再会
2025年4月27日に大幅改稿を行い、一章と二章を統合させています。旧作品を途中までお読みだった方は一章「出会いから読み直していただけますと展開がわかります。
翌々日の午後、私は再び白鳥の館を訪れた。
「フェリクスはもう来てるよ」
出迎えてくれたレスリーが、彼が待っているという部屋まで案内してくれた。扉の前で彼女が振り返る。
「ヒマリ、手を」
自然に差し出された手は、もうずいぶん馴染んだもの。
私は首を振った。
「ありがとう、もう大丈夫」
「でも……」
「聖力はちゃんとコントロールできたし、彼に会うのも……大丈夫だから」
レスリーの手にいつも助けられてきたが、ここから先はひとりで進まなければならない。魔塔にレスリーがいない以上、この手はもう取るべきではないのだと、震えそうになる心を叱咤する。
生半可な気持ちで魔塔に帰ろうと決意したわけではない。私が顔を上げれば、レスリーの紫紺の瞳が寂しそうに揺れた。
「……わかった」
引っ込めた手で扉をノックするのに合わせて、私も背筋を伸ばした。
「フェリクス、待たせたわ」
レスリーに続いて部屋に入れば、そこにはフェリクスの姿があった。一部の隙もない魔法騎士の制服に、腰に佩いた大ぶりの剣。やや見開かれた銀の眼差しがまっすぐ私に注がれる。
「フェリクスさん、ご無沙汰しています」
スカートの裾を摘み、そう挨拶する。マナーについては元公爵令嬢のクロエ仕込み。間違ってはいないはずだ。修道院に来て以降、私だって無為に過ごしてきたわけではない。
「聖女様、ご健勝で何よりです。そして、再び面会の機会を賜りましたこと、大変光栄に存じます」
彼の姿を見ても、声を聞いても、もう恐怖は感じなかった。それどころか自然と言葉がこぼれた。
「長い間何もできず、閉じこもってばかりで本当に申し訳ありませんでした。それに、以前も……あなたを避けるようなことをしてしまって本当にすみません」
「そんな……! 聖女様が頭を下げられることなど何もございません」
「フェリクス。声を荒げない。ヒマリが驚いたらどうするの」
「はっ……」
レスリーに嗜められ、彼は再び頭を下げた。
「もう、レスリーったら。これくらい大丈夫よ。フェリクスさんも顔を上げてください。あの、まずは座りませんか?」
「いえ……、私はこのままで」
「だから、そのでかい図体を晒したままだとヒマリが驚くのよ。座って少しは小さくなってちょうだい」
「ちょ、ちょっとレスリー」
彼女とフェリクスが仲良くなったのは聞いていたが、ここまで気安く物を言える関係とまでは思っていなかった。しかもレスリーの話し方がいつもに比べて少々乱暴だ。
私とレスリーからの再三の要請を受けて、フェリクスはテーブルにつくことを了承した。ただしかなり広いテーブルの向こう側で、彼とはずいぶん距離がある。以前もこの部屋に通されてセリーナ様に挨拶させていただいたが、そのときのテーブルはここまで大きくなかった。物理的に少しでも距離をとれるよう、レスリーが配慮してくれたのだろう。
修道院に迎えに来てくれた騎士のうち、ミアだけが残って私の斜め後ろに立ってくれた。彼女ももちろん帯剣している。何かあれば対処するというより、私のすぐ近くで見守っているという気持ちが表れた布陣なのだと理解する。
私はいつだってこんなに守られている。だからもう怖くはない。そう気づけば、肩の力を抜いて笑うことができた。
「ずっと、近くの街に滞在しながら私を見守っていてくださったそうですね。ありがとうございます」
「いえ、それが私の役目です。聖女様がお礼を言われることなど何も……」
「それでも、ありがとうございます。レスリーにも修道院の皆様にも助けられて、私はここまで回復できました。聖力の制御もできるようになって、フェリクスさんともこうしてまた面会できたので、きっと大丈夫だと思うんです。だから、もしできることがあるなら、魔塔で働かせてもらえないかなと思いまして」
「働かせてなど……っ。聖女様にはこちらがお願いをする立場です」
「私にも何かできることがあればいいんですけど。あ、修道院の神力結界に力を混ぜることは成功したので、そうしたことならお力になれるかなって」
