決別(sideレスリー)
この回は旧作品二章にあった話を、改稿にともない一章内に移植したものです。
私が聖力の制御を手伝っている話は、すでに王都の一部の貴族たちの間では知られている。
その事実を掲げて男だと表明すれば、聖女を味方につけた王子として一気に注目を浴びることになるだろう。
だが今はまだこの切り札を使える状況にない。フェリクスの調べで、王妃の権力は近衛や政治の中枢にまで及んでいるとわかった。ここ半年ほどで一気に勢力を増したのは、父王が体調不良となり、政治の第一線から退いて療養を始めたせいでもある。
ただの虚栄心の塊と、王妃を侮るのはあまりに愚策。数少ない切り札を、今はまだ隠し続けるしかない。そう考えながら、ほかに出来ることを探した。
その一環で、聖力の制御に慣れてきた彼女を外へ誘ってみることにした。いずれは王都へと戻り、聖女として立つためにも、外へ出ることや男性と同じ空間にいることに慣れてもらわなければならない。聖力の制御に関しては問題ないところまできたが、二番目の問題については時間をかけて進めないと、彼女をまた傷つけてしまう。
第一歩として修道院の周りを散歩してみることにした。クロエ嬢も特別許可のもと後ろからついてきてもらい、私がヒマリの手を引いた。外の世界を怖がるのではという危惧はまったくの杞憂で、ヒマリは弾みでもつけるかのように修道院の外へと足を踏み出した。
丘陵地に佇む修道院の周囲は見晴らしのいい平原だ。麓に街があるのと、白鳥の館がある以外に物珍しいものは何もない。それでもヒマリは目を輝かせてその光景を楽しんでいた。平原の中に色鮮やかな赤い花が咲いているのも、私にとっては見慣れた光景。それがアネモネの花だとクロエ嬢が教えてくれた。十六年間目にし続けていた花に名前があることを、私は初めて知った。
思えばヒマリと出会ってから初めて味わうことばかりだ。対等な立場の者と砕けた話し方をするのも、誰かと手を繋ぐのも、自分の内なる神力の存在を知ったのも、誰かの涙を止めたいと思ったのも。手にできた血豆が潰れたことに、痛み以外の感情を覚えたのも、ヒマリの存在があったからだと思えば、身体の奥がくすぐったいようなじれったいような、不思議な気持ちに駆られる。
修道院の長い壁づたいに歩きながら、あの角を曲がれば離宮が見えると告げると、ヒマリは一段と瞳を輝かせた。いたずらに心が騒いで、彼女の耳に囁いた。
「ねぇ、ヒマリ、走るのは得意?」
貴族の女性たちは無闇に走り回ったりなどしない。令嬢として育てられるまでもなく知っている。それでも私は彼女を誘ってみたかった。苦手ではないと答えた彼女に嬉しさが増し、合図を出す。駆け出しざま彼女の手を強く引くと、その手は離れることなくたちまちすぐ隣まで駆け上がってきた。
「あっ! ヒマリ様、レスリー様!」
「皆、遅れるな! 追え!」
背後でクロエ嬢の小さな悲鳴と、さらに離れたところから女性騎士達が慌てる音がした。それを振り切ってヒマリとともに駆ければ、息を弾ませながらも私のスピードにしっかりついてきた。
「あそこを曲がるまでは捕まらずに行こう!」
見えた修道院の壁の角を曲がり、二人で離宮を見下ろす。白鳥の飛来する湖と、湖面にまでその美しさを映す屋敷の光景が広がる。かわいらしいと褒めてくれたヒマリに素直に応じることができず、その機能性のなさをぼやきながらも、以前感じた鳥籠のようだという濁った思いが、とっくに私の心からかき消えていることに気づいた。
追いついてきたミアたちを振り切るように再び手を引けば、ヒマリは驚きながらもついてきた。
熱くなった手のひらにさらなる熱を込める。すぐ隣で同じように息を弾ませて、同じように笑って、同じものを見ていたい———そんな渇望が湧き上がってきた。
この感情を、どう表したらいいのかわからない。
後からミアに「女の子相手に全力疾走するとは何事ですか!」と大目玉を喰らった。そっぽを向いてやり過ごしながらも、心の中で彼女と走り抜けた短い時間を思い出してにんまりする。
ヒマリはしっかりついてきてくれた。そのことが、生きることを取り戻した私にはこの上なく嬉しかった。
ヒマリに背中を押されるように、決意を胸に秘めて訪れた《《彼》》の部屋。
王妃を筆頭とする王妃派と対抗する上で、私に圧倒的に足りないものは戦略だ。
幸いなことに私の傍にはブレインにうってつけの人物がいた。皮肉屋で口が悪く、世間の荒波に揉まれすぎて丸くなるどころか尖りすぎてしまったものの、その抜け目のなさと正確性は絶対的に信用できる。
フェリクスを従え《《彼》》の前に立てば、六年間私を導いてきたその人は鼻を鳴らした。
「はっ! ようやくお目覚めですか。長かったですねぇ。お姫様が板につきすぎて、王子様のキスがないと起きられないのかと思っていましたよ」
