訪問1
「あの、レスリー?」
「うん? なあに?」
「その、この手って、どうしたのかなって」
「だって、万が一聖力が暴走しちゃったら大変でしょう? つないでおいた方がよくない?」
「あ、なるほど……」
お屋敷の入り口で馬から下りた途端、レスリーに手をつながれた。そのままひっぱられるように屋敷へ入ると、使用人と思われる女性たちに頭を下げられ、応接室へと案内されたのだが。
廊下を進む間もレスリーは手を離してくれなかった。確かにこんな素敵な離宮で聖力を暴走させてしまったら大変だ。だが数ヶ月の訓練で落ち着いてきたし、もう大丈夫だよねとさっき話したばかりのはずだった。
私の困惑を嗅ぎ取ったのだろうか、レスリーが小さく首を傾げた。
「ヒマリは私と手をつなぐのは嫌?」
「そんなことないけど……」
「じゃあ、このままでいいよね」
「そ、そうだね……」
このままっていつまでだろう。もしかしてセリーナ様の前でもこのままなんだろうか。まさかそんなこと……とあたふたしているうちに部屋についた。中に案内されれば、小柄な女性が膝を折り、腰と頭を低く下げた状態で私たちを迎えてくれた。
「聖女様、初めてお目にかかります。レスリーの母で、ベローチェ男爵家のセリーナと申します。聖女様に見える機会を頂けましたこと、大変光栄に存じます。その上、拙宅への訪問を賜りましたこと、歓喜に耐えません」
「あの、はじめまして、ヒマリと申します。こんな格好ですみません。どうぞ顔をお上げください。ベローチェ男爵夫人」
「ありがとうございます。恐れながら、わたくしのことはセリーナとお呼びいただければ嬉しく思います」
「今日はご招待ありがとうございます。セリーナ様。私のことはヒマリと呼んでください。レスリーにもそう呼んでもらっているんです」
「ではヒマリ様。我が子と仲良くしてくださり、心より感謝申し上げます」
そうして上体を上げたセリーナ様は、十代の子どもがいるとは思えないほど若々しい方だった。髪の色も瞳の色も穏やかな色味で、金髪に紫紺の瞳のレスリーとは重ならない。レスリーはクロエと似た雰囲気があるから、父親似なのかもしれない。
「お母様、今日はヒマリと乗馬に出かけるだけだと、今朝も申し上げましたよね。なのに突然こんなお誘いだなんて」
やや口を尖らせるレスリーがつもより子どもっぽくて、つい吹き出しそうになってしまった。
「だって、窓からあなたとヒマリ様がこちらに駆けおりてくるのが見えて、とても楽しそうだったから、混ぜてほしいなって思っちゃったんだもの」
「思っちゃったって、仮にも元侯爵令嬢ともあろう人がそんな話し方なさらないでください」
「ところでレスリー、あなた、その手はなんですか」
「手がどうかしましたか?」
「いつまでヒマリ様とつないでいるの。それじゃお茶も飲めないでしょう」
「わたくしたちは聖力の制御の練習中なのです。ヒマリの右手は空いていますから、お茶は飲めます」
「あなたも右利きでしょう」
「お茶くらい、左手でも飲めます」
「あの、レスリー。私、少しくらいなら手を離しても大丈夫だと思うの」
そう口を挟めば、再び「ヒマリは私と手をつなぐのは嫌?」という先ほどの問答が始まってしまった。いったい今日のレスリーはどうしたのか。家の中では甘えん坊なのだろうか。
呆れたセリーナ様がそれならば席替えをと提案しかけたことで、レスリーはしぶしぶ手を離した。手をつなぐことが嫌なわけではないが、まだまだマナーに不安がある身で、つないだままではおちおちお茶も飲んでいられなかったのでほっとする。
「クロエ嬢はおいでじゃないのかしら」
セリーナ様の問いに、ミアが答えた。
「お誘いの伝言を向かわせましたが、修道院の規定もあり難しいとのことでした。先に修道院に戻るとのことで、護衛に送らせました」
