私は彼の手を取っていた。
これが女としての最良の選択だとは思えない。
でも
この瞬間は彼に触れていたいと思った。
よくある政略結婚ものです。