思惑2
その後のゲント先生との会話はどこか上の空だったように思う。先生をどう見送ったのかも憶えていない。
テーブルに置いた新聞を今一度手に取る気にはなれなかった。見ないように目を伏せれば、閉じた瞳の中で美しいクロエの立ち姿と、彼女の背丈に追いつきつつあるレスリーの颯爽とした風貌が、お似合いの様相で浮かんできた。その光景に胸が痛いのは私の狭量のせいだ。仮にこの話が本当だったとして、何か困ることがあるだろうか。クロエがレスリーに惹かれていて、レスリーもまたクロエのことを好きなら、こんなに喜ばしいことはない。クロエのご実家の後ろ盾は強力で、だからこそマテラ王妃も彼女に執着していた。それがまるごとレスリーのものになるなら、彼は本当に欲しいものを手に入れられることになる。私はただ二人の仲を祝福すればいい。時期外れの召喚聖女とはいえ、神聖視されている立場だ。聖女もまた彼らを応援していると知られれば、二人の地盤は磐石になる。
この世界に来て、クロエとレスリーに出会わなければ、私はきっと潰れてしまっていた。私を救ってくれた大切な友人と、人生で初めて好きになった人に恩返しをしたい。だから次に2人に会うまでに、この気持ちにちゃんと区切りをつけなければ。
そう言い聞かせながら、ソファの上で膝を抱える。マルグリットに見られたらお行儀が悪いと顔を顰められるだろうか。だけどほんの少しだけ許してほしい。少しだけ顔を埋めて、溢れそうになる涙を堪えたら、また顔をあげて私の役割を果たすから———。
そのまま小一時間ほど経過しただろうか、唐突に部屋をノックする音が響いた。
「聖女様、私です」
「フェリクスさん?」
必要以上に仲を詮索されないようにと、魔塔に戻ってから名前でなく肩書きで私のことを呼ぶようになったフェリクスを急いで迎え入れた。
「どうしたんですか? 今日は確かお休みの日でしたよね」
私の今日の予定は午前中のエラ先生の診察のみで、その後は何も入っていなかった。ずっと私の警護についてくれているフェリクスもそれに合わせて、今日は休みとなっていたはずだ。
「聖女様、取り急ぎ失礼いたします。実は、先程レスリー様が王城に呼び出されたそうです」
「レスリーが王城に……それって大丈夫なんですか? 何か危険なことが待っているんじゃ……」
「いえ、そのご心配はないかと。どうやらガンナ帝国から正式な使者が我が国に遣わされるようで、今朝、先触れが知らせに来ました。その使者はザイラス新皇帝の親書を携えており、我が国との会談を望んでいるようなのですが、会談の場にレスリー様の同席を希望しているとか」
「ガンナ帝国からの使者……」
「新皇帝からの初めての外交の申し入れです。取り扱いを間違えれば帝国との関係に悪影響となりかねません。我々はレスリー様がザイラス新皇帝と通じていることを知っていますが、王城の中枢はこの情報を持っていません。彼らはなぜレスリー様が指名されているのかわからず、首を傾げていることでしょう」
クーデターの報がもたらされてからかなりの時間が経過しているが、王城は未だ帝国にどう対応すべきか悩んでいるらしかった。マテラ王妃は始め、近衛隊を母国に送り兄の復讐を望んでいたが、宰相はじめ近衛も貴族もそんな命令に従いたくないと、王妃派でさえ反対の声をあげた。王妃も諦めたのか、今は地盤を固めることに躍起になっているようだが、そんな王妃をなだめつつ、国としてどう対応すべきか話し合いがずっと持たれてきた。ただし政治力・外交力の低下も相まって、ただただ喧々囂々とするのみで結論が出ていないのだとか。
そんな状況下でやってくる隣国からの使者。先行きの見えぬ外交関係に風穴を開けられるのではと、にわかに王城はざわめいたが、問題は先触れが指名した会談相手だ。
「なぜレスリー様が指名されることになったのか、まずはその聞き取りが行われるのではないかと思われます。レスリー様はザイラス新皇帝とのパイプがあることを打ち明けられるでしょう。自らが外交における切り札になるとアピールすることは、復権への近道にもなります」