相変わらずの皮肉に苛立たしさを感じたものの、すべて彼の言う通りなので反論のしようもない。黙っていればアダム先生はここぞとばかりに辛辣さを撒き散らした。
「私は死んでも王子様役なんて御免ですから放置してたんですけどね。あなたが起きなくても支障はありませんし。でも、目が覚めてしまったならしょうがありません。王との約束もありますしね。それで? 何をしたいんですか?」
「まずは、本来の身分を取り戻したいと思います。私はカーマイン聖王国の国王の息子だと世に知らしめたいのです」
「それは簡単に為せるでしょう。女ではなく男でしたと名乗りをあげればすむこと。問題はその先です。あなたにどこまでの覚悟があるんですか」
その先と問われ、一瞬押し黙った。その隙を見逃してくれる先生ではない。
「呆れましたねぇ。そんな生半可な気持ちで名乗りをあげても、あっという間に踏み潰されておしまいですよ。連座で私も、そこの魔法騎士様の命も取られます。母君のご実家のアセドア侯爵家もお取り潰し。あなたの大事な聖女様を守るどころか、身包み剥がされて終わりです」
ヒマリの話はこの人の前では最低限しかしていなかったはずだが……どこまでいってもお見通しということかと妙な気持ちになる。
自分とて生半可な気持ちで名乗りをあげようと思ったわけではない。だが私には何も材料がなかった。
一見均衡を保っているかに見える大陸六カ国ではあるが、武力で他を圧倒するガンナ帝国が頭ひとつ抜けているのは明らかだ。各国は細かな条約や対外政策で、帝国に有利な条件をつけさせられている。
そしてカーマイン聖王国もまた、マテラ王妃の存在を全面に押し出し、帝国の後ろ盾を匂わせる外交をずっと続けてきた。王城の役人は何かにつけ王妃の名を出し、自国の有利性を保てる外交政策をとっている。いわば虎の威を借りる狐に成り下がっているのが昨今の聖王国の現状だ。外交手腕を振り翳さずとも自国に有利な条約が結べるため、役人の政治的な手腕は衰えてしまっても、情勢としては非常に安定しているというなんとも皮肉な状況。そのため役人の間でマテラ王妃の人気は意外と高いのだ。
また軍事力としては各国に劣る近衛騎士たちも、武力に頼らずとも強気でいられる今の状況に満足しているためか、マテラ王妃を支持する派閥がそれなりにある。
王妃はもともと己と息子の身が安定し、王が愛妾への目移りを最小限にとどめていれば満足で、政治への口出しはほとんどしない。それも相まって、親子の資質はさておき、こちらが思う以上に彼らには粗がないというのが、フェリクスと私が分析した今の状況だった。
そうした状況下で、私が彼らの上に立つことはかなり難しい。アダム先生に詰められ言い返そうとしたものの、手札はなく、言葉も良案も見つからない。
言い訳ではなく素直にそう打ちあければ、先生は人の悪い笑みを浮かべた。
「持ち札が悪ければ小細工をすればいいだけのこと。何も直情的に行動することだけが戦い方ではありません。ときにレスリー様、あなた、王位を簒奪するつもりはありますか」
国王が支配するこの国で、口にするだけで命を失いかねないその言葉に、ひゅっと息が漏れそうになるのを飲み込んだ。王位についているのは父だが、彼が示したのは父のことではないとわかった。
義兄のことを羨ましいと思うことはあった。恵まれた状況にあぐらをかいて、為すべきことを為さない下劣者だとも。何よりヒマリやクロエ嬢に対してやらかしたことは到底許せるものではない。ただ、彼が正妃の息子であり、正当な後継者であることは揺るがない。
そんな彼を廃するということ。それは私自身が簒奪者となるということでもあった。その方法をとれば、引き返せないどころか、絶対に失敗できない賭けに身を投じることになる。
失敗すれば先ほどアダム先生が口にした通り、連座ですべての人が命をとられることになるだろう。何も為さぬまま死を迎え、歴史の闇に葬られて終わりだ。
先生に問われた一瞬でそこまでのことを考え———そして頷いた。
「あります」
「結構。では手を結びましょう。ここから先はすべてを賭とした戦いとなります。私はあなたの護衛騎士やそこの魔法騎士様のように優しく慰めるつもりはありません。せいぜい喰らいついてきてくださいね」
「もちろんです。何かをしても罪に問われ、何も為さなくても罪になるなら……私は行動する方を選びます」
逃げるのではなく、戦うために生きたい。そのために王妃と王太子を引き摺り下ろすことが必要と言うなら、やってやろうじゃないか。
この行動が成功すれば、ヒマリの手をずっと握っていられるかもしれないと思えば迷いはなかった。
すべてを放棄してきた過去と決別し、私は生きることを選択した。