今日の計画は、すっかり元気になったことをアピールして、聖力の制御ができていることも証明して、これなら魔塔に帰っても暴走せずにやれるだろうとフェリクスに認めてもらうことだった。「それなら魔塔でぜひ働いてください」となればいいなと、安易に考えていたのだが。
「……聖女様がここまで回復なさったこと、私も大変嬉しく思います。その上我が国のために尽力くださるというお言葉まで頂き、感謝申し上げます。ですが……」
そう言ってフェリクスは苦い顔をしたまま、再び頭を下げた。
「我々は……いえ、私は、まず貴女様に謝罪をせねばなりません」
「ですから、それはもう」
魔塔にいる間に起きたごたごたは、彼の責任ではない。ハーラン王太子のことを乗り越えた私はもう十分やっていけると言いたかったのだが、信じてもらえないのだろうか。
困ったように首を傾げれば、隣でレスリーがまた咳払いをした。
「ヒマリあのね、この人たち、あなたにまだ伝えていなかったことがあるのよ。あなたがこの国に召喚された理由。本来、次の聖女様が召喚されるのは、大陸結界が綻び出し魔物が活発化する周期に合わせた百年後のはずだった。でも、ヒマリは今召喚された」
「うん。それは聞いてる」
時期外れの召喚だったことは何度か耳にした。自分という存在が意味のない穀潰しみたいだと落ち込んだことも記憶に新しい。
「その理由を、ヒマリは知る権利がある。だから魔塔に帰る話を進める前にそれについてフェリクスに説明してほしくて、今日は呼んだの。そうよね、フェリクス」
「はい。レスリー様のおっしゃる通りです。聖女様が魔塔に戻られる決意をなさったと聞き、その前に、我々の罪をお話しせねばならぬと思ったのです。私は今日ここに……懺悔に参りました」
膝に置いた手を強く握りしめたまま、フェリクスは静かに語り始めた。
魔塔のトップ、アウリクス大魔道士はカーマイン聖王国の子爵家の庶子らしい。
当主である子爵と平民のメイドの間に生まれ、魔道士の素養があったことから本家に引き取られ、幼い頃から魔塔で教育を受けた。長じて魔道士となってからはその実力と、半分しか血を引かぬ子として貴族の世界で培われた立ち回りのうまさで瞬く間に出世し、若くしてトップの地位に上り詰めた。一方で出自への強烈なコンプレックスから、高位貴族や王家への対抗意識は並々ならぬものがあった。トップの座についてからはさらに己の実力を誇示することに躍起になっていたそうだ。
そんな彼が大魔道士の地位を得た次に欲したものが、さらなる名声だった。大魔道士の名は魔塔の歴史に残るものの、長い歴史を誇るこの国ではやがて風化していくもの。歴代の大魔道士のひとりとして数えられるのでは足りず、燦然と輝く名として、己の存在を国や大陸の歴史に残したいと野心を募らせていた。
「そんな大魔道士様が目をつけられたのが”聖女召喚”なのです」
瞳を軽く伏せたままフェリクスが告げる。歴代の大魔道士の名前は歴史の片隅にひっそりと残る程度。だが聖女召喚に成功した代の大魔道士の名は、魔塔の人間なら誰しも諳んじることができるほど特別視されるものであり、各国にも知れ渡る。
己の名が後世の人々の記憶に残り、その口に上り続ける———彼はそんな未来に思いを馳せた。
「初めは反対意見が多くありました。筆頭は王家ですが、魔塔でも当然反対する者の方が多かったのです。聖女召喚はこの国のみならず大陸にとって神聖な儀。必要のない召喚など過去に例がありません。うまくいかなかったら……いやそれ以上に、なんらかの事情が働き二度と聖女召喚ができなくなってしまったら、この国や大陸の存続すら危ぶまれます。ですが、魔塔やこの国の昨今の立ち位置について不満の声も燻る中、元々求心力が高いアウリクス大魔道士様の呼びかけに従う者も増え始め……そして聖女召喚がなされました」
聖女召喚は本来、王族の神力を借りて魔道士たちの魔力を増幅し、それらを結集させることで行える。
だが王家は聖女召喚に反対した。特にマテラ王妃の声は一際強かったそうだ。