「そう。残念だけれど仕方ないわね」
「あの、セリーナ様はクロエをご存知なのでしょうか」
「はい。彼女のお母上でいらっしゃるキンバリー元王女殿下……今はヨーク公爵夫人ですが、彼女とは幼き頃より仲良くさせて頂いていたのです。時折手紙のやりとりもありますわ。ただ、ここ半年近くは途絶えておりますが」
説明を聞いて、彼女たちの関係図を思い出す。セリーナ様は国王陛下の正式な婚約者だった。その国王陛下の姉がクロエの母親。幼い頃から婚約が結ばれるような関係だったとすれば、交流もあったことは想像できる。愛妾という立場が正式な結婚ではないことを除けば、セリーナ様とクロエの母親は義理の姉妹になるし、クロエはセリーナ様にとって姪に当たる。
「わたくしは陛下の側に上がって以降、この離宮から出ておりませんので、クロエ嬢にお会いしたことはないのです。キンバリー様の娘であればさぞかし美しく麗しく成長なさったことでしょう。叶うことならお目にかかりたいと長い間ずっと思っておりました」
瞳に滲むのは慈しみの色。会ったことのない姪を心配する気配がそこにはあった。この方はクロエのことも大切に思ってくれているのだと嬉しくなった。
「クロエには本当にお世話になっているんです。とても綺麗で、優しくて、優秀で。立ち姿も美しくて。貴婦人の鏡のような素晴らしい女性です」
我がことのようにそう自慢すると、セリーナ様は頬を緩ませた。だがすぐにその笑顔に陰りを見せた。
「そのように素晴らしく成長された御令嬢があのような目に合い、神の家に入ることになるなど、本当においたわしい限りです。しかも公爵家から勘当されるかのような扱いだったと。ヨーク卿やキンバリー様に限って、そんな無体なことをなさるはずはないと信じたいのですが……」
「お母様。ヒマリが驚いているわよ。クロエさんのことはそのくらいで」
「そうね、ヒマリ様。申し訳ありません。聖女様のお耳にこんなことを入れてしまうなんて」
「いいえ、大丈夫です。でも、セリーナ様とクロエがお会いできる機会がないか、私も探してみますね」
そう告げると、セリーナ様は「ありがとうございます」と目を伏せた。
「ふふっ、それにしても、レスリーに聞いていた通りでいらっしゃいますね。ヒマリ様はとても優しく、忍耐強い、かわいらしい方だと、修道院から戻ってくるとずっと貴女様のことばかり話していますのよ」
「お母様……っ! そんな話はしなくていいです!」
「あら、あれもダメこれもダメ。これでは話すことがなくなってしまうではないの」
「だったら黙ってお茶でも飲んでてください!」
「まぁこの子ったら。そんなにヒマリ様を独り占めしたいのね」
「えぇそうです! 何か悪いことでもありますか?」
堂々と宣言されて、さすがの私でも顔が火照るのを感じた。
「あの、レスリー。ありがたいんだけど、なんというか、ちょっと恥ずかしいというか……」
「え……あ、わたくしったら、つい!」
こちらを見たレスリーの顔もまたぽぽぽっと赤くなる。お互い居た堪れなくてふと視線を逸らすと、お向かいから高い笑い声が湧き上がった。
「まぁまぁ、かわいらしいこと。まるで本当の姉妹のようね」
見ればセリーナ様が口元に手を当てて笑っていた。
「……わたくしとヒマリに血のつながりはありません」
「例え話だわ。そんなにムクれなくても」
くつくつと笑いを堪えながら、セリーナ様がふと改まった。
「ヒマリ様、どうかお礼を言わせてください。レスリーに良くしてくださって、心から感謝申し上げます。ご存知かとは思いますが、非常に立場が複雑な子でして、幼き頃より友人と呼べる者を傍に置いてやることもできませんでした。聖女様を友人と申し上げるのは大変烏滸がましいことではございますが、お許しいただけるのであれば、これからもお付き合いくだされば、親としてこんなに嬉しいことはありません」
