巣立ち
実はこの回が、この作品の中で一番好きな回です。
いよいよ魔塔に戻ることになるのかと、修道院を引き払う準備をしていた矢先。
レスリーとフェリクスから「しばらく白鳥の館に滞在してみてはどうか」と提案があった。
聖女である私は重要人物の扱いとなり、魔塔に戻ったら護衛がつくことになるそうだ。女性騎士もいないわけではないが、男性の方が数は多い。大勢にいきなり囲まれるより、白鳥の館の男性騎士や使用人たちで慣れる練習をしておいた方がいいのではという理由から出た提案だった。
男性恐怖症は乗り越えたと思っているが、実際に会って試したのはフェリクスだけだ。本当に大丈夫かどうか確認しておく意味でも、白鳥の館で予行練習するのはありかもしれない。
かくして私は修道院を辞し、いったん白鳥の館に移ることになった。魔塔で私を迎える準備が整うまでの期限つきだ。
離宮へと立つ日、お世話になったカミーラ院長とクロエが見送りに出てくれた。別れの挨拶を交わすも、どうしてもクロエとは離れ難い。意気揚々と出ていく私と違って、クロエはこの先一生この建物から出ることが叶わない。私がいなくなった後はクロエは付き人でなく一修道女として、戒律を守りながら残りの長い人生を送っていくことになる。
「クロエ……」
言いたいことはたくさんあるのに、言葉がうまくまとまらない。彼女に感謝する気持ち、あんまりだと思う気持ち、やるせないこの状況がもどかしい気持ち。いろんなものが溢れつつ、だがそれを口にするのも失礼かと、ぐるぐると感情が回り続ける。
涙が溢れて、綺麗なクロエの顔までが歪んで見えた。
「ヒマリ様、泣かないでください」
「……っ! だって、クロエは……」
彼女は何一つ悪いことをしていない。生まれたときからハーラン王太子の婚約者にさせられ、邪険にされながらも未来の王太子妃として努力をしてきた。その上で婚約破棄という手酷い裏切りにあい、家族にもぞんざいに扱われた。
「……確かに、私は何かをしたわけではないのかもしれません。でも、おそらく何もしなかったことが罪なのです。ですからここで罪を償うことが、私に課せられた使命だと思っています」
「そんな……っ! そんなわけ……っ」
「ヒマリ様の今後のご活躍をお祈りしております。聖女様にこんなことを申し上げるのは大変厚かましいとは思いますが、たまに便りなど頂けますと、この上ない喜びとなりましょう」
「書く! 書くよ! 手紙の挨拶もクロエが教えてくれたんだもの。ちゃんと書けてるかどうか、クロエが教えてくれなきゃ……私、すぐ忘れちゃうから」
「それは困りました、ヒマリ様は大変優秀な教え子だったはずなのですけれど」
言いながらクロエは、私より頭ひとつ分高い位置からふわりと笑った。
「ヒマリ様、この国を……どうぞよろしくお願いいたします」
公爵家は王家の次に身分が高く、その他の貴族とは一線を画する立場なのだと習った。そこの出身であるクロエは公女様と呼ばれていたそうだ。公爵家が特別視されるのは王家のスペアだから。何かの因果で王家が途絶えたとき、次の為政者として立つのが公爵家の役割。だからこそ血を繋ぎ、王族と同等の教育を受ける義務がある。クロエもクロエの兄弟も、そうした価値観を身につけて育った。
そんな彼女だから、願うのは己の幸せでなく、国の未来。身分は捨てたとはいえ、クロエらしい言葉だと胸が痛くなった。
私がこの修道院に身を寄せられたのはかなりイレギュラーなことだった。本来なら一般人は足を踏み入れることが叶わない場所だ。中に入った者もまた、外の人間との面会を遮断される。
これがクロエの姿を生で見る最後かもしれないなら、彼女のすべてを目に焼き付けておこうと思った。ウィンプルに隠れた銀の髪の輝きも、紫紺の瞳と薔薇色の頬が時折優しく緩むことも、手先や所作の美しさも、落ち着いた声音と言葉に癒されたことも。
全部忘れない———。
「ありがとう、クロエ。私、精一杯頑張るから」
彼女の望みを叶えることが恩返しになるなら、私は迷わずこの道を行く。この国のためにできることを、クロエの分までやり遂げよう。
顔を上げて彼女の手を取れば、ここで初めて彼女と神力の制御の練習をしたことが思い出された。いつも私に何かを与えてくれたクロエの手。
この温かさを、私はいつまでも憶えておく。




