帝国
隣国ガンナ帝国でクーデター。その報を前に、レスリーは「来たわね」と冷静に呟いた。どう反応すればいいのかわからず呆けている私を余所に、レスリーは後ろに控えていたミアを振り返った。
「ミア、アセドア家からの増援は?」
「ぬかりなく。すぐに到着するでしょう。ひとまず精鋭ばかり五十騎。その後は王都の動きに合わせて編成されます」
「そのくらいであれば言い訳も立つわね。フェリクス、王宮の動きは?」
「今の所、静観のようです。魔塔も同じ。マテラ王妃殿下が動揺され兄君である皇帝を助けるための援軍を送りたがっているとの情報がありますが、仮にそうなるとしてもすぐの話にはならないかと」
「近衛は動きそう?」
「王命があれば動くでしょう。王妃殿下の一存だけでは難しいはずです。王妃殿下の権力は近衛にも及んでいますが、あそこも必ずしも一枚岩ではないことは、ここ数ヶ月の調査でも露呈しています。そもそも我が国の近衛は国の守備を担う存在。隣国の内変にどこまで対応できるかという問題もあります。魔塔の魔道士たちは元より対人間用の要員ではありませんから、動員されることはないと考えます」
「いずれにせよ王妃がどうでるかと、お父様がどこまで力を残しておられるかが気になるということね」
「陛下のご体調は確かに万全ではいらっしゃいませんが、指揮権を失うほどではないものと考えます」
「つまり、今の所すべて想定した通り」
口元に当てていた指をぱちんと鳴らせば、屋敷の表がにわかに騒がしくなった。
「おそらくアセドア侯爵家の援軍の到着でしょう。私はそちらに合流します」
「頼んだわよ、ミア。指揮系統はルドヴィックに一任して。ミアは手筈を整えた後、母の警護を」
「御意」
「私は魔塔及び王城からの情報を精査します」
「伝達の魔道具は好きに使っていいけど、落ち着いたらヒマリについてね、フェリクス」
「はっ!」
辞去の礼をしたミアとフェリクスが颯爽と部屋を出ていく。残されたのは私とレスリー、それにアダム先生。なぜかというと私が先生と勉強していた部屋にレスリーたちがやってきたからなのだが。
「さて、アダム先生は……」
「私と聖女様は引き続き大陸史の復習と、ついでですからガンナ帝国の系譜について勉強するとしましょう」
「……」
「ん? 何かご不満でも? 私、ただの家庭教師ですよ? 今は聖女様専属の。軍事も魔法も政治も門外漢ですからねぇ。できるのは学問だけです」
「言ってることは間違ってないけど、そこまで堂々と言われるとなんか腹立つわね」
「何をおっしゃいますやら。私の役目はすでに終わっているでしょう? あとは結果を御覧じろの境地ですよ」
「……っ! ここから先、当面あなたは暇なんだから、ヒマリを守るくらいのことはしてよね!」
「えぇ……? それは適材適所とは言いかねますよ。どーしてもって言うなら追加料金が必要ですね」
「ああ言えばこう言うし! ヒマリ! しばらく慌ただしくなるけど、ヒマリのことはみんなで守るから安心して。もし仮に危険な目に遭いそうになったら、アダム先生をおとりにして絶対逃げて。こんなのでも盾くらいにはなるでしょうから」
「レスリー様、それはあんまりな言い方でしょう? 私、職務外の働き、ずいぶんしましたよ? 明らかにパワハラですよね? いや、モラハラも入ってるか?」
なおも何か言い募ろうとする彼の口を塞いで、レスリーは私に向き合った。
「後でちゃんと説明するから、ちょっとだけ席を外すね。母に状況の説明をしてあげないといけないし、たぶんひとりで不安だと思うから」
「あ、それはもちろん……セリーナ様のところに行ってあげて? 私は大丈夫だから。ほら、アダム先生もいてくださるみたいだし」
「……コレに頼まなきゃいけない今の人手のなさが恨めしいけど、有事だから仕方ないわ。立ってるものはぺんぺん草でも使わなきゃ」