「つまり、レスリーが王族として認められるってことですか?」
「王子であれば、帝国との会談の場に居合わせてもおかしくありません。ただの男爵令息ではさすがにいろいろ足りないと思われます」
帝国の使者を迎えるために十分な身分と肩書きが与えられる。その上で今回の外交で何かしらの成果を残せば、彼を王太子として後押しする人たちが増えるはずだ。
「よかった……。ヨーク公爵家の応援に加えて、公の場でもそうやって認められたら、レスリーの夢が叶うんですね」
「ヨーク公爵家……? 聖女様、もしや新聞をご覧になられましたか?」
「え? えぇ」
私がテーブルに目線をやれば、フェリクスが眉間に皺を寄せた。
「ヨーク家が中立姿勢を表明したことは間違いないでしょうが、あの新聞が告げていることのすべてが真実ではありません。少なくともレスリー様とヨーク公爵令嬢が秘めたる仲であるということは、絶対にありません」
「でも、ゲント先生も、信ぴょう性が高いって」
「公女様が何かしら関わっている可能性はあるかもしれません。ですが、レスリー様の本意であるはずがありません」
やや強い口調でそう言い切った後、フェリクスは私に向けて顔を傾けた。
「ヒマリ様、どうかレスリー様を信じてさしあげてください。彼の人は必ず、あなたを迎えにきてくれます」
口早に、けれど力強くそう告げると、フェリクスはいつもの適切な距離に戻った。
「私は魔塔の人間ですのでレスリー様に合流することはできませんが、なんとか情報を集めたいと思っています。恐縮ではありますが、状況がわかるまで、聖女様はこのお部屋からお出になりませんよう。また面会もなるべく断ってください」
「わ、わかりました。フェリクスさんも気をつけて」
部屋にこもって面会を拒否するのは私にとっての通常モードだ。素直に頷いてみせるとフェリクスは足早に去っていった。
再びひとりになった部屋で、新聞記事がテーブルから落ちかけているのを直しながら、今のフェリクスの言葉をもう一度思い出した。
(レスリーを、信じる……)
そんなの当たり前じゃないかと、少しムッとしながら新聞に描かれた絵姿を指でなぞった。この世界には写真の技術はまだないようで、記事にはレスリーとハーラン王太子とクロエの肖像画が載っていた。ハーラン王太子とクロエは似ているけど、レスリーの絵は今ひとつだ。忘れられた王女として離宮に篭りっぱなしだったので、顔が知られていないからかもしれない。本物のレスリーはここまで幼い印象じゃないし、髪を切ったから女の子っぽさは完全になくなっているのにと、出来の悪い絵姿に心の中で文句をつける。
私が好きになった人はもっとかっこいい。優しくて、まっすぐで、細身だけど力強くて、温かくて。みんなの信頼を背負っている人だ。誰もが彼を信じて応援している。私ももちろんそのひとりのはずだった。魔塔の入り口で彼と別れた、その直前にセリーナ様とミアにも言われたじゃないかと改めて思い直す。
レスリーのことを信じてほしいと、わずかな時間の隙に告げられた真摯な言葉。
今もまたフェリクスに同じ言葉をかけられて、私が失いかけていたものに気がついた。
記事を書いた人もマルグリットもゲント先生も、みんな本当のレスリーを知らない。一番レスリーのことを知っている人たちが「信じて」と言ったのに、なぜ私は知らない人たちの言い分に耳を傾けようとしていたのだろう。そんなものに惑わさず、ただ自分が見て感じてきたものを優先すればいい話だ。ヨーク家がどう動いていようと、私が彼らに直接話を聞けたわけではない。何よりレスリーの口から聞かされた話じゃない。
状況はレスリーに追い風だ。私にできることがあるとすれば、彼に危険が及ばないよう祈ること。ここでいつものように暮らすこと。
そう気づけば、似ていない絵姿を笑う余裕さえ出てきた。テーブルに広げていた新聞を折りたたみ、備え付けのチェストにしまいこんだ。