「マテラ王妃殿下は隣国ガンナ帝国のご出身。ガンナ帝国の皇帝は実の兄に当たる方です。各国を凌ぐ軍事力で威圧的な外交を行なっている方でもあります。我が国がそれほど脅威にさらされていないのは、マテラ王妃殿下の存在のおかげと、ここが聖女召喚の要である聖王国であるという理由からですが……ガンナ帝国一強の状況を快く思わぬ者たちも、魔塔には存在するのです」
魔塔の魔道士たちからすれば、自分たちは大陸六カ国の中で唯一聖女召喚を行える国だという自負がある。有事の際にはガンナ帝国など自分たちの下にひれ伏す存在とまで考える者も少なからずいる中、ここで聖女召喚に成功すれば、ガンナ帝国や、その権威を笠に着るマテラ王妃とその陣営の貴族たちのことも牽制できるのではと、アウリクス大魔道士の意向とともに広がった考え方は、やがて後戻りできぬほどに醸成されてしまった。
本来なら王族の神力が必要な聖女召喚。だが、今代にアウリクス大魔道士とフェリクスという、常人とは桁外れの魔力を持つ魔道士が揃っていたことが、状況を変えてしまった。
「かくして聖女召喚の儀が、王家には内密に執り行われました。そして聖女様、貴女様が召喚されたのです」
つまり私は必要だから召喚されたのでなく、アウリクスス大魔道士の名声を確固たるものにし、マテラ王妃陣営との権力闘争における魔塔の切り札になるべく召喚された、ということ。
そんな説明を聞いて……正直何もぴんとこなかった。
「そうだったんですね」
唇から溢れたのはそんなありふれた感想。それ以上でも以下でもない呟きに、レスリーが眉根を寄せた。
「ヒマリは怒っていいんだよ。だってそんな身勝手で元いた世界から勝手に連れてこられたんだから、怒るのが当たり前なんだよ」
「そうかな」
「そうよ! ヒマリはなんというか、いつも物分かりが良すぎ。何もかも奪われて連れてこられて、その上、自分たちの顕示欲のために祀られてくださいって言われて、はいそうですかって納得するなんて」
レスリーがぷんすかと怒っているのを、どこか不思議な思いで見つめてしまった。正面のフェリクスを見れば、銀の瞳を歪ませ申し訳なさそうに背中を丸くしている。どれだけ小さくなろうとしてもその大きな体躯は隠しようがなく、その姿につい吹き出してしまった。
「ヒマリ?」
「ごめんごめん、いやね、私に関することなのにレスリーが怒ってて、フェリクスさんはものすごく落ち込んでる感じで。それを見てたら、なんだか笑っちゃった」
「……笑い事じゃないでしょう」
「それは、もちろんそうなんだけど……でも、いいんだ、もう。私、この世界で生きていくって決めたし。以前フェリクスさんにもお伝えしたと思うんです。私をあの世界に帰さないでって」
今でこそはっきりと認められる。父が私に対してしていたことは虐待だった。その世界から逃げたくて一度は捨てようとした命だけど、ここで拾ってもらえた。
「私、ここに来てよかったって思ってるよ。レスリーとクロエに会えて幸せだなって。二人がいなかったらたぶん、回復することもないまま潰れてたと思う。それにせっかくつないだ命だもん。もう一度ちゃんと生きてみたい。私にやれることがあるんだったらやってみたい。新しい思い出を作っていこうって、レスリーが言ってくれたじゃない」
「ヒマリ……」
「ね? だからレスリーも応援して?」
隣に座った彼女の手に自分のそれを重ねる。少し祈りを込めればたちまち立ち上る青白い光。雪の結晶みたいにきらきら光るそれが輪になって広がっていく。
いつだってこの手は私に差し伸べられ、私の不安を包み込むように握ってくれた。私から握ったのはこれが初めてかもしれない。
「フェリクスさん、私、魔塔に帰ります。どうか、よろしくお願いします」
「聖女様、本当に申し訳なく……っ」
「だからそれはもう終わりにしましょう。そうだ、どうせなら名前で呼んでもらえませんか? 私、フェリクスさんにはきちんと名乗っていませんでしたよね。改めまして、ヒマリと言います」
屋敷の庭で見た向日葵のように笑えているだろうか。そう思いながら彼を見つめれば、フェリクスは眉間に皺を寄せ、絞り出すような声音で答えた。
「この命に代えましても、この先あなたをお守りいたします。ヒマリ様」