「ちょっと! 学園主席の私をぺんぺんぐ……うぐっ」
突然黙ったかと思えば、アダム先生の口にレスリーがハンカチを捩じ込んでいた。己の手だけでは押さえきれなかったようだ。
驚きの眼差しを注げば、その間にレスリーは私の手をいったんぎゅっと握って、部屋を出ていった。
ぱたりと扉の閉じる音が響く。
「やれやれですね。ようやく派手な花火が打ち上がりそうで、我らがお姫様は遊びにいきたくてしょうがないらしい。いやはや、かわいらしいものですね」
口から取り出したハンカチをくしゃくしゃのままポケットに詰めたアダム先生は、外の喧騒を気にすることもなく飄々と私に向き直った。
「さて聖女様。予定通り大陸史とガンナ帝国の系譜についてお勉強しましょうか。今日の休憩用のおやつはなんですかねぇ」
言いながら彼は机に置いた真新しい教科書を手に取った。
「ガンナ帝国の現皇帝カーライル様は、マテラ王妃の実兄であることはご存知で?」
アダム先生にそう問われ頷けば、彼はガンナ帝国の皇家の家系図を指差した。
「カーライル皇帝は前皇帝の三番目の皇子として生まれました。母親は正妃でこそありませんが帝国内の有力貴族の出身です。カーライル皇帝のほかにマテラ王妃、弟のロレンツォ皇子の三人の母親になります。なお、ロレンツォ皇子はすでに亡くなっています」
「三番目の皇子なのに、皇帝になれたんですね」
順当に考えれば一番目の皇子が跡を継ぎそうなものだ。何気なくそう呟けば、アダム先生がにたりと笑った。
「一番目と二番目の皇子は二人とも二十歳を迎える前に亡くなりました。そのため残った皇子の中では彼が一番上になるんですよ」
「一番目と二番目の皇子が亡くなって、弟皇子も亡くなってるんですか? それはまた……」
「ちなみに亡くなった皇子はこの三人だけではありません。あと十人います」
「十人!? そんなに? というか、いったい何人兄弟だったんですか」
「前皇帝の皇子は十五人、皇女は十九人います。ガンナ帝国には後宮があり、皇帝はハレムを築いているんですよ。妃だけでも五十人はいるでしょうし、妃になれずお手つきになった女性や皇帝の子として認められない私生児も入れればもっと多いはずですよ」
アダム先生が指し示す家系図を見れば、そこには数代前の皇帝の名とカーライル皇帝の名しか書かれていなかった。
「帝国の慣習では、皇帝位についた者の名しか歴史に残さないことになっています。妻や兄弟・姉妹の名前は伝えられないのです。ですから、誰が生きていて誰が亡くなっているのか、正史ではわからないことになっています」
指でとん、と紙面を突いた後、アダム先生はその指をぴんと立てた。
「話を戻しましょうか。単純な引き算です。前皇帝の息子は十五人、亡くなったのは十三人。残りは何人でしょうか」
「……二人」
「正解です。そのうち一人がカーライル皇帝、もう一人が……今回のクーデターの首謀者であるザイラス皇子です。ガンナ帝国もカーマイン聖王国と同じ、男子にのみ継承権があります。つまり、生き残った皇子二人が派手に喧嘩をおっぱじめたのが今回の騒動というわけですね」
クーデターという、日本にいた頃だってニュースでしか聞いたことがない単語が生々しく響いたが、驚くべきところはそこだけではなかった。
先ほどフェリクスはクーデターが発生したと告げただけであり、レスリーはいくつか手順を確認したのみだ。なのにアダム先生は、クーデターの首謀者の名を知っている。私が聞いていないだけで、フェリクスの情報にはそこまで含まれていたのだろうか。
言葉もなく彼を見上げれば、喰えない表情のままこちらをただ見下ろしている。クーデターについてはこれ以上、何も聞けない気がする。私は敢えて違う話題の方に触れた。
「皇子が十三人も亡くなったっていう理由は……」