「私も、レスリーのおかげで聖力の制御ができるようになったんです。レスリーがいなければ、こうしてこのお屋敷でセリーナ様にお会いすることもできませんでした。彼女が私に自由をくれたのです。感謝するのは私の方です」
「ヒマリ様にそう言っていただけて本当に光栄ですわ。レスリーがこれからも生きていけるのは、ヒマリ様のおかげです」
「?」
仰々しい物言いに一瞬言葉を失う。その隙にレスリーがお菓子の載った皿を私に差し出してきた。
「ヒマリ、このお菓子ぜひ食べてみて。うちの料理人の自信作なの」
「え、うん、ありがとう」
勧められるままひとつ手にして口に入れる。日本で言うところのプチシューのような食感だ。中のクリームがこっくりしていて甘い。隣でレスリーが同じものを口に入れたのを見て私はぎょっとした。
「レスリー? これ、甘いけど大丈夫? 前に、甘い物は医者に止められてるって!」
「え? あ、あぁ、あれね。あれ、もう大丈夫になったの。だからお菓子も食べられるわ」
「そうなの? 良かった。レスリー、ずいぶん痩せてたでしょう? 心配してたの。最近は少しふっくらしてきたよね。背も伸びた感じだし」
「ヒマリ、気づいてたんだ……」
驚いたようにそう呟くレスリーに、私も苦笑しながら頷いた。
「そりゃ、私も痩せ気味で、エラ先生からたくさん食べるようにって言われてたからね。だけどレスリーは私よりも華奢っていうか、背がもともと私よりは高いじゃない? だから余計に目立ってて、クロエとも心配してたんだよ」
「そっか……うん、そうだよね。そうしなきゃいけない事情があって、それでいいっていうか、今まではちょっと無理してたんだけど」
「え?」
「あ、ううん。なんでもない。ほらわたくし、元々身体が弱いって言ってたじゃない? だから食事もあまりとれなかったんだけど、体調がだいぶ良くなってきたから、食事の制限もしなくてよくなったの。これからまだまだ身長も伸びて筋力もついていくと思うわ。だからいつかまた一緒に馬に乗りましょう? 今度はわたくしがミアの代わりにヒマリを乗せてあげるから」
「うん、それは楽しみだけど、でも無茶しないでね。レスリーはまだ十六歳なんだから、急いで大人にならなくてもいいんだよ」
私自身は境遇のせいで早く自立を目指さざるをえなかった。だがレスリーは、置かれた状況は複雑でも、彼女を愛する人たちに囲まれている。今この状況を楽しむのも幸せなことなのにと思いながらそう伝えれば、なぜか彼女は唇を噛んだ。
「……ヒマリは十八歳なんだよね。その、前の世界で社交界デビューしてたの?」
「まさか。私の世界に社交界なんてないもの。ただの庶民だったし」
「じゃあ、まだ成人していなかった?」
「私の世界では十八歳になると成人扱いなの。だから成人はしてたよ。私、夏生まれだから。あ、そういえばレスリーの誕生日はいつ?」
「わたくしは冬の生まれよ。二月生まれ」
「じゃあまだ十六歳とちょっとね。余計に焦って大人にならなくてもいいんじゃない?」
「わ、わたくしは早く大人になりたいの!」
「そうなの? でも、大人っていいことばかりじゃないし。子どものうちにしかできないことを今楽しんだ方がいいんじゃないかな。ほら、お母様に甘えるとかも、今だからできる特権かもよ?」
こんなに優しい母親がいるなら、甘えられるうちに甘えたらいいのにと思う。どうせいつかは歳をとるのだから、私のように早く大人にならなければならない事情があるのでない限り、今を楽しんでもらいたい。
そこに深い意味はなかったのだが、なぜか正面に座るセリーナ様と背後に控えるミアが大笑いしており、そんな中、隣に座るレスリーは膨れっ面でお茶を飲み出した。




