戦い3(sideレスリー)
三十分後、エルハルト・ヨーク公子は自身の執務室に戻って来た。
「迷わずたどり着けたようですね。職務上、第二師団の建物は王城の中心にありますが、表からは見えにくいよう設計されているんですよ。新人でも場所を覚えるのに一週間はかかるのが常です」
にこやかに告げるこの男は、ヨーク公爵家の長男でありながら近衛に属し、第二師団の副師団長を任されている。身分的には師団長が適任だが、まだ若輩だからと辞退したと聞いた。近衛は第一師団が王族の身辺警護、第二師団が王城の警備、第三師団は各地域への派兵とつなぎ、第四師団が王都内の巡回警備に当たっており、上から順番に要職となる。数が多いのは第三師団だ。
公子、しかも嫡男が近衛に所属すること自体が異例であるが、まさか王家のスペアである人間に王族の護衛をさせるわけにもいかず、落とし所としての第二師団のようだ。
銀の髪は前王太后の遺伝。紫紺の瞳は聖王国の王家に出やすい色。クロエ嬢と同じ色彩、似たような整った風貌はさすが兄と妹というところか。
「いろいろご配慮いただき、ありがとうございます。改めまして、アセドア侯爵の孫、レスリーと申します」
「そう畏まらないでいただきたいですね、従兄弟様。エルハルト・ヨークと申します。ここではエルハルトと呼んでください。私もレスリー様とお呼びしても?」
「もちろんです。エルハルト様」
ここでは、という説明に、彼との距離感が多少掴めた。いとこと親しげに呼びかけるのもまたここだけの話ということ。単なる親交を深める会合ではなさそうだ。
公子に再び着席を促され、ソファに腰掛けた。背後にルドヴィックが立つが、彼をここに置くことは許されたようだ。
「フィラデルフィア女子修道院では妹がお世話になったそうですね」
「いえ、お世話になったのは私の方です。聖女様の聖力の制御がうまくいったのも、ヨーク公爵令嬢の献身的な支えがあってのこと。いつも聖女様と私の練習がうまくいくよう、心を配ってくださいました。叶うことなら今一度公女様にお会いしてお礼を申し上げたいのですが……エルハルト様は彼女とよく面会をなさるのですか?」
窓辺に佇む彼女の影を思い出しながらそう尋ねる。遠すぎて彼女の顔色までは伺えなかった。クロエ嬢の置かれた立場もまた気になることのひとつだ。
「残念ながら妹とは、彼女が王都に戻って以降、まだ会えていません。彼女の身分は未だ修道女ですからね。身内とはいえ男性が会うのは外聞が悪かろうと遠慮しているのです」
「えっ、まだ還俗の手続きは取られていないんですか?」
聖王国では還俗は基本的に認められていないが、抜け道はいろいろある。まして王家と公爵家が総出でかかれば、あるものをなくすことなど簡単だ。還俗手続きはとっくに済んでいてもおかしくないスケジュールのはずだ。
「それが、妹の出家の書類はガンナ帝国の神殿に提出していたんですよ。ご存知の通り、ガンナ帝国はクーデターの影響で情勢が不安定、神殿も閉鎖されたままです。そのせいで出家の書類が取り戻せず、還俗もできないままなんです」
「ガンナ帝国……なんでまた」
修道士や修道女になるにはその国にある神殿に届け出を出すのが一般的だ。修道院で手続きをとった後、書類が神殿へと送られ保管される。大陸の宗教は統一されているから、どの国のどの神殿に書類を提出しても問題はないが、わざわざ他国の神殿を利用するのは珍しい。というより意味がわからない。
心底驚いてそう問えば、エルハルト公子はにこやかなまま答えた。
「もちろん、マテラ王妃殿下へ恭順の意を示すためです。愚妹は恐れ多くもハーラン殿下の婚約者でありながら、その務めを果たすことができませんでした。我が家は王家のスペアとしてこの国にあることを許されている家門です。王家の屋台骨としての役割を全うできなかったことは末代までの恥。少しでもその汚名を雪げればと、王妃殿下の祖国であるガンナ帝国の神殿で出家の手続きをとらせることにしたのです。いやはや、まさか王妃殿下のお怒りが解けて、再び愚妹をハーラン殿下の婚約者に据えていただけるとは思ってもいませんでしたし、かの国がこのような状況に陥ることも想像すらしていませんでしたがね」
困ったものですと指を組む公子の顔には微塵の困惑も見当たらない。
クロエ嬢がまだ修道女という立場であることは喜ばしいことだった。さすがの王妃や義兄も、修道女に無粋な真似をしようとはしないだろう。心の底からほっとした。
そのわずかな安堵の隙に、取り繕っていた自分の表情が崩れてしまった自覚があった。
公子が一瞬眉根を寄せる。不快な色というより、考えを深めたように見えた。
「ところでアセドア家は、ベローチェ男爵と夫人の婚姻無効の申し出をなされているとか」
「えぇ。それと母の側妃の入城を陛下にお願いしています」
「……なぜ今更?」
「今更も何も、そもそもが間違っていたのですから、それを是正しようとしているだけのこと。アセドア家は侯爵家、順当に行けば母は正妃か、それが難しくても側妃になれて当然の身分です」
そうならなかったのはガンナ帝国の皇女だったマテラ王妃の横槍のせいだ。そのことを知らない者はいないから、エルハルト公子も私のこんな答えが聞きたいわけではないだろう。
私は腹を括った。
「エルハルト様、率直に申し上げます。王族として復権がなった後、私は王太子を目指すため名乗りを上げます。どうかヨーク公爵家の後見をいただきたい」
「……ほう。我が妹がハーラン殿下の婚約者として擁立されていることを知った上での発言ですか」
「マテラ王妃はガンナ帝国という後ろ盾を失いましたが、それだけではありません。新皇帝であるザイラス様はマテラ王妃に私怨があります。我が国の舵取りが義兄に任されるようなことになれば、必ずや彼の国との戦争に発展するでしょう」
ザイラス新皇帝の母親はイカロル地方国の王家の生き残りだ。攫われるように帝国の後宮に入れられ、息子を産んだものの、後ろ盾のない、しかも未だ抵抗を続ける滅んだ国の姫の立場が、敵国の後宮で心地よいものであるはずがない。彼女も幼きザイラス皇子も壮絶ないじめにさらされていた。そのいじめの筆頭だったのが、当時親子と住まいが近く、皇女の身分だったマテラ王妃だ。
ザイラス新皇帝の母親は足を滑らせて池に落ち溺れたということになっているが、実際はそうではない。難癖をつけたマテラ皇女が彼女を池に飛び込ませた後、使用人たちに棒で叩かせて沈ませたのだ。
当時まだ三歳だったザイラス新皇帝はこの光景を傍で見ていた。彼もまたマテラ皇女の命令で池に放り込まれそうだったところを、イカロル地方の生き残りの皇子という身分の使い所を知っている側近が慌てて止めに入り、ことなきを得た。
移り気なマテラ皇女はその後、年頃となったことで恋愛ごとに現を抜かし男遊びに興じるようになり、ザイラス皇子のことは忘れてしまったようだが、目の前で母を失った新皇帝がその恨みを忘れることはない。
「私はザイラス新皇帝とクーデター前から親交があります。私であれば、戦争を止め、新しいガンナ帝国との架け橋になることができます。また弱体化したこの国の政治的・外交的立場も改革していくつもりです。そのためにはどうしてもヨーク公爵家の力が必要です。どうか、私に力をお貸しください」
そう頭を下げれば、頭上でまた「困りましたねぇ」という呟きが漏れた。