「ご想像の通りですね。皇位をめぐって殺し合いがあったのですよ。ちなみに十九人いらした皇女方は十四人が成人なさっています。まぁ、かろうじて生きているという方もいらっしゃるようですけどね。どういう状況かは……聖女様に申し上げたら後でレスリー様にどやされそうなんでやめておきます」
話を逸らすアダム先生をさらに追求しようとは私も思わなかった。
「さて、次は大陸史と、ついでに地理も見ておきましょうか。こちらが今の大陸図ですね」
別の紙が広げられ、六つの国と国境線が示された。その中でもひときわ大きいのがガンナ帝国だ。
「クーデターの首謀者であるザイラス皇子は前皇帝の十五番目の皇子、つまり末子として生まれました。年齢は二十四歳。母親は、属国であるイカロル地方の元王女です。イカロルは前皇帝時代に帝国が制圧した最後の属国でした。イカロルの王家はザイラス皇子の母君を除いて累系に至るまで処刑され取り潰し。今は一地方として存続が許されていますが、未だ抵抗勢力が燻り続けている、帝国にとって危うい火種の地でもあります」
王国と帝国の違いは、王国は一国であるのに対して、帝国は複数の国を統合して成り立っていることだと習った。この大陸には六つの国があるが、帝国はガンナ帝国ひとつのみ。そしてそのガンナ帝国は主体となる国のほかに属国もいくつか治めている。その属国のひとつがイカロルという地方らしい。帝国の隅に小さく「イカロル」の綴りがあった。
「このイカロルはかつて、この周辺にあった地方国の集合体の長の役割を果たしていました。地方国がひとつ、またひとつと帝国に吸収される中、最後まで抵抗を続けたのがイカロルです。そのためイカロルを堕すことは、地方国すべてを帝国に完全併合させるための悲願でもありました。それを成し遂げた前皇帝は、唯一生き残った―――ある意味生き残らせた姫を後宮に迎え、子を産ませました。それがザイラス皇子です。ザイラス皇子はガンナ帝国の皇帝の息子というだけでなく、消滅したイカロル地方国王家の最後の生き残りということにもなります。つまり彼という存在は、イカロルの民にとって最後の希望でもあるのです」
ガンナ帝国の勢力図と、連綿と続く皇家の家系図を並べても、見えてくるものは限られる。そこに加えられるべき詳細はアダム先生の音声のみしか存在せず、言った端から消えていく。書き留めることは許されない。それが歴史というものの怖さ。
「十四人の皇女が成人したのに対して、皇子はカーライル皇帝とザイラス皇子の二人のみ。残りはすべて殺すか殺されるかですでにありません。カーライル皇帝は最後の二人のうちの一人となったことで帝位につきました。そんな彼が、ザイラス皇子を殺さず生かしている理由がイカロルにあります。イカロルの民にとって最後の希望であるザイラス皇子は、イカロルの生命線でもあるのです」
「それは……人質としての役割もあるということでしょうか」
私が投げ掛ければ、アダム先生は「おや」とばかりに目を見開いた。
「なるほど。物覚えが良さそうというだけの方かと思っていましたが、意外と見る目をお持ちのようだ。お姫様が夢中になるのもわかるというものです」
褒められている気はしなかったが、それ以上に自分が口にした言葉が空恐ろしく、怒る気にもならなかった。
「前皇帝はザイラス皇子を殺すより、彼の首に刃を突きつけることで、抵抗し続けるイカロルを押さえ続けました。そのやり方はカーライル皇帝にも受け継がれています。ザイラス皇子は後宮で生かさず殺さずの扱いのままひっそりと成人していた、というのが表向きの情報です」
「そんな彼がクーデターを起こしたということは、背後にはイカロル地方がついているということですか?」
「うーん六十点。ぎりぎり及第点、といったところですかねぇ」
アダム先生は両の手をぱん!と鳴らした。
「さて、本日はここまでとしましょう。小腹もすいてきたことですしね」
そして教科書と地図が片付けられた。




